第27話 京へ
突如志道が江戸藩邸に姿を見せたのは二月の末、桜も終わろうとする季節のことだった。
「相変わらず脳天気な顔じゃな」
「そういう志道さんは、機嫌悪そうですね。女の人に手を出しすぎて、京を追い出されでもしたんですか」
挨拶がわりに、お決まりとなった嫌みの報酬をひとしきり交わして、志道は来意を告げた。
「悪いが、今日はあまり余他話をしている暇はない。主命でな」
ぱん、と袴の埃を叩いて、
「高杉を連れに来た」
*
(世子様のお使いか……。わざわざ志道さんを迎えに来させるくらいだから、よっぽど高杉さんに上京して欲しいのかな)
確かに、今、政局の中心は江戸から京に移っている。
京は長州や土佐を始めとする攘夷派の藩士や浪士達であふれかえり、中でも過激な連中は、天誅と称して、開国派や安政の大獄に関わった者などを次々に暗殺し、京に血の雨が降らぬ日はないという有り様らしい。
まさか久坂や寺島達がそれらに関わってはいないだろうと思いながらも、荒れた京の様子を聞くにつけその身が案じられた。……尤も、当人達は水を得た魚のように生き生きと活動しているようで、時々届く文には、京で公家の家に出入りして朝廷工作に励んでいることや、そのかいあってようやく将軍上洛の詔勅を取り付けたことなどが誇らしげに記されてあった。
そんな中、一人江戸でくすぶっているのが高杉だ。矢のような上京要請も無視し、江戸でやることがあるとうそぶくばかりで、腰を上げる気配はまるでない。
やったことといえば、先月、突如、松陰先生の墓を改葬し奉る!と宣言し、白昼堂々、伊藤や堀達を連れて本当に実行してしまったことくらいで、その頭にどんな深謀遠慮を有していたとしても、表面上はただぶらぶらと怠惰に日々を過ごしている。
(あの高杉さんが素直に行くとは思えないけど)
案の定、客間からは激しい言葉の応酬が廊下の端まで聞こえ、草月が茶を持って入ってもまるで目に入らぬようだった。
「いつまでも目的もなく、江戸にいてどうする。こうしている間にも時勢は動いていっちょるんじゃぞ。今の中心は京じゃ。攘夷派はこぞって京を目指しちょる。何が気に入らないのかしらんが、どうして動こうとせん!?」
「京に行って何をする? 公家に金を使って取り入るなど、そんなのは僕の性分じゃない」
「性分とか、そういうことを言っちょるんじゃない! 世子様の命じゃぞ! 世子様がわざわざ儂を寄越された意味を分からんわけではあるまい。いい加減、好き勝手はやめろ」
「……」
額に青筋を浮かべる志道には答えず、高杉はおもむろに草月のほうを向いた。
「――草月、おのしも行くか」
「えっ?」
いきなり振られて、草月は退出しようと障子に手をかけた姿勢のまま、間の抜けた声をあげた。
「――高杉!」
志道の声を無視して、高杉はまっすぐに草月を見つめる。
「京はおのしの故郷につながる地じゃろう。それに、聞多も言うちょったが、時勢の勉学を続ける気なら、今は江戸より京じゃ。おのしが行きたいというなら、僕が京へ連れていってやる」
「ふざけたことを言うな! こんな小娘を連れていけるか! 京は江戸のように気楽なわけにはいかんぞ。ただでさえ将軍上洛をひかえて大事な時なんじゃ。こいつに構っちょる暇はない」
「それは百も承知じゃ。じゃが、僕は草月に借りがある。……どうする?」
真っすぐな目が、草月を射ぬいた。
あとはお前次第だ、と言われた気がした。
「――」
迷ったのは、一瞬だった。
廊下へ飛び出し、自室から小さな木箱を掴んで部屋にとって返すと、呆気に取られる志道の前に突き出した。
「五両と少しあります。足りない分は、働いてきっとお返しします。今が大事な時なのも、京の治安が良くないのも分かってます。それでも行きたいんです。絶対にご迷惑はおかけしません。お願いします、私も行かせてください!」
がばりと頭を下げる。
「……相変わらず、威勢だけはいいな」
ややあって、志道はふん、と鼻を鳴らした。
「わしが面倒みるのは道中までじゃ。京についたら後は自分で何とかしろ。それでいいな」
「はい、ありがとうございます!」
「決まりじゃな」
高杉はぱっと扇を開くと、楽しそうにひらりと振ってみせた。
*
一旦決断すれば、高杉の行動は早い。すぐさま藩に掛け合って草月の同行許可を取り付けると、休む間もなく、旅の支度に取り掛かる。
「蝋燭じゃろ、提灯じゃろ、地図に、着替え、矢立、薬、手ぬぐい、替えの草鞋……」
「そんなに色々いるんですか!?」
「こんなの基本じゃぞ、基本。ああ、あと火打ち石と……、針と糸も持っちょったほうがいいな」
荷造りと並行して、長屋の片付け、お世話になった人達へのあいさつ……。
あれこれ追われているうちに、あっという間に出発当日を迎えた。
脚絆に手甲、笠に振り分け荷物、手には道中杖。旅姿に身を包んだ草月は、金蔵と銀次の駕籠に乗り、品川宿までやって来た。
「最後にあっしらの駕籠で送らせてくだせえ!」
そう言ってくれたからだ。
夜明けにはまだ早い薄闇の中、海風がひんやりと頬を撫でる。江戸の大半の者がまだ眠っているこの時間でも、宿場町である品川には、たくさんの旅人や見送る者、商売に熱心な商人達でごった返している。
その中で、花菱が草月を見つけて駆け寄ってきた。草月の手を、ぎゅっと握りしめて言う。
「草ちゃん、達者でね。道中、気を付けてね」
「うん、お花ちゃんも元気でね。落ち着いたら、絶対、手紙書くから」
「きっとよ。私も必ず返事出すわ。こっちの皆のこととか、たくさん、たくさん――」
花菱の顔が不意にくしゃりと歪み、言葉が途切れた。大粒の涙がぽろぽろと零れる。
「ごめっ……、絶対、泣かないって、決めてたのに」
「お花ちゃん……」
草月の目も真っ赤になっていた。胸が詰まって言葉にならない。
江戸と京は、あまりにも遠い。
きっともう、再び会うことは叶わないだろう。家族のようなたつみ屋の皆とは別に、花菱は江戸で初めてできた友達だった。
「ありがとう、お花ちゃん。今まで、仲良くしてくれて……。一緒に買い物したり、お菓子食べたり、お芝居見たり、すごく楽しかった。私、絶対、忘れないから」
「私も。ずっとずっと忘れないわ」
固く誓い合う二人の横で、うおおおお、と雄叫びのような声がした。銀次が男泣きに泣いている。
「馬鹿野郎、銀次。泣く奴があるか! 男だろう!」
「だって、だって兄貴! こんな悲しい別れ見ちまったら……」
「へん! 男は涙を呑んで、黙って見送るもんだ!」
「じゃあ、兄貴のその目の玉から出てる物はなんですかい」
「これは、おめえ――」
金蔵はごしごしと目を擦った。
「鼻水よ!」
「へえ、兄貴は目から鼻水が出るんですか」
「うるせえ! おめえも、そのひでえ顔、何とかしやがれ!」
相変わらずのやり取りに、草月と花菱は涙も引っ込んで、ふふふと笑い合った。
「あ――」
花菱が何かに気付いたように小さく声をあげた。
「どうしたの、お花ちゃん」
「草ちゃん、あそこ……」
花菱の視線を辿った先。
人混みから少し外れた木のそばで、じっとこちらを見つめる人影。
「……女将さん?」
はっきりと顔は見えなくても、すぐに分かった。
一年半ぶりに見る女将は、以前とまるで変わらなかった。自然とこちらの背筋も伸びるような、凛とした佇まい。
(……来てくれたんだ)
女将は草月に向かって、カチカチと石を鳴らす仕草をした。
切り火だ。
(……行ってきます。女将さん)
草月は深々と頭を下げた。
顔を上げた時、もう懐かしいあの姿はなかった。
*
やがて追い付いてきた高杉、志道と合流し、親しい友人たちに見送られながら、草月は二年を過ごした江戸の町を後にした。
(ここに来たばかりの頃は、こんなにも江戸を離れがたくなるなんて、思ってもみなかったな)
色んな人に出会って、色んな場所へ行って、色んな経験をした。時には辛いことや、怖い思いをしたこともあったけれど、今はそれも大切な思い出だ。
一度だけ振り返り、すっかり小さくなってしまった花菱達に大きく手を振って。江戸のすべてを目に焼き付けて、草月は今度こそ京へ向かって歩き始めた。




