春雨の宿・後
平太が小屋へ消えて、しばらく経った。
むっつりと黙り込んだ草月を観念したせいだと思ったのか、男は聞いてもいないのにぺらぺらと良くしゃべった。いわく、この賭場は侠次郎親分という大侠客の縄張りで、手下は何十人もいること。もしここで騒ぎを起こせば、武家であろうとただではすまない、ということ。
「運が悪かったな。餓鬼なんざ放っときゃあ、こんなことにはならなかったのによ」
耳障りな男の言葉を努めて右から左へ聞き流しながら、草月はただひたすら小屋を凝視していた。
右の手のひらに、まだ温かな感触が残っている。去り際、平太が草月の手を握っていったのだ。まるで、『大丈夫だから心配しないで』、というように。
やがて小屋の戸が開き、中から灯りを持った平太が出てきた。
続いて男が一人。
影になって顔は良く見えないが、あれは――。
「……おっ、やっと餓鬼が戻ってきた。おおい、兄貴、こっちだ!」
人影に向かって、男が身を乗り出すように手を振る。男の気が自分から逸れたのを草月は見逃さなかった。掴まれていた腕をねじり上げて拘束から抜け出すと、間髪いれず急所に足蹴りを食らわせたのだ。
男は、ぐえっと悲鳴を上げて飛び上がった。
「ああ、もう、さっきからぺらぺらとうっとおしい! あのね、こう見えて、伊達に何度も悪党相手にしてないのよ! 護身術くらい、習ったっての!」
「このアマ……!」
痛みか怒りか、その両方か。顔を真っ赤にした男が草月に手を伸ばした時には、すでに草月は十分距離を取っている。
そこへ、平太と共に駆けつけた男――高杉が、面白そうに二人を見比べて、
「何じゃ、草月が危ないというから、勝負を放り出して来てみれば。こりゃ、加勢は要らなかったのう」
「何言ってるんですか、私一人じゃ、逃げ出すくらいが精一杯ですよ!」
「そうは見えんがの」
いまだに片手で急所を押さえて動けずにいる男を見てにやりとしてみせる。
「ありゃ、相当効いちょるぞ」
気の毒に、当分女遊びは無理じゃのう。ちっとも気の毒がっていない様子で笑っている高杉はひとまず脇に追いやり、草月は目を丸くして固まっている平太の前にかがんで、
「ありがとう、平太君。高杉さんを連れて来てくれて。きっと来てくれるって思ってたよ」
「う、ううん、おいらこそごめん、こんなことになって」
「……平太、てめえ、裏切るのか!」
脂汗を流しながら、男が凄む。
「母親がどうなってもいいってのか?」
卑怯な脅しにも、平太は怯まなかった。しっかりと両足を踏ん張り、男に言い放つ。
「うるせえやい! おいら、もう嫌だ。これ以上、悪いことはしたくねぇ! おっかさんの薬代だって、おいらが働いてきっと何とかするだよ」
「良く言った、坊主! その調子で、あっちの奴らの相手も期待しちょるぞ」
「へ?」
高杉の言葉に草月と平太が揃って振り向くと、小屋から、てんでに木刀やら長刀やらの武器を持った男達が飛び出して来るところだった。
その先頭を、一目散にこちらへ走ってくるのは志道だ。
「おう、待てよ兄ちゃん達、勝ち逃げしようたってそうはいかねえぜ」
「――勝ってたんですか!? イカサマなのに?」
合流した志道は偉そうに顎をそらせた。
「下手なイカサマを見抜けないほど伊達に遊び回っちょらん。逆にイカサマを仕掛けてたらふく稼いでやったわ」
「志道さん、それ、自慢になってないです!」
二十人の武装集団に囲まれているという危機的状況も忘れて思わず突っ込む。
「それよりどうするんですか、これ! 勝算はあるんでしょうね!?」
「はん! 何を言っちょる? ようやく面白くなってきたところじゃぞ? 勝敗の見えた勝負なんぞつまらん。単調な旅で退屈しちょったところじゃ。久しぶりに大暴れしてやる」
「つまりそれって勝算なしの大勝負ってことじゃないですか!!」
まさに一触即発。
今にも乱闘が始まらんとした、その時。
「やめんか!」
空を切り裂くような一喝が響いた。
ざっ、と人垣が割れ、六十がらみの初老の男がゆっくりと姿を現す。男にしては小柄な方だろう。だが、その全身から発せられる気迫に、思わず圧倒されそうになる。
太い眉の下にある鋭い目がぎろりと男達を一瞥し、
「何じゃこの騒ぎは」
「き、侠次郎親分!」
急所の悶絶から立ち直った男が駆け寄り、かいつまんで状況を説明する。黙って聞いていた侠次郎は、聞き終えるや、かっと目を剥いた。
「……こンの、大馬鹿者がぁ!」
怒号と共に、男の体が吹っ飛んだ。
あまりに予想外の展開に、手下だけでなく、草月ら四人も唖然とするばかり。
「お前たち、それでもこの侠次郎の子分か! その餓鬼を使って旅人からこそこそ小金を巻き上げてたのは知っておったが、堅気の娘さんにまで手を出そうとした上、博打でも良いようにしてやられるとは情けねえ!」
草月らに向き直り、
「旅の方、うちの若い者らの無礼、申し訳ねえ。侠次郎の手下が女子供にしてやられた、なんて世間様に知られたとあっちゃあ、商売上がったりだ。お侍さんよ、その餓鬼見逃す代わりに、今日のことは水に流してくれねぇか」
そう言って深々と頭を下げる。さすが、親分と呼ばれるだけあって、気持ち良い潔さだった。もちろん、こちらも事を構えるのが本意ではないから、快く受け入れる。
「平太君? どうしたの?」
男たちが去っても下を向いたまま動かない平太を怪訝に思った草月が声をかけると、平太は意を決したように草月らを見て、そして勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい! おいら……、おいらのせいでこんな騒ぎになって……」
「平太君、そんなの気にしないで――」
「そうじゃのう、迷惑かけられたんじゃ。侘び代をもらわんことにはのう」
草月の言葉を遮り、志道が凶悪な顔で平太に手を伸ばした。
「志道さん!」
身を乗り出しかけた草月を高杉が無言で制す。
志道の手は、身を竦めた平太の脇を掠め、腰にぶら下がった巾着を掴んだ。中からとろりとした卵色の石を取り出し、もったいぶるように、矯めつ眇つしてみせる。
「お前は気付いてなかったようじゃが、これはなかなか良いもんじゃぞ。まあ、五両はくだらんじゃろうが、ただで貰うほどわしも鬼ではない。二両で譲れ」
「え、でもこれ、ただの石……」
「聞多の目利きは確かじゃからの」
脇から高杉も手を伸ばす。
「僕はこれをもらうかの」
「……。……じゃ、私はこれ」
くすりと笑って、草月も二人に倣う。
すべすべした若草色の石とほんのり薄桃色をした石が高杉と草月の手に渡り、代わりに二朱金が五枚、六枚と平太の手のひらに乗せられる。
戸惑ったような瞳が、三人の顔とお金とを交互に行き来する。志道は平太のまだ前髪の残る頭を乱暴に撫で、
「いいから、もらっとけ。親は大事にするもんじゃぞ」
「……うん。ありがとう。兄ちゃん達、本当にありがとう」
志道の手のひらの下で、平太はぽたぽたと涙をこぼした。
「おっかさん、早く良くなるといいね」
草月がそっと言った。
いつしか、雨は上がっていた。




