第29話 春雨の宿・前
一時はどうなることかと思われた旅も、続けていれば次第に要領が分かってくる。身仕度が早くなり、農家で厠を借りることを覚え――それまではその辺の草むらで済ませていた(!)――、強引な客引きのあしらいも上手くなった。
最大の懸念であった体力面も、騙しだましではあるが、どうにかやっている。
さて、旅の楽しみは、何よりその土地土地の名物や、絶景だ。小田原のういろう、原のうなぎの蒲焼き、相模湾の海のきらめき、新緑鮮やかな野山の風景。そして、同じ旅人や馬子から聞く、面白おかしい話。
江戸に居たままでは、けして味わうことのできないものだった。
「あれっ?」
駿河湾沿いを通る松並木の道はいつしか海を逸れ、内陸へと方向を変える。進んで行くうち、ふと景色に違和感を覚え、草月は首をかしげた。
はて、何だろうと考えて――。
「そっか、逆に見えるんだ」
思わず声に出して言うと、少し前を歩いていた高杉が、足を止めて振り返った。
「ああ、富士の山か」
草月の視線を辿り、眩しそうに目を細める。
江戸からずっと、右を向けば必ず見守るように景色の中にある富士は、草月にとって、安心と親しみを覚えるものだった。その富士が、
「ここでは左に見えるんですね」
「原から吉原にかけては、道が北西へ曲がっちょるけぇの。西行の左富士と言って、かの西行法師も驚いたそうじゃぞ」
「へえ、有名なんですね」
感心したように頷いた。
「西行って、あれでしたっけ。春に死にたいって歌詠んで、ホントに春に死んじゃった人」
「えらく大雑把じゃな」
大分先を歩いていたはずの志道がいつの間にか戻って来て、ふんと鼻を鳴らした。
「失礼ですね、ちゃんと知ってますよ。放浪の歌人と呼ばれた人でしょう? ええと、確か……」
草月は記憶を絞り出すように軽く目をすがめ、
――願わくば
花の下にて春死なん
その如月の望月の頃
「……でしたっけ」
どちらかといえば苦手な古文の授業だったけれど、歌の通りの季節に亡くなったというのが印象的で、それで覚えていたのだ。
「ほう、お前に和歌の心得があるとは知らなんだ。どれ、一つ詠んでみろ」
「えっ、今ですか。そんなこといきなり言われても――」
悲しいかな、詩作の素養は草月には無縁だ。藩邸で高杉たちが、互いの漢詩を見せ合ったり、推敲したりしているのを見て、格好いいなと思うことはあっても、自分で作ってみようとは端から思いもしなかった。
出来ません、と言おうとして、志道の意地悪な瞳にぶつかる。途端に草月の中で負けん気が首をもたげた。
「えーと、じゃあ……、本歌取りで、今の心境を一つ」
こほんと咳払いをして。
――願わくば
京の都に今日着かん
春は弥生の三日月の頃
「なんじゃそりゃ!」
「そのまんまじゃのう」
高杉と志道が堪らず、といったふうに噴き出し、
「……何ですか、せっかくの人の力作を」
初めは憮然としていた草月も、やがてつられるように笑い出した。腹を抱えて笑い転げる三人を、すれ違う旅人が不思議そうに横目で見て通り過ぎて行った。
*
それはもうすぐ吉原宿に着くという頃だった。
春の天気は気まぐれ、とは良く言ったもので、それまで陽気で明るかった空がにわかにかき曇り、まずいと思う頃には時すでに遅く、冷たい雨がざあっと音を立てて勢いよく降りだした。
これまでの道中にも何度か雨に降られたことはあったが、これほど激しいのは初めてだ。笠も合羽もあってないような状況で全身ずぶ濡れになりながら、何とか宿場にたどり着き、小さな、だが清潔で居心地のいい宿に腰を落ち着けた時にはすっかり日も落ちていた。
乾いた着物に着替えて、ようやく人心地ついた草月は、頬をとろりと緩ませ、
「ああ、やっと落ち着いた。この冷たい雨の中、もう少しで凍え死ぬかと思ったよ。ホント平太君がいてくれて良かった」
「大袈裟だら、兄ちゃん」
ところどころ歯の抜けた口を見せてけらけらと笑ったのはこの宿の下働きの平太だ。
ぶるぶる震えながら宿場に入った草月たちに、真っ先に声をかけてくれたのが彼だった。病気がちの母親の薬代を稼ぐため、住み込みで働いているという平太は、まだ八つながらも、くるくると良く働いた。
客は草月達三人の他に、伊勢詣りの途中だという老夫婦が一組だけ。先ほど地元の者らしい男が平太を訪ねてきた以外は来客もなく、いたって静かだった。
「濡れた着物は、囲炉裏のそばに干してあるだで、明日までには何とか乾くと思うだよ」
三人に夕餉の膳を出しながら平太が言う。膳には、ご飯に湯気の立つ味噌汁、こんがり焼き目のついた魚、そして漬物と、美味しそうな料理が並んでいる。
まず味噌汁をごくりと飲むと、体の中からじんわり温もりが広がってくる。次いで箸をつけた魚は、新鮮で臭みがまるでなく、旨みがぎゅっと凝縮されていて、食感もほくほくとしてすごく美味しい。
そう言うと、平太は嬉しそうに胸を反らせた。
「そうだら? このすぐ近くにいかい(大きい)魚が良く釣れる川があるだよ。今朝釣って来たばかりの奴だで新鮮なんだ。まだ残ってるだけん、良ければ握り飯と一緒に包んで明日の弁当にしようか」
「それは有難いな」
高杉がくいっと酒杯を傾けて、
「ところで、この魚は、おのしが釣ったのか?」
「うん。でも、おいらが川に行くのには、釣り以外に楽しみがあるだよ」
平太は腰に下げた巾着を取りだすと、口を開けて見せてくれる。
中には、おはじき程の小さな石がぎっしり詰まっていた。ほのかに青や銀に色づいた様は、まるで色とりどりのあめ玉のようだ。
「きれいだら? 河原で見つけたんだ」
にっこり笑って、また大事そうにしまう。
「でも、石ころ拾いなんて、お侍には退屈か」
ちょっと逡巡した後、付け加えた。
「あんまお勧めは出来ねえだけん、二つ行った通りの奥に、博奕やってる小屋があるだよ。良かったら後で行ってみるだよ」
*
どうせ他にやることもないし、と、いそいそと出かけていった高杉と志道を見送り、草月は、明日のために早めに床についた。
どれくらい眠った頃だろうか。人の気配に、ふっと目が覚めた。
(高杉さん達が戻ってきたのかな……?)
障子の隙間から覗くと、雨戸の隙間から外へと出る小さな人影が見えた。
(平太君……?)
厠にしては人目を忍ぶような様子が気になる。草月は手早く衣服を整えると、後を追って宿を飛び出した。
雨は峠を越えたのか、傘を差さなくても気にならないほどの霧雨になっていた。雨でぬかるんだ真っ暗な道を、平太は灯りもなしにずんずん歩いていく。気が付くと草月は、人家もまばらな町の外れまでやって来ていた。ぽつんと、一軒だけ、灯りがついた家がある。
(ここってもしかして、博打やってるっていう小屋? ……っと、まずい)
どこからともなく灯りを持った男が現れ、草月は慌てて側の灌木に身を隠した。
(一体、何が始まるんだろう)
息を殺し、平太と男の様子を見守った。
*
「遅かったじゃねぇか、坊主」
先に口を開いたのは、男の方だった。
「なかなか抜け出せなかったんだよ。それより、約束のもの」
「へん、餓鬼が一丁前に言いやがる、ほらよ」
男がぞんざいに差し出した袋包みを引ったくるように取って、平太は中を確かめる。途端、きっ、と顔を上げた。
「何だよ、これ! 約束の金と違うじゃんか」
「は! そりゃ、こっちの台詞だぜ。若い男三人のはずが、来たのは二人だけだ。後の一人はどうした」
「えらい(疲れた)って言って、もう休んでるだよ。いいじゃんか、二人紹介したんだで。ちゃんと金払ってくれよ」
「餓鬼がナマ言ってんじゃねぇや。あと一人も連れてきたら、残りの金を払ってやるよ」
男は食い下がる平太の胸ぐらを掴んで軽々と吊り上げた。
「くそっ、放すだよ!」
怒りと痛みに顔を歪めた平太の視界に、ふいに、さらりと長い髪が踊った。
「――に、兄ちゃん!」
草月は平太と男の間に体を滑り込ませると、無理矢理に男から引き剥がす。
平太を守るように立ちはだかった草月を見て、男が薄い唇を歪めた。
「ほう、おめえか、残りの一人ってのは」
草月は男の顔に見覚えがあった。夕方、宿を訪ねて来ていた男だ。
「事情はよく分からないけど、子供に暴力振るうなんて、ちょっとやりすぎじゃないの?」
「こりゃ、勇ましいこって。知らねえなら教えてやろう。このガキはな、宿の客を賭場に紹介して、金を稼いでたんだ。それも金を持ってそうな奴を選んで、イカサマ専門の賭場と知った上でだ。てめぇの連れも、今頃は身ぐるみ剥がされて難儀してるだろうよ。分かったろ? そいつは俺たちと同じ悪党なんだ」
「え……?」
草月は反射的に平太を見る。平太は恥じ入るように下を向いた。ぎゅっと握りしめた小さな手が震えている。
まさかそんな、と否定しかけた言葉が喉に引っ掛かって出てこない。
「本当なの? 平太君」
ようやく絞り出した声は自分でも情けないほどかすれていた。
――本当に?
あんなに屈託なく笑っていたこの子が、博徒の手伝いを?
信じられなかった。
(そうだよ、信じられない。平太君がそんなことするなんて)
草月は直感をそのまま行動に移した。
すなわち、震える平太の手を握り、男をにらみ据えたのだ。
「平太君は良く気のつく働き者よ。たとえあなたの言っていることが本当でも、きっと何か訳があったんだって、私は信じる」
「兄ちゃん……」
平太が泣きそうな顔で草月を見上げた。草月はしゃがんで目線を合わせると、安心させるように軽く微笑んで、
「平太君は先に宿に帰ってて。私は高杉さんたちを連れ戻してから帰るから」
「おいおい、勝手に話進めてるんじゃねえよ。せっかくのいいカモ、素直に帰すと思うのか? それに、いいもん見つけたぜ」
男は下卑た笑みを浮かべて、ずいと草月に近付いた。抱き寄せられそうになって、慌ててその手を振り払って距離をとる――、が、それより一瞬早く、男に手首を掴まれていた。
「やっぱりな。さっき揉み合った時に妙だと思ったんだ。――お前、女だな?」
ぎくりと草月の体がこわばる。
(……しまった! 寝てたから、胸の晒し取ってたんだ!)
「ちっと董がたっちゃいるが、売れば酒代くらいにはなるな」
「――っ、待てよ! 売るって何だよ、それ!」
俯いていた平太が、はっと顔を上げた。
「博奕でちょっと小金を稼ぐだけだって言ったじゃんか! 誰も傷つけないって」
「うるせえ! てめえはただ言われた通りにしてりゃいいんだよ。分かったら、中から兄貴呼んできな。良いものが手に入ったってな」
「……分かっただよ」
平太はぐっと唇を噛みしめていたが、やがて渋々頷いた。ちらりと後ろめたそうに草月を見る。けれど結局は何も言わずに小屋の方へと消えた。
男に拘束された草月を残して。




