第21話 喧嘩
霜が降りるほどに冷え込んだ、ある日の土蔵相模の一室。
草月から神奈川の顛末を聞いた花菱は、あらまあ、と大きな瞳を瞬かせた。
「そんな大変なことがあったの。……そういえば、半月ほど前から、大勢で集まっては難しい顔して話し込んでらっしゃったけど。でも、まさかそんな大胆なこと計画してらしたなんて。それで、高杉様達は大丈夫なの? 何かお咎めは……」
「高杉さんたちは、軽い謹慎処分で済んだの。それどころか、慰労金を貰ってたくらい。でも、周布さんがね……」
草月は、火鉢の灰を無意味に突いた。
山内容堂が、一介の藩士に侮辱を受けて、黙っているはずがない。周布を引き渡せと迫る容堂に対し、世子定広はひたすらに陳謝し、どうしてもというなら自分が周布を斬る、と言って庇い通した。
だが、何もお咎めなしという訳にはいかない。免職の上、帰国謹慎処分ということに落ち着き、周布は江戸を去った。今は周布の代わりに、急遽京より呼び戻された桂が仕事を引き継いでいる。
「周布様のことは残念だったわね。でも、草ちゃんの顔が晴れないのは、ほかにも理由があるんじゃない?」
「……そんな顔してる? 私」
「してるわ」
自信たっぷりに頷かれ、草月は敵わないなあ、と力なく笑った。
「……高杉さんたちのことなんだけど」
高杉たちは、謹慎が解かれるや否や、前にも増して攘夷活動に奔走している。
だがそれは、草月との距離が開いていくことと同義だった。
草月は、どうしても、武力で攘夷を成そうとする考えには賛成できない。だからといって、武力を示す以外にどうすればいいのか聞かれると、途端に言葉に詰まってしまうのだ。
「力のある国が弱い国を従えるとか、そんなのじゃなくて、お互いの良さを認め合って、友好関係を結ぶ、なんて、夢みたいな話なのかなあ」
「そうねえ……」
花菱は、少し考えるように口をつぐんで、やがてゆっくりと話し始めた。
「私も、草ちゃんから話を聞くまで、異人さんて、怖かったわ。遠目に見るだけでも気味悪くて逃げ出しちゃってたくらい。今は、前ほどそうは思わないし、異国の話を聞くのは楽しい。でもね」
花菱は窓辺に立って、障子をそっと開いた。
冷たい空気と共に、美しく紅葉した御殿山の姿が目に飛び込んでくる。
その中で、ただ一点、景観を台無しにしているものがある。木々の間に見え隠れする異質な西洋風建築。完成間近のイギリス領事館だ。
「御殿山は、昔っから江戸の庶民の憩いの場所よ。春の桜はそりゃあ綺麗で、私は大好きだった。それを、あんなふうに取り上げられるのは辛いわ。だから、高杉様たちがやっていることを、応援したい気持ちもあるの」
「そっか……」
「ごめんね、草ちゃん」
「ううん、お花ちゃんが謝ることないよ。お花ちゃんの言うことも分かるんだ」
でも、それでも。
(だって、高杉さんたちのやろうとしてることは人殺しだよ?)
あの時、土佐藩の横やりが入らなければ、彼らは本気で人を斬るつもりだったのだ。草月のいたところの常識では考えられない。
(時代が違うと言ってしまえばそれまでだけど)
お互いの間に、決して越えられない溝があると突き付けられたようで、無性に悲しかった。
*
そうした鬱屈が、知らず溜まっていたのだろうか。些細なことで、高杉と喧嘩になった。
久しぶりにゆっくり話そうと、夕食後、高杉、久坂、草月の三人で藩邸の一室に集まった時のことだった。
最近沈みがちな草月を、久坂が気遣ってくれたらしい。だが、口をついて出てくるのは反発の言葉ばかり。
(こんなの、ただの八つ当たりだ。やめなきゃ、やめなきゃ)
頭ではそう思うのに、言葉は止まってくれない。
「大体、土佐藩の心変わりを詰るなら、高杉さんだってそうです。攘夷は無謀だって……、今は力を蓄える時だって言ってたじゃないですか。なのにどうして、異人を斬るとか、そういう話になるんですか!?」
「やるべきじゃからじゃ!」
高杉は草月に負けじと語気を強めた。
「僕が上海に行った時、異人の間で何度も口に上った藩がある。どこか分かるか? ――水戸じゃ。水戸が一番強いと恐れられちょった。なぜなら、水戸藩だけが、夷狄に屈さず、異人を斬って日本人の気概を示したからじゃ。この水戸の気概こそ、異国を退ける力じゃ。先般は薩摩も異人を斬った。長州も後れを取るわけにはいかん。長州にも、異人を斬る気概があることを内外に示し、異人が恐れて手を出せんうちに、軍備を整え、国を挙げて討って出るんじゃ!」
「そんなのは絵空事です! 罪もない自国の人間を殺されて、その国が黙ってると思いますか?異国が武力を使う恰好の口実を提供するだけです。軍備も整わないうちに攻撃されたら、それこそ一大事じゃないですか」
「事の成否は問題ではない。実行することこそ重要なんじゃ。それに、それぐらい危うくなった方が、幕府も日和見の諸藩も重い腰上げて好都合じゃ。大体おのし、今、長州が周りから何と言われちょるか知っちょるのか? 『開国を唱えていたかと思えば、攘夷を唱える、尻の据わらぬ藩』じゃと、そう言われちょるんじゃぞ。長州一藩が割拠して武力をつけても、他藩から孤立していてはどうにもならん!」
「結局、他人頼みですか。いつも他の藩なんて頼りにならないとか偉そうなこと言っておいて、やっぱり自分たちだけじゃ何もできないんじゃないですか!」
「そういうおのしこそ、十兵衛に呼ばれればのこのこ出かけて行って、軽率じゃとは思わんのか!」
痛いところを突かれて草月は黙り込んだ。
見かねて久坂が間に入るが、高杉はますます居丈高に言い募る。
「おのしはあいつと仲良くしたいとか甘ったれたことを言うが、向こうの腹は分からんぞ。おのしにその気がなくとも、あっちは長州の内情が知りたいに決まっちょる」
「――っ、それは……!」
「ほう、心当たりがあるという顔じゃな。それみろ、所詮、異人との交情などその程度のもんじゃ」
違う、そうじゃない。一度はそうだったかもしれないけど、今回は純粋に友人として招いてくれた。
「……国や立場が違っても、気持ちを通わせることは出来ます。高杉さんだって、上海で清国人と仲良くなったんでしょう? それを、単に他の藩に後れを取りたくないとか、汚名返上するためとか、そんなくだらない理由で安易に武力行使に走るなんて、そのほうがよっぽど短絡的で甘ったれてます! 大体、戦うにも相手から軍艦や武器を買わなきゃ戦えないなんて、恥ずかしくないんですか?」
かっ、と高杉の顔が赤くなった。
「――そんなに長州のやり方が気に食わんのなら、出て行けばいいじゃろう! おのしは異国の肩を持ちたいようじゃけえのう。無理してここにいてもらわんでもええ!」
その時、草月の中で、何かが弾けた。
「――何よ!!」
気付いた時には叫んでいた。今まで抑えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「私だってこんなところ、来たくて来たんじゃない! 帰れるものなら、さっさと家に帰りたいわよ! 家族がいて、普通に大学に通って、友達と映画やカラオケ楽しんで、添加物たっぷりのハンバーガーやポテトチップス食べて、のんびりテレビ見て……。それが当たり前だったのに!」
「空、桶? 版婆画……? 一体、何を言っちょる?」
高杉の顔には理解不能という表情が浮かんでいる。
「分からないでしょう? 言葉は通じても、私にとってここは異国と変わらない。異人というなら、私だってそうです。どこに居たって同じよ!」
言うなり草月は部屋を飛び出した。
「――草月!」
引き止める久坂の声を振り切り、真っ暗な夜の町を闇雲に駆ける。ただ走って走って、いつしか、人気のない神社の境内へと迷い込んでいた。
お堂の冷たい石段に座り、膝に顔をうずめた。身を切るような北風が、着物の隙間から忍び入って来る。後悔と自己嫌悪がどっと溢れてきて、押しつぶされそうだった。
どのくらいそうしていただろうか。
遠くからかたかたと荒い下駄の音が聞こえて、それは一度この神社を通り過ぎた後、再び戻ってきて、ためらいがちに境内に入ってくる。迷うような足音は、やがて確かな足取りに代わり、まっすぐに草月の前までやって来て止まった。
たとえ顔を見なくても、草月には足音だけでもうそれが誰だか分かっていた。
どちらも何も言わない。
しんと静まり返った境内に、下駄の主の荒い息遣いだけが響く。
沈黙に耐えられなくなって、草月はゆるゆると顔を上げた。
藩邸からずっと走って来たのだろう。肩で息をしながら、高杉が怒ったようにこちらを見下ろしている。
いや、怒ったように、ではなく、実際怒っているのだ。
いたたまれなくて、顔を背けた。
「さっきはすみませんでした。何も分かってないのに、勝手なこと言って……。謝ります。後で、ちゃんと、藩邸に戻りますから。……今は、一人にしてもらえますか」
だが、高杉から返答はない。
微動だにしない男に、さすがに不審に思い始めた時、
「――悪かった!」
不意に、高杉ががばりと頭を下げた。
「え?」
驚いて、思わずまじまじと目の前の男を見つめる。心なしか、左頬が腫れているように見える。
「久坂に殴られた」
草月の視線に気づいて、高杉はきまり悪そうに頬を撫でた。
「出て行けなど、僕が一番言ってはいかんことじゃった。……すまん」
もう一度深く頭を下げる。
「そんな、やめてください!」
草月は慌てて立ち上がった。
「高杉さんが怒るの、当たり前です。甘えたこと言ってるのは私なんですから。ほとんど八つ当たりだし……。その上、お世話になっておいて、あんな言い草、ホント、最低です!」
「何を言うんじゃ、悪かったのは僕じゃと言っちょるんじゃけえ、おのしゃあ、素直に受けちょったらええんじゃ」
「いえ、最初に突っかかったのは私なんですから……」
また喧嘩になってしまった。
不毛な言い合いにどちらともなく黙り込み、石段に二人並んで座った。
「あけっぴろげなようで、おのしは自分のことはあまり話さんな」
唐突に、高杉が言った。拗ねたような口調だった。
「おのしにとって、ここは異国か」
ぴくり、と草月の肩が揺れる。それが彼女の答えを示していた。
「……本当に、感謝してるんですよ」
ためらいつつ、草月が口を開く。
「女将さんや、高杉さんや、久坂さん……。お世話になった人たち、皆に。皆がいなかったら、私はきっと、とっくに野垂れ死にしてるか、どこかに売り飛ばされてるかしてたでしょう。私はすごく恵まれてます。だから、こんなこと思うのは、きっと罰が当たるってことも分かってるんです。それでも、やっぱり、時々ひどく寂しくなる。元いた場所が懐かしい、帰りたいって思ってしまう」
「故郷を懐かしむのは、当たり前のことじゃろう。……おのしの気持ちを全部分かるとは言えんがな、見も知らぬ異国に立つ不安なら、僕にも少しは分かる。じゃけえ、これからは、おのしの国のことをもっと話せ。さっきの、……空桶、か? あれでも、何でもいい。自分の国のことを知る奴が一人でもいたら、少しはここも異国ではなくなるじゃろう」
口調はぶっきらぼうだが、その言葉は思いやりに溢れていて、草月はじわりと目の奥が熱くなるのを感じた。
瞬きしてごまかす草月の前に、高杉はずいっと朱色の瓢箪を差し出した。いつも腰にぶら下げている、お気に入りの酒瓢箪だ。
「飲め。手打ちの酒じゃ」
「……」
言われるままに一口煽ると、強い酒にかっと胃が熱くなる。大きく息をしようとして、途端にむせた。
「なんじゃ、これくらいで。情けないのう」
げほげほとせき込む草月を尻目に、高杉は瓢箪を取り上げると一気にあおった。
「だって……、これ……、いつものより、数段きつくないですか?」
「そりゃあ、来島のじい様の秘蔵の酒じゃけえの」
「来島さんの!?」
「うん、前に失敬してきたやつじゃ」
「失敬って……。まさか、こっそりもらって来たんですか!?」
「おのしも飲んだんじゃけえ、共犯じゃ」
高杉はにやりと確信犯の笑みを浮かべた。
「一蓮托生、怒られる時は一緒じゃな」
「――高杉さん!」
「ははは、いつもの調子が出てきたな」
「……もう!」
拳で叩く真似をすると、高杉はおお怖い、と大げさに言って立ち上がった。
「そろそろ戻るか。久坂の奴が心配して待っちょる」
「はい」
高杉に続いて歩き出す。
空には満天の星。
凍てつくような風は冷たいけれど。
もう、あまり寂しくはなかった。




