第19話 横浜異国叙情
高杉出奔から数日。
笠間にいる加藤有隣という人物から、高杉が来ているので迎えに来て欲しいと連絡がきた。周布や桂の尽力で脱藩罪に問われることは免れたものの、高杉はしばらくふてくされたように有備館の寮室に閉じこもっていた。やがてそれにも飽きたのか、ふらふらと飲み歩く毎日。『防長割拠』の持論も引っ込め、過激攘夷派と連れ立っては管を巻いている。
「船を見に行かんか」
高杉が草月に声をかけたのは、そんな時である。
横浜で蒸気船買い付けの任に当たっていた志道と長嶺内蔵太から、ついに船を購入したという報せが入ったのだ。二人は今、大和国之助らと共に、乗組員としてその船に乗っているらしい。
「行きます!」
二つ返事で答え、数日後、草月は期待に胸を躍らせながら横浜へと向かった。
*
横浜は、外国に開かれた数少ない貿易港の一つである。街道から少し外れた田舎の一帯を埋め立て、西に日本人街、東に外国人居留地が広がっている。日米修好通商条約を受けて急きょ幕府が整備した居留地には、日本風の家屋が並び、そこを洋装の外国人が歩く様はちょっと不思議な光景だ。靴屋や洋服店、洋菓子店といった居留地ならではの店に思わず目が行く。
(そういえば、ジュードさんは元気かな)
半年ほど前、駐日公使の交代を機に、横浜から江戸の東禅寺へと戻ったらしいが、一月も経たないうちに再び襲撃を受けたと聞く。
「おい、何をぼさっとしちょる。ちゃんと着いてこんとはぐれるぞ」
「あ、すみません!」
周りを見るのに夢中で、すっかり足が止まってしまっていた。前を行く高杉に小走りで追いつき、ぺこりと頭を下げた時――、
ドォーン!!
突如、建物を震わすほどの轟音が鳴り響いた。耳の奥がぐわんぐわんと揺れている。
「な、何ですか、今の!?」
「船の祝砲じゃろう」
高杉は平然としている。
「船同士の挨拶みたいなもんじゃ。上海でも、一日中鳴っちょった。港町なら、別に珍しいものでもない」
そういえば、狼狽しているのは草月だけで、道行く人は誰も気に留めた様子がない。耳を塞いでやり過ごし、港へ向かうと、強い潮の匂いと共に鮮やかな群青色の海が姿を現した。空高くかもめが舞い、沖には数百もあろうかという船、船、船。
あんぐり口を開けて見入っていると、近くの桟橋から二人を呼ぶ声がした。
長嶺が迎えに来てくれていたのだ。
三人で小舟に乗り込み、沖に停泊しているという蒸気船に向かっていく。
「あれがそうか?」
「良い船だろう? 長州初の蒸気船、『壬戌丸』だ」
訊ねる高杉の声にも、答える長嶺の声にも嬉しさが滲む。草月もまた、畏怖の心地で巨大な船を見上げていた。
(――これが、蒸気船)
陽の光を浴びて黒光りする船体。
鋭く尖った船首。
天高く伸びる高い帆柱。
近くで見ると、まるで要塞のようだ。
甲板の上から、志道と大和が手を振っているのが小さく見える。慎重に接舷し、ゆらゆらと揺れる縄梯子をおっかなびっくり上って行くと、上で待っていた大和が太い腕で軽々と甲板に引っ張り上げてくれた。
「わあ――!」
甲板の上は思ったよりずっと高く、見渡す限り遮るもののない開放的な眺めは、地上で見るのとはまるで違っている。
「あまり身を乗り出すと、落ちるぞ」
高杉に続いて上がって来た長嶺が苦笑しながら草月の隣に並んだ。
「気持ちは分かるけどな。……草月は船に乗るのは初めてか?」
「こういう大きな船は初めてです。すごいですね! 横浜の町がすっかり見渡せます! これ、今動かしたりは出来るんですか?」
「残念ながら、勝手に動かすことは禁じられてるんだ。ま、それ以前に、操船技術を持った奴がいなくて、異人の手を借りなきゃ動かせないのが現実なんだけどな。攘夷を叫んでおいて情けないけど」
「でも、ちょっと意外です。攘夷派の人たちは、異国のものなんて毛嫌いしてるのかと思ってました」
「確かに俺たちは攘夷を目指してるけど、異国のだからって何でも否定するほど馬鹿じゃないぜ? そりゃあ、中には西洋銃を使うことすら嫌がる奴らもいるけど、異国の技術が優れているのは事実だからな」
それに、と長嶺は悪戯の計画を打ち明けるように声を潜めて、
「ここだけの話、俺たち、洋行を計画してるんだ」
「ええっ!?」
「敵情視察を兼ねた、海軍修行の旅さ。今の長州に、近代的な海軍の整備は急務だからね」
「しかし、良かったのか?」
高杉も同じように船べりに身を預けて、
「勝手に僕らが見て回っても。山田艦長がうるさいじゃろう」
「大丈夫、大丈夫。俺たちの他には、当直の奴らと整備士が数人残っちょるだけじゃし。山田艦長は用事で夕方まで戻らんらしいけえ、見つからなければ平気じゃ」
「裏を返せば、見つかれば地獄、とも言えるがの」
鷹揚に言った大和に、むしろ面白がる口調で志道が突っ込んだ。
「その山田艦長さんて、そんな厳しい人なんですか」
「ああ、この間なんぞ、水練じゃと言って海に放り込まれた。冬も近いと言うのに、心の臓が凍って死ぬかと思ったぞ」
「まあ、それは俺たちが朝まで飲みまくってた罰だったんだけどな」
「……」
草月は呆れて声も出ない。
当の三人は豪快に笑い飛ばして、早速船を案内しようと草月と高杉を誘った。
イギリスから譲り受けたというこの蒸気船は、多少古びてはいるものの、十分に使える代物だそうだ。
船にはいたるところ縦横に縄が張られ、複雑に絡み合っている。二本の太い帆柱は見上げれば身がすくむほど高く、あんなに上まで登って作業することが出来るなど、にわかには信じられないくらいだ。
「あの中央にある大きな黒い筒は何ですか?」
「あれは煙突だよ。下に石炭を入れるボイラ室というのがあって、あの煙突から煙を吹き出して進むんだ」
長嶺が草月に解説している横で、高杉は両舷に二門ずつ備え付けられた大砲をしげしげと観察していた。
「砲はたったの四門か。少ないな」
「もとは商船じゃったそうじゃからな。それは追々整えていくしかないじゃろう。今は、蒸気船が手に入っただけでも御の字じゃ」
志道の答えは高杉の気に入らなかった。
「たったの一隻ではまだまだ足りん。じゃけえ、僕が長崎で船を買おうとした時に買っちょけば良かったんじゃ。政府の奴ら、泡食って騒いだ挙句に結局お流れになってしもうて」
「そりゃあ、さすがに二万両もの買い物、即決はできんじゃろう。第一、よく下調べもせずに、廃船寸前のボロ船をつかまされたらどうするんじゃ」
「あれはちゃんと使える船じゃった!」
むきになって言い合う二人に、まあまあと大和が割って入った。
「議論は後でも出来るじゃろう。今は案内が先じゃ。次は船の中を案内するけえ」
大和の大きな背に続いて、高杉、草月、志道、長嶺の順で昇降口から最下層の第三甲板まで下りる。薄暗く狭い船内に、食料庫、武器庫といった倉庫群、そして、蒸気船の動力となる蒸気機関が設けられている。
階段を上って第二甲板に出ると、そこは船員たちの居住空間だ。船首方向に水兵らの寝起きする大部屋。船尾方向には艦長や士官らの個室が並んでいる。
「ちょっと休んでいくか。実は今朝、艦長に頼まれて、客人に出す菓子を買っておいたんだ。クッキーとかいう西洋菓子なんだけど。たくさんあるから、ちょっとくらい味見してもばれないだろ」
長嶺は戸棚から四角い風呂敷包みを取り出して机の上に置いた。四人が興味津々見守る中、もったいぶったようにゆっくりと包みを解く。
「御開帳!」
掛け声と共に、わっ、と歓声が上がる―――はずだった。
しかし。
なぜか一様にぽかんとした顔で重箱の中を見つめている。
「なんだ? どうした、驚きすぎて言葉も出ないか?」
「ある意味、そうかもしれん」
見てみろ、と言って大和が指差した先には。
「……ぼた餅?」
珍らかな西洋菓子の代わりに、見慣れた餡子の和菓子が鎮座ましましていた。
*
「これぞ本当の棚からぼた餅ってやつか?」
「あ、志道さん上手い」
「冗談言ってる場合か! どこかで包みを間違えたんだ」
「クラ、心当たりはあるのか?」
「ああ。包みを手から離したのは、貞次郎と昼飯を食べた時だけだ。貞次郎も似たような包みを持っていたから、その時間違えたんだろう」
貞次郎とは、長嶺らが蒸気船を購入する際に世話になった伊豆倉屋商店の番頭、佐藤貞次郎のことである。
とにかく急いで菓子を取り替えねばならない。大和に留守を託し、残る四人は伊豆倉屋へと急行した。
……だが、その意気も虚しく、包みはすでに佐藤の手を離れた後。贔屓にしてくれていた外国の客が国に帰ると言うので、餞別に渡したというのだ。
「まさか包みを取り違えておりましたとは、まことに申し訳もございません」
佐藤が青い顔で頭を下げる。
「不注意だったのは俺も同じだ。それで、その客は今どこにいるのか分かるか? 間に合うようなら、これを届けたい」
「午後には発つとおっしゃっていました。急げばあるいは……」
「よし、行こう!」
かくして、佐藤を加えた五人は揃って桟橋へとなだれ込んだ。
「どの船だ!?」
「あれ、あの船でございます!」
佐藤が指したのは、左右の舷に外輪のついた蒸気船だ。大きく帆を張り、煙突からはもくもくと煙が吹き出し、今にも動き出さんばかりである。
「いかん! 乗れ!」
高杉は桟橋に繋いであった小舟に飛び乗ると、乱暴に縄を叩っ斬り、皆が乗るのも待たずにぐいぐいと櫂をこいで蒸気船に肉薄した。
「待て! その船、行くな!」
「ぷ、Please wait!」
「しばらく、しばらーく!」
かろうじて一緒に乗り込んだ草月と佐藤も必死に呼びかける。少し遅れて、志道と長嶺も別の小舟でそれに続く。だが、小舟は蒸気船からの波を受けて今にもひっくり返りそうだ。甲板から顔を出した乗客らしき男性が、こちらを見て驚いたように何事か叫んで、奥に引っ込んだ。
(お、落ちる――……!)
もう駄目だと思ったその時。
巨大な鉄の塊がゆっくりと振動を止め、見上げる草月たちの目の前に、まるで救いの手のようにするすると縄梯子が下ろされた。
*
最初は何事かと怒り狂っていた船長だったが、事情を理解すると、いたく感動して、伊豆倉屋の客だったという男性を呼んでくれた。
そうして無事に交換を終えて壬戌丸に菓子を届け、大和と一緒に伊豆倉屋に戻った頃には、すっかり日も落ちて、みな精根尽き果てていた。
「あーあ、せっかくクッキーとやらを食える機会だったのに、食べ損ねてしまったな」
座敷に大の字に倒れこんで、悔しそうに長嶺が言うと、志道がにやりとして懐から何がしかを取り出した。得意げに広げた懐紙に包まれていたのは、船室の棚に置いてきたはずのクッキーだ。
「これは! お前、いつの間に!?」
「棚に戻す前に、こっそり少し失敬したんじゃ。ここまでして、食いっぱぐれるのは御免じゃろう?」
「さすがは聞多! 手癖の悪さは天下一品じゃのう」
高杉が手を打って喜び、さっそく皆してクッキーに手を伸ばす。
「美味しい~!」
真っ先に至福の声を上げたのは草月だ。砕いたクルミを練りこんだ素朴なクッキーで、馴染みのある味とは少し違っているが、それでも美味しい。
「これがクッキーか。変わった風味じゃが、なかなかいけるの」
「うん、このさくさくした食感も面白い」
と、西洋菓子初体験の者たちにも概ね好評の様子。
そこへちょうど佐藤が酒と夕食を持って現れ、試食会はそのまま酒盛りへとなだれ込んだ。
酔って騒いで、思想も政治も何もかもを飲み込んで、横浜の夜は更けていく。
草月は体の内にかすかに揺らめく波を感じながら、静かに眠りについたのだった。




