第24話 貫いた心
師走も半ばが近くなり、冬の厳しさは一段と増した。
室内にいてさえ、鼻水が凍り付くほどの寒さに、火桶の炭は買った端からなくなっていき、いつも藩邸に売りにくる炭商人とはすっかり顔馴染みになった。朝晩冷えますねとお決まりになった挨拶を交わし、一抱えほどもある炭を有備館へ運んでいると、何の拍子か、立て続けに三度も大きなくしゃみが出た。
鼻を啜りながら顔を上げた草月は、次の瞬間、文字通り真っ赤になって飛び上がった。誰もいないと思っていた廊下の先に、見慣れた男の姿があったからだ。
男――久坂――は武士の情けか、およそ女性らしくない盛大なくしゃみについては触れずに――顔がひきつっているのは笑いを堪えているからに違いない――ひょいと草月の手から炭を取り上げた。
「あ」
「一人で運ぶのは重いだろう、手伝うよ」
言うなり、すたすたと歩き出す。
「すみません」
すっかり軽くなった荷物に恐縮しながら、小走りに追いつき、ふと気づいて言った。
「だいぶ、伸びましたね」
「うん」
久坂は面映ゆげに口許を緩めた。
つるりとした坊主頭だった久坂の頭には、つんつんと痛そうな髪がうっすらと生えてきている。これまでの働きが藩に認められ、一代限りの医業の免除と共に、蓄髪を許可されたからだ。それに伴い、名を玄瑞から義助へと改めている。
「高杉の奴は事あるごとに触っては、いがぐり頭だとからかうんだけどな」
「きっと高杉さん、嬉しいからわざとやってるんですよ」
素直じゃないから、と草月はくすくす笑った
手分けして部屋を回って炭を補充し、残った炭は備品室に保管する。
ぱんぱんと手についた炭を払って、
「ありがとうございました、おかげで早く済みました。……すみません、久坂さんも旅の準備で忙しいのに」
久坂は佐久間象山を長州に招聘するという命を受け、明後日にも信州へ出発することになっている。
「信州かあ……。私は行ったことないですけど、雪深いところなんでしょうね」
――と、急に鼻がむず痒くなったと思うと、またくしゃんくしゃんとやった。
「本当に大丈夫か? 気を付けろよ。高杉が治ったと思えば、今度は弥二が寝込んでるんだ」
「はい」
草月はすん、と鼻を啜って、
「さっき、お見舞いに行ったら、伊藤さんと難しい顔して話し込んでました。私の顔見たら、急に話を止めちゃいましたけど」
「……そうか」
「あの、久坂さん」
草月は隣に立つ背の高い久坂を見上げた。
「……何か、するんですか?」
『何を』、とは聞かないところが草月らしい。久坂は胸の内で苦笑を漏らした。
「うん……」
久坂達は今、絶賛、英国公使暗殺に代わる新たな攘夷を計画中だ。それを草月に話すつもりはなかったけれど。
「私、久坂さんには申し訳ないですけど、やっぱり過激な攘夷には反対です。前の神奈川の時みたいな暗殺とかそういうのは嫌だし、して欲しくない。……でも、それを言ったら高杉さんに叱られました。文句を言うだけなら誰でもできる。大事なのは、自分で考え、それを行動に移すことだ、って」
「松陰先生がそうだったからな。なんせ異国を知るために密航まで企てたくらいだ」
草月はこっくりと頷いた。
「私は、日本と外国とが仲良くして欲しいと思ってます。それで、まず、江戸の人が外国の人をどう思ってるのか聞いたら、皆良く知らないんですよね。ただ怖がっていたり、妖怪かもののけみたいに思ってる人もいて、実際の所を知ってる訳じゃない。反対に、外国の人の中にも、日本を未開の野蛮人だとか思ってる人もいる。……だから、お互い、知って欲しいなって。外国の人がみんな、日本を好きになって、日本の人も外国の人を好きになれば、争いとかなくなるんじゃないかって。政治と個人の感情が一致しないのは分かってますけど、でも、日本に好意を持つ人が増えれば、その国の政府としても世論は無視できないでしょうし、そうなれば、武力を楯にした強硬姿勢は取りづらくなる。その間に日本は外国の良いところをどんどん取り入れて力を付ける。名付けて、『尊王攘夷』ならぬ『草莽攘夷』です。――といっても、まだ具体的にどうしたらいいのかは模索中なんですけどね。……やっぱり、笑いますか?」
「いや、草月らしいよ」
そう、草月らしい。
異国に馴染みがあるという、いかにも草月らしい甘い考えだ。
彼女の言うように、相互理解によって異国と日本が対等に付き合えるならそれ以上楽なことはないだろう。
だが実際は、異国は利権を求めてやって来ているのであり、仲良しこよしの関係など端から頭にない。こちらの力を誇示せぬ限り、日本が異国に呑み込まれてしまうことは必定だ。
神奈川では失敗したが、江戸を発つ前に、どうしても攘夷のため、やり遂げなければならないことがある。
このひと月、そのための準備を重ねてきて、あとは実行に移すだけだ。
気が付くと、草月が何か言いたげにじっとこちらを見ていた。
「あの……、久坂さん。お体、大切にしてくださいね」
危ないことはしないで欲しい。
生真面目な友人が言外に滲ませたその気持ちに。
「ありがとう、草月」
真顔で嘘がつけるほど久坂は不実にはなれなかった。
――そして、その夜。
何者かによって、御殿山に建設中の英国公使館が焼き討ちされた。
*
「すっかり、何もなくなっちゃったね」
土蔵相模の二階にある花菱の部屋で、薄く開けた障子から御殿山を見ていた草月はしみじみ呟いた。
空には雪でも降り出しそうな厚い灰色の雲が覆い、昼だというのに薄暗い。
ほんの数日前、同じ窓から覗いた時には優美な姿を見せていた洋館は跡形もなく、冬枯れの木々の間から、無残に燃え落ちた瓦礫の山が見えるばかりである。
吹き込んできた冷たい風に慌てて顔を引っ込め、いそいそと火鉢の側に座ると、熱い茶をごくりと飲む。
「あー、やっぱ、お花ちゃんの煎れるお茶は最高だわ」
大袈裟ね、と笑いながら花菱も湯飲みを手に取った。
「でも、無事に戻って来られて良かった。お花ちゃんが役人に連れていかれたって聞いた時は、もう、すごい心配したんだよ」
「ええ、ごめんなさい」
花菱は焼き討ちの犯人を知っていると疑われ、三日にわたり奉行所で厳しい取り調べを受けていたのだ。現場で、下手人が落としたと思しき文が見つかり、その差出人の名が『花』となっていたせいである。それを知った草月は、すぐさま伊藤に詰め寄った。
「やっぱりあの焼き討ちは伊藤さん達の仕業だったんですね!」
何かやる気だとは気付いていたが、まさかこんな大それたことをするとは。
「とにかく、早くお花ちゃんを助けないと!」
「駄目なんだ! 俺たちは今、表だって動くわけにはいかないんだよ。下手に動けば、幕府に目をつけられる。ほとんどの仲間はもう江戸を出てるか、出る準備を始めてる。ここでむざむざ捕まるわけにはいかないんだ」
草月は、きっ、と伊藤を睨み付けた。
「それで、お花ちゃんを見捨てるっていうんですか!? お花ちゃんが捕まったのは伊藤さんのせいじゃないですか! 偉そうに国のためって攘夷を叫んでおいて、大事な人ひとり守れないで何が攘夷ですか!」
「やめろ、草月」
傍で黙って聞いていた高杉が無理やり草月を伊藤から引き剥がした。
「俊輔も辛いんじゃ。今は、花菱を信じて待つよりない。大丈夫じゃ。『花』なんて名前の女はそこらじゅうにいる。花菱が口を割らん限り、役人も花菱を差出人とは特定できんじゃろう」
高杉の言葉通り、花菱はどれ程幕吏に凄まれても、知らぬ存ぜぬを貫き通し、ついに晴れて無罪放免となった。すぐさま会いに行こうと言った草月に、しかし伊藤は頑なに首を縦に振らなかった。
「今日も一緒に来ようって誘ったんだけどね……。伊藤さんも、いくら役人の目があるからって、一度会って謝るくらいのことすれば良いのに。まったく誰のせいでお花ちゃんが辛い目にあったと思ってるんだろ。ほんと無責任なんだから」
「――伊藤様のことを悪く言わないで!」
花菱には珍しい、激しい語調だった。
花菱自身も、自分で言って驚いたように、はっと口元を押さえる。
「……ごめん。でもね、草ちゃん、もういいの。いつかこんな日が来ることは初めから分かってたことだもの。お別れするのは辛いけど、私は、これまでの思い出と、伊藤様を守れたことを誇りに、この先も生きていけるわ」
凜として言い切る花菱の姿には、もう以前の幼さはどこにもなかった。
「……お花ちゃんは、すごいね」
ぽつりと言葉が零れた。
「どうして、そこまでできるの? もしかしたら、自分の命が危なかったかもしれないのに」
「だって、好いた人のためだもの」
花菱はきゅっと口許に笑みを浮かべた。
「草ちゃんだって、そんな人がいたら、きっと同じようにするわ」
「そう、かな」
草月には、そんな自分がまるで想像できなかった。
けれど同時に、ためらいなく伊藤を庇い通した花菱の誇らしげな横顔が眩しく、少しだけ羨ましく思ったのだった。




