第23話 雪遊び
頭まですっぽりと被った布団の隙間から、体の芯まで凍えるような冷たい空気が入り込んでくる。ぎゅうっと布団を体に巻き付け、しばし夢うつつを行き来しながらもう一眠りしようとして、草月は堪え切れずに無理やり起きだした。
(……真夏の厠も臭くて最悪だったけど、真冬の厠だって最悪だ)
布団を出た途端に全身を突きさす冷気に身震いしながら、分厚い綿入れを羽織るとそっと長屋の戸を開ける。思いがけない眩しさに目を細め、ようやく目が慣れてくるとともに、目の前の光景に寒さも忘れて立ち尽くした。
*
「随分と積もったもんじゃのう」
布団の上に上半身だけ起こし、開け放たれた戸の向こうを見ていた高杉は、吊り気味の目を眠たげに擦った。しかめっ面なのは、積もった雪に興奮して駈け込んで来た草月に叩き起こされたせいもあるが、半分は昨日の酒がまだ残っているからだ。
「驚きでしょう? 夜寝る前はまだちらつく程度だったのに、朝起きたらこうですもん」
草月は雪に劣らず目を輝かせる。
深更に降った雪は、江戸の町をすっぽりと覆い、屋根も道も木々も全てを銀世界へ変えてしまった。足跡で汚してしまうのがもったいなくて、ここへ来る道すがら、ずっと端を通って来たくらいだ。
いつも朝早い棒手振りの威勢の良い掛け声も聞こえず、まるで世界と切り離されたかのような静けさがある。
「寒いはずじゃな」
ようやくごそごそと起きだした高杉は、衝立の奥で着替えながら、
「おのしはやけに元気じゃな。いつもは寒い寒いと縮こまって、火鉢の傍から離れたがらんくせに」
「だって、雪が降ったら何か嬉しくないですか? 寒いのは嫌ですけど、雪が降るとわくわくします」
弾んだ声と同時に、白い息が現れては消える。
「多少の雪なら風流じゃが、やたらと降ればただ迷惑なだけじゃろう」
高杉の言葉は綺麗に草月の耳を通り過ぎた。
「そうだ、せっかくだから、仕事が終わったら、みんなで雪遊びしませんか?」
「おのし、いったいいくつじゃ。そんなもの、子供がすることじゃろう」
「年が明ければ二十二です。いいじゃないですか、たまには。高杉さんだって、雪合戦とか、やったでしょう?」
「武士の子は雪で遊んだりせん」
「お座敷遊びは喜んでやるのに?」
「それは男のたしなみじゃ」
「なら、雪遊びは子供のたしなみです。子供の頃にやらなかったのなら、今やらなきゃ」
「俊輔や熊次でも誘ってみたらどうじゃ。あいつらなら喜んで付き合うぞ」
「いいですね! あと、久坂さんや品川さんたちにも声かけて」
あしらうつもりで言った言葉に笑顔で返され、高杉は今更辞退の言葉も言えずに飲み込んだ。
八月に長州へ帰国していた伊藤は、藩命により彦根藩の偵察に赴いたのち江戸へ戻って来たが、いくらもせぬうちに今度は水戸の実情探索に遣わされ、つい先日江戸に着いたばかりだった。
あんまり長旅ばかりが続くので草月は伊藤の体が心配になったが、そうやって忙しくしていたほうが、恩師を喪った悲しみが紛れるのかもしれない。
少なくとも、あの日以来、伊藤が悲しみを表に出すことはなかった。
「じゃあ、急いで長屋の雪かきやって来ます。高杉さんも後で絶対来てくださいね!」
弾むように駆けていく背を見送って、高杉はあきらめたように天を仰いだ。
「萩も今頃雪かのう」
*
藩邸の隅の一画で、楽しげな笑い声が響く。
「ひい~、冷たい!」
半纏も羽織らずに、元気にごろごろと雪玉を転がしていた若い武士が、真っ赤になった手を見てけらけらと笑った。
「大丈夫ですか? 布でも巻いとかないと、後でひどいしもやけになりますよ」
草月の呼びかけに、だーいじょうぶだって! と軽く答えたのは、品川弥二郎だ。
松下村塾出身の二十歳で、草月とは先日の神奈川の一件で知り合ったばかりだが、人好きのする性格のせいか、すぐに仲良くなった。
同じく村塾出身の有吉熊次郎と三人で、今、巨大雪だるまを作るべく奮闘しているところである。
大きくなって重くなった雪玉を草月と品川の二人がかりで押していると、一人で頭部分を請け負った有吉が、額の汗を拭きながらしみじみ言った。
「こんな風に雪だるまを作るのは久しぶりじゃなあ。餓鬼の頃は良く作って遊んだもんじゃけど。……そういえば、弥二、覚えちょるか? 昔、村塾でやったあの悪戯」
「ああ! あれだろ、寒中講義!」
「え、何ですかそれ、面白そう!」
たちまち草月が食いつくと、品川はもったいぶったように、尊大に胸を反らせた。
「聞きたい?」
「聞きたい聞きたい、聞かせてください!」
「なら教えてしんぜよう」
重々しく言った後、すぐに普段のくだけた口調になり、
「……実はさ、こんな風に雪が積もった日、俺と熊次と俊輔の三人で、村塾の庭に落とし穴を作ったんだよ。離れたところに隠れて、誰が引っかかるか見てたんだけど、まずいことに松陰先生が引っかかっちゃって。泡食って助けに行ったよ。そこで潔く謝れば良かったんだけど、熊次が三人で兵法を実践してました、なんて言うから……」
「お前が言おうとした、『筍を探しちょりました』って言い訳よりはましじゃ」
「……まあ、そしたら先生が、実践とはまことに素晴らしい、とか言い出して。そこから先生の兵学講義だよ。実は悪戯でしたとは言えなくて、真冬の屋外で、がたがた震えながら話を聞く羽目になってさ」
「そのうち雪まで降って来るし、途中でお兄さんの梅太郎さんが気付いて止めてくれなきゃ、確実に俺たち全員凍死しちょったよな」
「松陰先生って、そんな熱い人だったんですね」
草月は遠慮なく笑った。
「もっと落ち着いた感じの物静かな人だと思ってました」
「普段はね。でも、ひとたび激すると、熱い熱い。こう、かっと目を見開いてさ、一日中飯も食わないで議論してることなんて、しょっちゅうだったよ」
二人の語る村塾の様子は楽しげで、一度も村塾を見たことがない草月にも、少年時代の品川達がわいわい机を並べて学ぶ情景をはっきりと思い浮かべることが出来た。
そうこうしているうちに、腰ほどもある大きな雪玉が二つ出来上がり、仕事を終えてやってきた高杉と久坂、伊藤も交えて六人がかりで上に乗せた。最後に木切れや葉っぱで目鼻を付けて、ようやく完成となった時、草月がぽつりと漏らした。
「……これ、なんか高杉さんに似てません?」
「――っ、確かに!」
一拍おいて、高杉を除く全員がぷっと吹き出した。
「おい、これのどこが僕に似ちょるんじゃ」
「ちょっと拗ねたような顔がそっくりじゃないか。ほら、その顔」
「僕は拗ねちょらん!」
向きになる顔がますます似ている。ひとしきり大笑いした後、草月がふと思いついて、
「それぞれ誰かに似せた雪だるまを作るっていうのはどうですか? 誰の作品が一番似ているか勝負するんです。勝った人は、みんなから夕飯をおごってもらえる」
面白そうじゃ、との声が次々と上がり、さっそく雪だるまづくりに取りかかる。
最初はさほど乗り気でなかった高杉も、次第に興が乗って来たのか、松陰先生の像を作るんだとはりきっている。
しばし童心に返って無心で雪と格闘していると、寺島忠三郎と楢崎弥八郎が様子を見にやって来た。
「よかったら、お二人も一緒にやりませんか?」
「いえ、僕は久坂に来いと言われて仕方なく見に来ただけですから」
「俺も遠慮しておこう。この年で雪遊びというのも気が引ける」
「そうですか……。あ、じゃあ審査係になってもらえませんか?」
勝負内容を説明すると、寺島は庭をひとわたり見回して、
「高杉さんの松陰先生はあまり似ていませんね」
「これはまだ完成しちょらん。これから似せていくんじゃ。『始めは処女の如く、後は脱兎の如し』」
「何ですか、そのいかがわしい例えは」
草月は顔を赤らめた。
「何がいかがわしいものか。『孫子』の言葉じゃぞ。始めは弱そうに見せかけて敵を油断させ、後で一気に敵を叩く」
(……本当かなあ)
疑いの目で見ていると、寺島が本当です、と言った。
「『孫子』の九地篇、第十一に書かれている言葉ですね」
「そうなんですか……。でも、寺島さん、どこに載ってたかまで良く覚えてますね」
「寺忠の博覧強記はこれだけではないぞ?」
高杉がまるで自分のことのように自慢げに言った。
「なあ寺忠、その前後の文章は何じゃった?」
――兵を為すの事は、敵の意を順詳するに在り。敵を幷せて一向し、千里にして将を厥す。此れを巧みによく事を成す者と謂うなり。是の故に政の挙ぐるの日は、関を夷め符を折り、其の使を通ずること無く、廊廟の上に厲しくして、以て其の事を誅む。敵人闔開すれば、必ず亟かに之に入り、其の愛する所を先にして微かに之と期し、践墨して敵に随い、以て戦事を決す。是の故に始めは処女の如くにして、敵人、戸を開き、後は脱兎の如くにして、敵、拒ぐに及ばず――
「――ですね」
寺島は息をするように自然にすらすらと諳んじてみせた。そして――、
「それから、その呼び方はやめてください」
しかめっ面で付け加えた。
高杉は、ほらな? というふうに片眉を上げ、それから、
「あいつ、僕が寺忠と呼ぶ度に、律儀に訂正するんじゃ」
おかしそうに耳打ちした。
(……絶対、寺島さんの反応が面白くて、わざと嫌がる呼び方してるに決まってる)
それにしても……。
「寺島さん、『孫子』全部覚えてるんですか!?」
草月の声には紛れもない称賛の響きがあった。
「武家の子弟なら、四書五経は物心ついた頃から暗唱させられます。『孫子』を知っていても、別に驚くことでもありません」
「驚くことですよ! 絶対、凄いことです!」
手放しで褒めちぎられて、能弁な寺島にしては珍しく黙り込んだ。
隣で楢崎がさりげなく口許を手で隠し顔を反らす。
笑っているのだ。
「……楢崎さん」
気付いた寺島が切れ長の目を鋭くした。
「いや、珍しいものを見せてもらった。寺島を黙らせる者がいるとはな」
くっくっと可笑しげに笑い、
「気が変わった、俺も参加しよう。寺島、お前もどうだ」
「……楢崎さん?」
「そうこなくっちゃ! ――寺島、これで退いたら、敵前逃亡と見なされてもおかしくないぞ」
伊藤が楽しげに挑発する。
「……分かりました。そこまで言われてやらないのでは、武士の名折れ。見事、一等を勝ち取り、夕食をおごらせてやります」
半ば自棄になりながら、皆のもとへやって来る。
しばし、辺りには雪を固める音だけが響いた。
*
「まったく、あの人は、どこをふらふらしてるんだ?」
上役を探して、桂はかれこれ四半刻も広い藩邸を歩き回っている。急ぎの報告があるというのに、自由すぎる上役ときたら執務室にも自室にも、その他行きそうな所のどこにも姿がない。
手の中の報告書をぐしゃりと握りつぶしたい衝動を鉄壁の理性でどうにか抑え込んでいるが、それももはや限界だ。
「麻田殿なら、先ほどお見かけしましたよ」
教えられたのは、普段あまり人の立ち入らない一画。
そんなところに一体何の用があるのか。訝りつつもその場所へ足を向けると、何やら賑やかな人の声が聞こえてくる。
曲がった先の廊下に探し人の姿を見つけた。
「麻田さん! こんな所にいらしたんですか。ずいぶん探したんですよ。国許から急ぎの報告が――」
勢い込んで言いかけた言葉が、眼前の光景に尻すぼみになる。
「何の騒ぎですか、これは?」
「なかなかの眺めだろう?」
麻田と呼ばれた男は悪びれた様子もなく楽しげに笑った。
その顔は、かつて藩政の一翼を担っていた周布政之助、そのものだ。
それもそのはず。
周布が梅屋敷の一件で帰国させられたというのは、土佐藩へ配慮した表向きのことで、実際は『麻田公輔』と名を変えてずっと江戸に留まっていたのである。周布が抜けることで政務が滞ることを危惧した上層部が手を回した結果だった。
もっとも、さすがに大っぴらには出歩けないので、他藩との会談などには桂が当たり、自身は邸内の政務に専念している。
「草月たちが雪だるまを作っているというから見に来たんだ」
周布改め、麻田の視線の先には、大小の雪だるまがいつくも並んでいる。
その雪だるまを作った若い藩士らは、子供のように声を上げてじゃれ合い、いつしかそれは雪合戦の様相を呈してきている。
驚くべきは、いつも沈着冷静を絵に描いたような寺島や楢崎までもがその中に交じっているという点だ。
桂はふっと息を吐くと、麻田の隣に腰を下ろした。
「草月ですか。彼女がいると、皆が子供に帰りますね」
「なに、いいことさ。攘夷だ何だのと、最近は気を張ることが多いからな。たまには息抜きも必要だろう。熱くなるばかりじゃ、良い考えも浮かばないさ。……どれ、俺も混ぜてもらうとするかな」
「麻田さんまで」
「お前もどうだ、桂? 元悪戯小僧の血が騒ぐんじゃないのか?」
「昔の話ですよ」
桂は渋面を作って手にした報告書で眉間を隠した。近づいて良く見ないと分からないが、そこには子供の頃、悪戯をして叱られた時についた傷跡が残っている。
それに気を取られていたせいだろうか。
こちらに高速で飛んでくる物体に気づくのが僅か遅れた。
報告書を守るため咄嗟に手を下ろした桂の顔面に、いっそ小気味良いほどの正確さで雪玉がぶつかった。
「やべ」
雪玉を投げた姿勢のまま、品川が頬を引きつらせる。
「お~ま~え~達~」
顔からぼたぼたと雪を落としながら、悪鬼のような形相の桂がゆらりと立ち上がった。
「ひいっ、逃げろ!」
「待て、今日という今日は許さん!」
「か、桂さん落ち着いて!」
きゃあきゃあと走り回る様子を微笑ましそうに眺めて、
「若いってのはいいもんだ」
麻田もまた、その輪の中に飛び込んでいった。




