第28話 箱根越え
東海道は、中山道や甲州街道と並ぶ五街道の一つで、江戸日本橋から京三条大橋を五十三の宿場でつないでいる。江戸時代後半、街道の整備が進み、比較的旅が容易になると、庶民の間で旅に対するあこがれが高まり、特にお伊勢参りは、一生に一度は行きたいと言われるほどの人気であった。
天候条件にも左右されるが、一般的に江戸から京まで、男なら十数日、女でも二十日とかからず辿り着くことができる。
江戸を発った草月ら三人は、まず保土ヶ谷で泊まり、次に平塚、小田原……と、ゆっくりとした歩みながらも、順調に旅を続けていた。
……が。
「――遅い!」
「すみませんっ!」
旅の四日目。
東海道最大の難所の一つ、箱根山の山道で、遅れる草月にしびれを切らした志道の容赦ない雷が落ちた。
「お前、十の子供でも、もうちょっと気張って歩くぞ! 絶対に迷惑をかけんと言ったあの言葉は嘘か!」
「いいえっ!」
痛む足を叱咤し、草月は必死で前を行く高杉と志道を追いかける。
江戸に来て二年。
車も電車もない地で、草月も随分と足が鍛えられたと思っていたのだが、甘かったらしい。平地ならまだしも、この箱根の山道は、急勾配の坂がいくつも続く上、ごつごつした石畳が敷かれているせいで歩きづらいことこの上ない。
「……志道さんは……、なんで……、そんな、元気なんですか? 京から……、はるばる江戸へ来て……、ほとんど休む間もなく、とんぼ返りなのに」
「このくらい、どうということはない」
『女ころし坂』なる物騒な名前の坂を息も絶え絶えに登る草月とは対照的に、息一つ乱していない志道は当然とばかりに胸をそらせた。
「お前が弱すぎるんじゃ」
「うっ……」
周りを行く多くの旅人達も、息はきらせど、草月ほどへばっている者はいない。
(み、みんな、健脚過ぎる……)
茶屋が建ち並ぶ間の宿で束の間の休息をとると、またすぐに辛い登りが待っている。もはや坂とも呼べないような絶壁を半ば命がけで登り、滑りやすい急な下り坂を、これまた命がけで下りる。(足を滑らせたが最後、転げ落ちるのは必至だ)
何度もひやりとする思いをしながら、箱根宿に至る最後の下り坂を下りきると、目の前に巨大な湖が現れた。
芦ノ湖である。
宝石のようにきらめく青い湖面に、周りを囲む鮮やかな山の新緑。その後ろには富士山が澄んだ青空を背景に優美な姿を見せている。
「わあ……」
きれい、などという陳腐な言葉しか出てこない自分がもどかしい。けれど、この景色を見るためにあの苦行があったのなら、それも許せると思えるほどの絶景だ。
「何度見てもいいもんじゃな」
高杉も眩しそうに目を細めた。
周りの旅人たちも、口々に感嘆の声を上げて目の前の絶景に見入っている。
「これぞ旅の醍醐味ですよね! 『東海道中膝栗毛』は何度も読みましたけど、読んで想像するのと、実際この目で見るのとじゃ、やっぱり全然違います」
「まあな。……さて、そろそろ行くぞ。今日中に三島宿まで着かんと、山の中で野宿するハメになる。蛇やら猪やらに襲われるのは御免じゃけぇの」
「……はい」
高杉に促されて、草月は名残惜しげにもう一度この景色を目に焼き付けてから、また志道にどやされる前にと急いで後を追った。
巨大な杉並木の道を抜けると程なく箱根宿に入った。
陽はすでに中天高くある。手頃な飯屋でしっかり腹ごしらえをすませ、続く箱根峠もどうにか越えて、倒れ込むように三島宿に着いたのは日暮れぎりぎりの時間だった。
入った旅籠で下女が早速足を洗う桶を持ってくる。土で汚れた足袋をおそるおそる脱ぐと、いくつもマメが潰れて悲惨な状態になっていた。
「うわ……、見るんじゃなかった」
余計に痛みがひどくなった気がする。宿の人が分けてくれた薬を塗り、包帯を巻きながら、
(草鞋がなあ……。もうちょっと歩きやすければいいんだけど)
慣れぬ草鞋は、軽いのは良いのだが、その分薄くて、地面の凹凸がもろに足裏に伝わってくる。その上、紐が指の間に食い込んで、歩くたびに痛みが走る。
せめて早く寝て明日に備えようとしたけれど、熱をもった足がじんじんと疼き、なかなか眠れない。
(甘かった……。このままじゃ、とても京までなんて無理だわ……)
ぱんぱんに張った足を揉みほぐしながら、ともすればこぼれそうになる涙を必死で堪えた。
(これ以上、高杉さんや志道さんに迷惑かけられないし、どうにかしなきゃ)
何かないかと荷物に手を伸ばす。
「あっ!」
慌てた拍子に倒れて中から小さな布包みが転がり出た。
(いけない、いけない)
草月はそっと包みを取り上げて中を改めた。柔らかな布で幾重にも大事にくるまれていたそれは、細い鎖のついた銀色の懐中時計だ。行灯の灯りを受けて、ほのかに赤く染まっている。
江戸を発つ前、ベインに京行きを知らせる別れの手紙と共に、餞別として植物の細密画の本を送ったのだが――ベインは日本の草花が好きだと言ってくれていた――、その返信に添えられていたものだ。
一般的なものより少し小振りで、それはまるで何年も前から使っていたかのように、草月の手にしっくりと馴染んだ。
蔦と花が絡み合った繊細な装飾が施された蓋。中を開けると、ローマ数字の書かれた時計盤に、くるくると優美な線を描く装飾針。そして、内蓋にはベインからの言葉が刻まれていた。
『 With Love to My best Friend
J・B 』
「“親愛なる友へ”……」
声に出して呟くと、暖かいものが胸に溢れてくる。
ちょっと元気をもらって、元通り大事に布に包み直した。
(……ああそうか、横浜で靴を買う手もあったのか。でも、坂本龍馬じゃあるまいし、いくら歩きやすくても、袴に靴なんて目立ちすぎるから、どのみち無理だよねえ)
想像して、思わず笑みが零れる。
(ここにあるもので、今できることといえば……)
*
「何じゃ、それは」
翌朝。
起きてきた草月の顔を見て、高杉と志道は、揃ってぎょっとしたように目を剥いた。
「どうしたんじゃ、一体。大丈夫か。夢見でも悪かったのか」
よほどひどい顔をしていたのだろう。志道がいつもの嫌味も忘れて、気遣うような声をかけてくる。
「ちょっと夜なべして、これ作ってたんです」
ちらりと上げてみせた草月の足袋の叉割れ部分に、布で幾重にも補強がされている。
「これなら、草鞋の紐が食い込んでも、多少は傷みが和らぐでしょう? そうしたら、私も前より歩けます。これ以上迷惑かけないように頑張りますから。だから、これからも同行させてください!」
頭を下げる草月に、高杉はくいっ、と口の端を吊り上げた。
「何を言っちょる。おのしは僕の従者という名目で来ちょるんじゃぞ。主人を先に行かせて、のんびり後から来る従者がいるか。なあ、聞多?」
「まったくじゃ。歩けると言うなら、さっさと行くぞ」
「……はいっ!」
草月は元気良く答え、まだ少し寒い朝靄の残る道へと踏み出した。
京まであと四十二宿。
旅はまだ、始まったばかりである。




