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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
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第25話 新しい年

 暮れも押し迫った、師走の下旬。

 ここ、長州藩上屋敷では、連日、新年を迎える準備に大わらわだった。

 屋敷の大掃除から、正月飾りの取り付け。いつもは快適な広い屋敷も、この時ばかりは怨めしくなる。

「だー、終わらねえ~!」

 拭けども拭けども終わりの見えない雑巾がけに、伊藤はとうとう雑巾を放り投げた。

「やってらんないよ、こんなの」

「俊輔、手を休めたらそれだけ遅くなるぞ」

 黙々と柱を拭いていた堀真五郎が、軽くたしなめた。

「けど堀さん、今日中にこの棟の掃除全部終わらせるなんて無理ですよ。桂さんも無茶ばっかり言うんだから」

 へにゃりと口を歪めて愚痴をこぼす。

 萩の生まれである堀は、伊藤より三つ年上の二十五歳。

 二年前に脱藩し、諸国を旅した後、昨年萩に帰り、松下村塾に潜伏していたことから塾生と親しくなった。その後、久坂の紹介で薩摩に赴き、薩摩藩士と共に上京した際には寺田屋事件に遭遇。近くは英国公使館の焼き討ちにも参加するなど、かなり過激な経歴の持ち主だ。

 だが内面の激しさが表に現れることはまれで、普段はあまり表情が変わらず、自分から進んで話す方でもないため、大人しい性格だと思われることが多い。

 伊藤とは、先日、桂の命で一緒に水戸へ探索に行って以来親しくなった。と言っても、もっぱら伊藤のおしゃべりを堀が黙って聞いている、という図式が常だったが。

 今も、伊藤の言葉を待つように静かな目を向けてきている。

 なんだか照れ臭くなって、伊藤は、よっ、と反動をつけて起き上がった。

「おし、休憩終わり!」

 先ほど放り出した雑巾を拾おうと、庭へ降りて腰を屈めた時だった。

「あー、もう間に合わないー!」

 先ほどの伊藤のような叫びが聞こえ、二人は思わず顔を見合わせた。

「どうやら、お前と似たような者がいるらしいな」

 揃って視線を向けた廊下の角から、鼻先まで書物を積み上げた人物が、ぱたぱたと駆けてくる。

「草月?」

「うわっ!」

 まさか床下から声をかけられるとは思ってもいなかったのだろう、驚いた拍子に草月が足を滑らせる。

危うく転びかけた所を、堀が後ろから体を支えた。

「滑りやすくなっている、気を付けた方がいい」

「あ、ありがとうございます」

「大丈夫か? 悪い、いきなり声かけちゃったから」

 伊藤はすまなそうに言って、床に散らばった本を拾い上げる。

「草月は書庫の整理?」

「ええ。なくなっている本はないか、一斉点検するそうなんです。でも、持ち出されてる本も結構あって、その確認だけで一苦労ですよ」

「今日はどこも同じのようだな」

「もうあまりの忙しさに、みんな壊れてきてますよ。さっきなんか、高杉さんが、――屋根の埃払い担当なんですけど――、突然、夷狄退散ー! とか叫びながら、はたきを振り回し出して」

 その様子を思い出したのか、くすりと笑って、

「おのしも叫べ! とか言うから、

『お腹すいたー!』

『もっと面白いこと叫べー!』

『……なら、ニューヨークに行きたいかー!』

『風呂より酒じゃー!』

……おかしかったですね」

「なにそれ、俺も混ざりてー!」

「あ、だったら、絶叫大会とかします? 誰の叫びが一番面白いか決めるんです」

「いいねえ! それで、賞金は……」

「……桂さんのお小言!」

 同時に吹き出し、屈託なく笑い合う。その様子はまるで仲の良い兄弟のようだ。

 堀は微笑むかわりに、こう言った。

「二人とも、仲が良いのは結構だが、そろそろ仕事に戻らないと、本当に徹夜だぞ」


                            *


 永遠に終わらぬかに思えた大掃除も何とか終わり、新しい年が明けた。

 堅苦しい新年の挨拶が済めば、後はお待ちかねのおせち料理である。

 里芋・れんこん・にんじんの、具たっぷりのお煮しめに、かまぼこ、数の子、黒豆、伊達巻、昆布じめ、栗きんとんといった甘物。

 焼き物には、大きな鯛が鎮座ましましている。

 皆で分担を決めて、二日かけて作っただけあり、味も量も申し分なかった。

 お雑煮は、高杉や伊藤らが腕を振るってくれた、萩伝統の雑煮。

 いりこだしに醤油を加え、蕪と丸餅を入れただけの素朴なものだが、それが逆に素材本来の味を引き立てていて、実においしかった。

 ひっきりなしに訪れる年賀の客がようやく落ち着いた頃、草月は高杉、伊藤と共に近くの神社へと出発した。

 すっきりと晴れた空は高く、きんと冷えた新年の空気はすがすがしい。

 綺麗に飾り付けられた門松の並ぶ通りには着飾った江戸っ子たちであふれ、着いた神社の境内は参拝客で押しくらまんじゅう状態だった。

 もみくちゃになりながらも何とか参拝を済ませ、おみくじを引く。

「ちぇーっ、俺は中吉か。草月は?」

 伊藤はひょいと草月の手元を覗き込んで、

「うわ、凶?」

「『探し物出ず、旅は障りあり止めよ』……。これって、屏風は見つからないし、京にも行くなってことでしょうか……」

「何をそんなに落ちこんじょる。ただのおみくじじゃろう」

「そうですけど、やっぱり気にしちゃうじゃないですか。そういう高杉さんは何だったんですか?」

「大吉」

「ええ!?」

「まあ、僕にかかればこんなもんじゃな」

「いいなぁ」

 少しがっかりした気分で屋敷に帰ると、思いがけず、嬉しい客が待っていた。

「お花ちゃん!お初さんも!」

 新年らしい華やかな着物に身を包んだ花菱とお初は、揃って年賀の挨拶を口にした。

 草月も挨拶を返して、でも、とお初を見た。

「来てくれるのはすごく嬉しいんですけど……、お初さん、出歩いて大丈夫なんですか?」

 お初は丸みの目立ってきたお腹を撫でて、ふっくりと微笑んだ。

「お陰さまで、順調よ。それに、じっとしているより、少しは体を動かしたほうが、お腹の子にもいいの」

 そうなんだ、と感心する横で、花菱がもどかしげに両手をこねくりまわした。

「ああもう、草ちゃんてば、やっぱりそんな羽織袴なんか着て! お初さんと相談して、用意してきて良かったわ。さあ、着替えて、着替えて! 新年くらい、お洒落しないでどうするの」

「え? え?」

「高杉様、お部屋、お借りします!」

 訳の分からぬ内に隣室に連れていかれ、有無を言わさず豪華な女物の着物に着替えさせられる。

 滅多に触ったことがない上質な布地の感触に気後れする間もなく、今度は髪を結い上げられ、化粧までされて、半刻も経たぬ内に、草月はすっかり女らしい格好に様変わりさせられていた。

 草月の出来栄えを眺めて、花菱とお初は満足そうに笑っている。

「良く似合うわ、草ちゃん。やっぱり、私の見立てに狂いはなかったわね」

「お、お花ちゃん、この着物……」

「お初さんのよ。草ちゃんはきっと、お正月でも男の人の格好してるだろうから、何とかできないかしらって、お初さんに相談したの。お初さんのことは、相模屋の先達から聞いてたし。そしたら、お初さんが、自分の持ってる晴れ着をお貸しするのはどうかしらって言ってくれて」

「義母も、草月さんになら、って賛成してくれたの。本当に良く似合ってるわ」

「そ、そうですか? ありがとう、二人とも。……こんな綺麗な着物、初めてだから、すごく嬉しい」

 女物の着物を着るのは踊りの稽古の時くらいだし、それだってお洒落とは縁遠い。

 二人が選んでくれた着物は、鮮やかな濃紫の生地に、大小の梅の花が散りばめられたもの。

 裾には金銀で川模様が描かれており、いっそう華やかさを添えている。

 帯は正月らしく、金地に鶴の目出度い柄だ。

「さあ、それじゃ、皆様にも見てもらわなきゃね」

「えっ、ちょっと待って、お花ちゃん。まだ私、鏡も見てないし、このまま皆の前に出るなんて、恥ずかしすぎる――」

 草月が最後まで言い終わらないうちに、花菱はさっと襖を開き、草月を中へと押し込んだ。

 そして、

「じゃあ、私達はまだあいさつするところがあるからこれで失礼するわ。楽しんでね、草ちゃん!」

 確信犯の笑みと共に、風のようにいなくなってしまった。

 草月は、ぎしっ……と音がしそうな動きで部屋を振り返る。

(な、なんか人増えてるし! ……というか、みんな呆気に取られて固まってるじゃないの!)

 突き刺さるような視線が痛い。

「え、えーと……。……遅くなりまして?」

 とりあえず、愛想笑いを浮かべてみせた。

「うわあ、似合うよ、草月!」

 気まずい沈黙を破ったのは、伊藤の明るい一声だった。

 その声にほっとして、伊藤の隣に腰を下ろす。

「お花ちゃんとお初さんが気を使ってくれたんです。着物が豪華すぎて、中身が負けちゃってる気もするんですけどね」

「そんなことないって! すっごく良く似合ってる。ねえ、高杉さん」

「ああ、その色はおのしの顔に良く映えちょる。黙っちょったら、良家の娘で通るかもしれんぞ。……多少、薹が立っちょるが」

「……悪かったですね、大年増で。私のいたところじゃ、二十二歳なんてまだ若くて、結婚してない人の方が多いんです!」

「ほう、それで未だに色気も何もないんじゃな。おのしが大人の色香を出せるようになるには、あと十年はかかるかのう」

「失礼ですね! 私だって、出そうと思えば、それくらい……」

 言いかけた時、くっくっく、という押し殺した笑い声が傍から聞こえた。

 白井小助だ。

「いや、すまんすまん。……本当に、草月なんじゃと思ってな。どうも、その姿と、いつもの草月がつながらんで……。おなごというもんは、装いを変えるだけで、こうも違うもんなんじゃな。似合っちょるぞ、うん」

「あ、ありがとうございます。来島さんも、どうですか? 変じゃないですか?」

「う、うむ……」

 なぜか来島は顔を赤くして目をそらせた。

「……もしかして、来島さん、照れてる?」

 伊藤の言葉に、図星を突かれたように耳まで赤くなる。

「わしは、芸者とか遊女とか、商売女は平気なんじゃ。しかし、普通の娘というのは、どうも……、いかん」

「ほう、それでいつも若い女中には、あんな無愛想なんですか。こわもてじい様の意外な一面」

「こ、こらっ! 年長者をからかうな、高杉!」

「これは失敬!」

 高杉はおどけたように首をすくめて、

「じゃあ、せっかく華もいることじゃし、飲みましょう!」


                  *


 酒盛りは、一人増え、二人増えして、いつしか盛大な宴会へと突入した。

 人数が増えて手狭になると、襖を取っ払って二間を繋げ、果ては上下の垣根も取っ払って、飲めや歌えやの大はしゃぎだ。

 いつもは抑え役の桂も、今日ばかりは小言も言わず、楽しげに酒を傾けている。

 草月はそっと伊藤に顔を寄せ、

「伊藤さん、さっきは、ありがとうございました。伊藤さんが声かけてくれなかったら、もう少しで回れ右して逃げ出すとこでしたよ」

 伊藤は、なんのことかな、とすっとぼけたが、すぐににっと笑って、

「実際、良く似合ってるよ。草月だって知らなかったら、口説いてたくらい」

「あはは……」

 調子がいいのは相変わらずだ。

 断りをいれて席を立ち、酔いざましに廊下に出る。

 冷たい風が、火照った頬に気持ち良い。

 大きく息を吸い込んで、……ふと、芳しい花の香りに気付いた。

(まだ寒いのに、もう咲いてる花があるのかな)

 好奇心にかられ、香りのもとを探して庭に下りる。

 新月の今日は、明かりのついた部屋を離れれば、途端に真っ暗で、注意しないと、うっかり石に躓きそうになる。

 借り物の着物を汚さないよう気を付けながら、香りを辿って庭を進むと、闇の中に、ぽっと白い花が浮かんでいる。

 まるでそこだけ明かりが灯っているようだ。

「わあ……」

 思わず漏れた声に、馴染みのある声が重なる。

「――草月か?」

「え、その声、高杉さん?」

 真っ黒な羽織が闇に同化して、まったく気付かなかった。

「もしかして、高杉さんも香りを辿って?」

「ああ」

 高杉はほら、と言って花が良く見えるように体を開けた。

「白梅じゃ」

 まっすぐ空に向かって伸びた枝に、淡雪のような白い五弁の花びらが冴えざえとした夜気をまとい凛と咲いている。

「梅は百花に先駆けて咲く。僕の一番好きな花じゃ」

「即断即決、何でも早いのが好きですもんね、高杉さん」

 くすりと笑いながら、隣に並ぶ。

 途中にあった庭石を、裾をからげてひょいと飛び越えたのを見て、高杉が呆れたように言った。

「まったく。せっかくそんな格好しちょるんじゃけえ、もう少し女らしくしたらどうじゃ? さっき自分で言っちょった大人の色香はどうした」

「そういうのは、やたらとひけらかさないものなんです」

 草月は素早く言い返した。うっかり、いつもの袴姿の感覚でいたことは言わずにおく。

「でも、もしお座敷に出ることがあったら、猛将呂布を虜にした貂蝉ちょうせん(『三国志演義』に登場する美女)みたいに妖艶な色香で殿方を誘惑してみせますよ」

「おのしが妖艶という柄か。どっちかといえば、呉の孫仁(同じく『三国志演義』に出てくる武芸好きな姫)じゃろう」

 酔った調子で軽口を叩けば、すかさず切り返される。

「そうだ」

 ひとしきり笑ってから、草月は懐から昼間引いたおみくじを取り出した。

「これ、この木に結ばせてもらっても良いでしょうか。神社の御神木には負けるかもしれませんけど、こんなに綺麗な花を咲かせたこの木なら、凶も吉に変わる気がして……。要は自分の気の持ちようですもんね」

「実に男前な意見じゃな」

 茶化しながらも、高杉は草月が結びやすいように一枝を下ろしてくれた。

「ほら。結ぶんじゃろう」

「……ありがとうございます」

 礼を言って、枝の先にくるりと結びつける。

「今年も、みんな元気で、平和な一年でありますように」

 そっと囁いた言葉に応えるように、白い花弁がふわりと揺れた。



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