第30話 志道の恩返し・前
吉原宿に別れを告げ、富士川を越えて海岸沿いをひた進むと、やがて薩埵峠に差し掛かる。この辺りは山が街道の間近にまで迫っているため、古来より旅人は崖下の波打ち際を岩や浅瀬をつたって行く危険な下道を通らなければならなかった。
江戸時代に入ってようやく、下道に代わる峠越えの中道が開かれたが、断崖絶壁の険しい山道を歩く恐怖と困難さは、下道と比べさほど改善されたとは言えず、依然として東海道最大の難所の一つとしてあり続けた。
だが最近、その難所に劇的な変化が訪れる。九年前に起きた安政大地震で海岸線が隆起し、崖下を歩けるようになったのだ。
「あそこが前は海だったんですね」
強い海風の吹き上がる峠道から恐る恐る下を覗きこむと、木々の合間にむき出しの岩肌がかいま見える。
「地形を変えてしまうなんて、よっぽど大きな地震だったんですね」
「ですね、ってお前、まるであの時の地震を知らんような言い様じゃな。かなり大きな地震じゃったけぇ、あちこちで被害が出ちょったじゃろうが」
「えっ!? あ、そ、そうでしたっけ?」
(そりゃ、知るはずないよ! その頃はまだこの時代にいなかったんだから)
内心の動揺を隠し、露骨に不審な顔をする志道から強引に話を戻す。
「あ、でも、やっぱり道は険しくても、景色は断然こっちの方が良いですよね」
手前に新緑の山、縹色の海の向こうに見える富士山。実に絵になる風景だと思えば、しっかり歌川広重の浮世絵にも、薩埵峠から臨む富士山が描かれているという。今日はあいにく、裾野が少し雲に隠れているが、それでも思わずじっと見入ってしまいたくなる絶景だ。
「そうじゃな、苦労して山を登るだけの価値はある」
草月の言葉に高杉が乗って、地震の話はそれきりになった。
この日は興津で泊まり、翌日は城下町として栄える府中まで足を延ばす。府中を発った一行の次の宿泊予定地は三つ先の藤枝宿だ。
「この本によると、藤枝宿では瀬戸の染飯と、ほととぎす漬っていうのが有名なんですって。今日の夕飯はこれで決まりですね!」
嬉しげに道中記に指を滑らせる草月を横目に、志道は呆れたように鼻を膨らませた。
「さっき握り飯を食ったばかりでもう次の飯の話か。色気より食い気の女じゃのう」
「あのね、迷惑かけてる分、せめて観光案内しようとしてるんです。いちいち揚げ足とらないでくださいよ。なんなら府中の遊郭に泊まってくれても良かったのに」
草月はじろりと志道を見下ろした。
いつもは見上げる頭が、今は自分の腰の位置にある。歩き通しで足首を痛めた草月を、高杉が問答無用で馬に乗せたのだ。
「どこの世界に主人歩かせて、自分だけ馬に乗ってる従者がいるんですか!」
という草月の抗議はあっさり無視された。
丸子宿で雇った馬子の老爺は、無口なのか、それとも口喧嘩に巻き込まれまいとしているのか、表情を変えることなく、黙々と歩いている。
「誰のせいで遅れちょると思っちょるんじゃ。大体、わしらは東海道は何度も通っちょるけえ、今さら観光案内もないわ。その染飯にしたって、単に米に色をつけて固めて干した携帯食じゃ。たいして美味くもない」
「えっ、そうなんですか? 期待してたのに!」
丸子のとろろ汁は美味しかったのに、と至極残念そうな顔をする。かと思うと、ぱっと顔を上げ、
「そうだ、名物には詳しくても、これはどうです? 『東海道中膝栗毛』の中で、弥次さん喜多さんは、とろろ汁を食べにお茶屋に入ったけど、結局食べずに出てくるんです。どうしてだと思いますか?」
「そんなもん、金がなかったとか、そういうことじゃろ」
「残念、違います。正解は、お茶屋の夫婦が、大喧嘩したからです。旦那さんが擂粉木で女将さんに殴りかかって、女将さんも負けじと擂鉢を投げ付けて、仲裁に入った隣の家の女将さんもろとも、とろろ汁まみれになったんです」
「どれだけはた迷惑な夫婦なんじゃ」
志道はぶはっと噴き出した。
一行が今歩いている宇津ノ谷峠は、起伏のある険しい山道で、左右から迫り来るような山に囲まれ、昼間でも薄暗い。特に今日は、空にどんよりと厚い雲が垂れ込め、今までの春の陽気はどこへやら、真冬に舞い戻ったかのような寒さである。冷たい風が頬を撫で、草月はぶるっと体を震わせた。
「熱い酒でも一杯飲みたい気分じゃのう」
さすがの志道も閉口気味だ。
「岡部宿まではまだ遠いんですか」
「いや、あと四半刻もあれば着く。宿場の中ほどに、『松屋』という店があるけぇ、そこで休もう。……お夏というて、今年十五になる娘と、母親の二人でやっちょる団子屋でな。父親は早くに亡くしたらしいんじゃが、母娘助け合ってこれまでやってきたそうじゃ」
「やけに詳しいのう、聞多。さてはそのお夏というおなごが美人で口説いたな?」
「阿呆。若いおなご好きの俊輔と違って、わしは色気のある年増好きじゃ。……お夏には、前に腹を下して参っちょったところを助けてもらったんじゃ。それから岡部を通る時は寄るようになってな」
峠を抜けると、すぐ右手に地蔵堂がある。
馬子の老爺によると、そこに祀られている地蔵には、人に化けて稲刈りや田植えを手伝ったという伝説が残っており、地元では『稲刈地蔵』『鼻取地蔵』と呼ばれ親しまれているそうだ。今でも人は何か願い事があると、この地蔵に鎌を供えてお願いするという。
「あっ、今ちょうど拝んでる人がいますよ」
可愛らしく髪を桃割れに結った少女が、地蔵の前で熱心に手を合わせている。終わって立ち上がった少女の顔を見て、志道があっと叫んだ。
「お夏?」
「――志道様!?」
お夏、と呼ばれた少女は驚いたように顔を上げた。その頬に涙が幾筋も流れている。
「どうしたんじゃ、お夏。何を泣いちょる。母御が病でもしたか」
「い、いいえ、何でもないだよ」
お夏はごしごしと目を擦って、
「ちいっと目にごみが入っただけだで……」
「何ものうて、お前が泣くか。あんな熱心に手を合わせて、何か地蔵にすがりたいことでもあったんじゃろう。ここで会ったのも、何かの縁じゃ。話してみい。わしで力になれることがあるかもしれん」
志道に諭され、お夏はぽつりぽつりと話し始めた。
*
半月ほど前のことである。
お夏が買い物をしに通りを歩いていたところ、大きな荷物を抱えた男とぶつかった。五郎蔵という町でも有名な破落戸だった。ほんの少し肩が触れたくらいだったのに、五郎蔵は大袈裟に地面に倒れ込むと、家宝の壺が割れた、弁償しろと因縁をつけてきたのだという。
お夏は脅されるままに十両もの借用証文を書かされてしまった。それからというもの、何度も店に押しかけてきては、金を払えと騒ぎ立てる。
「近頃はお客さんも怖がってお店に近づかねえし、昨日は、お金が払えないなら、身売りしろとまで言ってくるで、もうどうしたらいいだか……」
大粒の涙が、堪えきれなくなったようにいくつも零れ落ちる。
「なんちゅうふざけた奴じゃ! お夏、そんな奴の言うことなぞ、聞かんでええ!」
「そうよ! そんなの、ただの言いがかりじゃない!」
憤然とする志道の横で、草月も拳を握りしめる。
「二人とも落ち着け。確かに絵に描いたような当たり屋の手口じゃが、証文がある以上、番所に訴え出ても埒が明かんじゃろう。まずはその証文を取り返すのが先じゃ。……その男の居場所は分かっちょるのか?」
「はっきりとは……。けんど、いつも仲間の卯吉と亥助と一緒に町はずれの集落からくるだよ。右目の上に大きなほくろがあるで、見たらすぐ分かると思うだ」
「お夏、安心せい。そいつらにはわしらが話をつけてやる。とりあえずは店に戻るぞ。母御が心配しちょるじゃろう」
四方を山に囲まれた岡部宿は、全長十四町足らずの小さな宿場町だ。馬子の老爺とは宿場の入り口で礼を言って別れ、四人は『松屋』に向かった。
「おっかさん、帰っただよ」
いさんで店に入ろうとしたお夏を、志道が無言で制した。
店内から、言い争うような声が聞こえたからだ。
団子の香ばしい匂いがする店内に、破落戸風の若い男が三人、怯えた様子の女を取り囲んでいる。お夏の母親だろう。
「……んだで、娘はどこだって聞いてるだ! 俺っちは家宝の壺壊されて迷惑してるだよ。金がないなら、娘を売ってでも払ってもらうだ」
「娘は……、お夏は絶対に売ったりしないだ。お金なら、ちーっとずつでもお返しするだで、堪忍してくりょー」
「うるせえ! そんな悠長に待ってられんだ。えいからげんにちゃっちゃと娘を出すだ!」
振り上げた拳は、だが、後ろから伸びた腕に止められた。
「女に手を上げるとは、穏やかじゃないのう」
「な、なんだおまっちは」
驚く男の右目上に大きなほくろ。
「なるほど、お前が五郎蔵か。さしずめそっちの二人は卯吉と亥助じゃな」
「何で俺っちの名前を知ってるだ」
「気にするな、ただの通りすがりじゃ。じゃが……」
にたりと笑った志道は、五郎蔵を掴んだ手に力を込めた。
「女の窮地は放っておけん性質でな」
骨が軋むほどの力に、五郎蔵の口からたまらず悲鳴がもれる。
「お、おい、五郎蔵の手を放すだ!」
慌てて助けに入ろうとする仲間の喉元に、高杉は刀の鞘を突きつけた。
「僕もその奇特な性質の一人でな。顎を砕かれたくなかったら、動かんことじゃ」
その間に、草月とお夏は母親に駆け寄り、部屋の隅へと退がらせている。
「さて、わしらの言いたいことは分かるな? さっさと、お夏の書いた証文を渡すんじゃ」
「わ、分かった、分かっただよ! けんど、今は持ってないだ。本当だ! 証文は山の中の隠れ家に置いてあるだよ」
「ならそこに案内せい。逃げようとしたら、今度こそ、その腕使えなくなると思え」
*
草月をお夏母娘のもとに残し、志道と高杉は五郎蔵達の案内で、薄暗い山道を登っていく。道といっても、多少下草が踏み均された程度のけもの道で、足場も悪ければ視界も悪い。目に当たる枝や飛んでくる虫を避けながら、山の中腹程までやって来たが、いっこうに隠れ家らしきものは見えてこない。
「おい、まだなのか?」
いらつきを隠しもせずに志道が問いかけた時だった。
前を歩いていた三人の姿が消えた。
「――待て!」
追いかけようと踏み出した足が、空を踏み抜き、体勢を崩す。黒い土が迫ってきたかと思うと、高杉と志道はあっという間に急斜面の崖を下へ転げ落ちていた。
「はっはー、ざまあみろ、クソ侍!」
全身土まみれになった二人を、上から覗き込んだ五郎蔵達が勝ち誇った顔で囃し立てる。
「腕っぷしでは負けても、この山のことなら、俺たちのほうが詳しいだよ。そこで一生埋まってるといいだ。その間にお夏は貰っていくだで」
破落戸達の嘲笑が遠退いていく。
「クソっ、やられた! 早く追いかけんと、お夏たちが危ない!」
「分かっちょる。とにかく急いで上がるんじゃ」
滑りやすい崖をすったもんだの挙げ句、やっとのことで這い上がり、山を駆け下りる。麓で偶然、先ほどの馬子に会い、
「爺さん、すまんが馬を貸してくれ! 酒手は弾むぞ!」
二人ひらりとまたがると、馬の腹に思い切り蹴りを入れた。




