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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
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第22.5話 鬼の霍乱

「高杉さん、草月です。入りますよ」

 みぞれまじりの雪がちらつく昼下がり。小鍋と薬を乗せた盆を手にして、草月はそっと高杉の長屋の戸を開けた。

 わずか六畳の部屋の中に、所狭しと書物が積み上げられており、かろうじて空いた場所に置かれた火鉢の上では鉄瓶がしゅんしゅんと音を立てている。

 そして、壁際に置かれた文机に覆いかぶさるような、布団の塊――。

「――って、高杉さん!? 何やってるんですか!?」

「見れば分かるじゃろう。本を読んじょるんじゃ」

 布団、もとい高杉は、達磨のようにくるまった布団の中から顔だけを覗かせ、それがさも当然のことだと言わんばかりの口調で言った。

「この二日、ろくに読めちょらんかったけえの」

「当たり前じゃないですか! 高熱出して寝込んでたんですよ。今だってまだ本調子じゃないのに」

 草月は高杉を机からひっぺがすと、問答無用で寝床へ押し込んだ。

「まったくうるさいのう。そう目くじら立てんでも、もう熱も下がっちょる。おのしは心配しすぎなんじゃ」

「心配しますよ、当然でしょう! だって……」

 ……もとはといえば、私のせいなんだから。

 喉元まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。

「もう、少し良くなってきたと思えばこれなんですから。早く治りたいなら、たくさん食べて力つけなきゃ」

 努めて明るく言って、持って来た鍋のふたを開けた。ふわんと湯気が立ち上り、優しい卵の匂いが部屋に広がる。

「卵粥です。床を抜け出す元気があるなら、全部食べられますよね」

「……おのしが作ったのか」

 高杉はまじまじと目の前に差し出された椀を見つめて言った。

「何ですか、その変な物でも見るような目は。確かに藩邸ここでは料理する機会はあまりないですけど――」

 藩士は基本自炊だが、草月の場合は女中が作ってくれている。

「――たつみ屋で一通りの家事は叩き込まれましたから、このくらいは作れるんですよ」

「そりゃ初耳じゃ」

 憎まれ口を叩きながらも、高杉は椀を受け取ると、ふうふう息を吹きかけながら、一口、一口、美味しそうに食べた。

 綺麗に空いた鍋を脇にどけ、薬を飲ませて寝かしつける。

 くれぐれもまた起きだしたりしないように念を押して、草月は部屋を辞した。

 食器を洗い、台所を貸してくれた女中に礼を言って外に出ると、雪は止んでいたものの寒風が容赦なく吹きつけてきた。冷たい水に触れてかじかんだ手をこすり合わせていると、ふいに後ろから呼び止められた。

「久坂さん。あれ、どうしたんですか、それ」

 それ、とは久坂が手に提げている大きな獣肉だ。

「高杉に滋養のつくものをと思ってね。猪肉だ。作り方を聞いて来たから、夜はぼたん鍋にしよう。高杉の具合はどうだ? 食べられそうか」

「はい、だいぶ良いようです。でも、さっき薬とご飯を持って行ったら、床を抜け出して、本を読んでたんですよ? 信じられません。昨日まで高熱でうんうんうなされてたのに」

「まあ、そう怒ってやるな。あれでも、あいつなりに君に気を使っているんだろう」

「高杉さんが?」

 よほど不審そうな顔をしていたのだろう。

「あいつの気づかいは分かりにくいからな」

 久坂は苦笑交じりに呟いて、中で話そうか、と草月を誘った。

 師も走る師走とあって、掛取りの商人たちや、年越しの支度に追われる人々で町は普段よりずっと賑やかで、藩邸内もそれは例外ではない。

 静かな場所を選んで有備館の空いた一室に入り、火鉢を挟んで座った。冷えた体がじんわりと暖かくなる。人心地ついた頃、久坂がおもむろに口を開いた。

「君は、高杉が風邪を引いたのは自分のせいだと思っているだろう」

「はい」

 草月は間髪入れずに頷いた。

 数日前、高杉は真冬の川に飛び込み、全身びしょ濡れになった。すぐに乾いた着物に着替え、その時は平気な顔をしていたのだが、次の日になると、高熱を出して寝込んでしまったのだ。そして、川に飛び込むそもそもの原因となったのは草月だ。

 ……だが、謝る草月に、高杉は頑固に自業自得だと言い張って、謝罪を受け入れようとはしなかった。

 あまり言い返すと喧嘩になってますます容体を悪くさせそうで、強くは言わなかったけれど、草月の中ではずっと罪悪感が消えなかった。

「ああ、ほら、その顔。そうやって君が気に病んでるのを知っているから、あいつはわざと元気そうに振る舞ってるんだ」

「え?」

 久坂はちょっと笑って、それから不意に真剣な顔をした。

「高杉はね、破天荒で、滅茶苦茶で、自分勝手なように見えて、あれで結構繊細なところがある。だけど、意地っ張りだから、それを人に悟られるのをひどく嫌がるんだ」

 だから、人から誤解を受けやすい、と久坂は言った。

「久坂さんは、高杉さんのこと、良く分かってるんですね。二人だけじゃなくて、村塾の仲間や、同僚の人たちは皆お互い気心が知れてて、なんか羨ましいです」

「でも、たとえ目指す先が同じでも、必ずしも皆が同じ道を歩んでいくわけじゃない……」

 久坂は半ば独り言のように呟いた。

「上海に行ってから、あいつは変わった。それまで、口ではどんなに大胆なことを言おうと、お父上に遠慮して行動に移すことはなかったのに、帰ってきた途端に脱藩騒ぎだ。よっぽど上海での体験が衝撃的だったんだろう。攘夷は無謀だと、何度も言われたよ。僕らは断じて取り合わなかったけれど。そして、今もそれは変わらない。だから草月、高杉の傍にいてやってくれないか。君は、異国について話せる唯一の人だ。僕らには共感できないことでも、君なら分かることもあるだろう。君がいつか家に帰ることは承知しているけど、それまでは、どうか頼みたい」

「私……」

 戸惑ったように瞳を揺らす草月を見て、久坂は安心させるように微笑んだ。

「そんなに深く考えることはないよ。ただ今まで通り、高杉の話し相手になってくれればいいんだ」

「はい……」

 けれど、その言葉が、いつか二人が決別する暗示のように思えて、いつまでも耳から離れなかった。



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