第18話 懐かしい風
ひんやりとした風が頬を撫でる。照り付ける陽射しはまだまだ強いが、それでも少しづつ秋が近づいていると感じられる。すっかり定位置となった南西端の屋根の上で、草月は頭からすっぽりと笠を被って仰向けに寝転んでいた。先ほどから有備館のほうで聞こえていた喧騒もいつしか止んでおり、今はたださやさやという微かな葉擦れの音だけが聞こえる。
(秋か……。私が藩邸に来て、もう一年が経つんだな)
最初の頃は、ただ楽しかった。賑やかで明るい人たちに囲まれ、たつみ屋を懐かしく思いこそすれ、辛いと感じることは一度もなかった。でも、ずっと楽しいままではいられない。
開国、攘夷、尊王、佐幕……。様々な思想が絡み合い、大きなうねりとなって時代は動いていく。
ここで暮らすことで、草月はその一端に触れた。
人の死を間近に見た。
志が、文字通り命がけであることを知った。
現代にいたら、一生感じえないことだっただろう。
(でも、それは、私が望んだことの結果だ。ここにいても、たつみ屋にいた時と同じように、難しい時勢のことなんて全く知らずに生活することもできた。でも、私は知りたいと思った。この時代のこと、高杉さんたちが成そうとしてること……。私が悩んでるのは、自分のすべきことが分からないからだ。高杉さんなら、何て言うかな……)
いつか、この屋根の上で話した時のことを思い出す。
松陰の夢を継ぎ、洋行したいと語った高杉。
今は遠い上海にいるが、もう一度会えるのなら聞いてみたい。
(どうしても、武力による攘夷をするべきなんですか――?)
突如、枝をしならせるほどの強い風が吹いた。
飛ばされそうになった笠を、咄嗟に手で押さえる。
(危ない危ない)
笠の下でふうと息をついた時、笑い含みの声が耳朶に届いた。
「こんなところで堂々さぼりか? おのしもやるようになったのう」
「――っ!」
弾かれたように飛び起きて、陽の眩しさに目を細める。陽光を背に、仁王立ちをした小柄な影。見間違えようはずもない。
「――高杉さん!!」
「よう、久しぶりじゃな」
以前と変わらぬ不遜な笑みを浮かべて、高杉晋作がこちらを見下ろしていた。
*
「お帰りなさい! いつ、いつ戻って来たんですか?」
思わず前のめりになる草月を焦らすように、高杉はゆっくりと隣に腰を下ろした。
「上海から長崎に戻ったのは七月じゃ。それから京に行って、殿に旅のご報告を申し上げたり……。色々しちょったけえ、江戸には今朝着いたばかりじゃ。さっき有備館に顔を出してきたら、さっそく質問攻めにあっての。いい加減、嫌になって逃げ出して来たら、おのしがいた」
「いいんですか? みんな聞きたいんですよ。異国のこと」
「上海土産を置いてきたけえ、構わんじゃろ。今頃そっちに夢中で、僕のことなど忘れちょる」
「お土産?」
「本やら鞄やら香炉やら……。それから、これじゃ」
にやりと笑って、懐から無造作に取り出したのは……
「え!? これ、ピストル!?」
「六連発の最新の短筒じゃ。二丁買った。いいじゃろう?」
「うわ、本物ですか? ……初めて見ました」
おっかなびっくり持たせてもらうと、思いのほか重量がある。ずっと構えているにはかなり腕力がいりそうだ。戯れに引き金に指をかけてみると、気を付けろよ、と横からのんびりした声。
「弾が入っちょるけえ」
草月は電光石火の速さで手を離した。
「先に言ってください!」
「少しは涼しくなったじゃろう?」
「ええ、肝が冷えましたよ! お陰さまで!」
楽しげに笑う高杉を、草月は思い切り睨みつけた。だが、そんなもの毛ほども怖くないというように、高杉は草月の頭から笠を取り上げると、くるくると器用に回し始める。
「しっかし、たまげたぞ。半年ぶりに帰ってきてみれば、長州は攘夷に藩是を変えちょるし、おのしは――」
くいっと口角を吊り上げ、
「さぼりを覚えたらしいし」
「別にさぼってるんじゃありません。今日は有備館の講義もないし、急ぎの用もないからここで涼んでただけで……。それより、笠返してください。日焼けしちゃうじゃないですか」
「紅の一つも引かんくせに、そういうところは気にするんじゃな」
「男の恰好して、お化粧してるほうがおかしいですよ」
草月は返された笠を目深に被りなおした。
「高杉さんは、ずいぶん日焼けしましたね。やっぱり、海が長かったからですか?」
「まあな。……上海は凄かったぞ。港に、諸外国の船が何千とひしめいちょってな。商船だけじゃない。蒸気で動く最新鋭の軍艦もじゃ。想像できるか?」
――想像もつかない。
「それを見ただけでも天地が引っくり返るような衝撃じゃったのに、街がこれまた尋常でない広さでな――」
城郭のような、諸国の商館の白壁が延々と続く街。絶え間ない砲声の響き。
上陸した高杉は、そこで幕吏に従って外国の領事館に行ったり、練兵を見学したり、アームストロング砲という最新鋭の武器を見せてもらったりした。
休日には友人と一緒にアメリカ人やイギリス人の住まいを訪ねて話を聞き、ある清国人とは意気投合して、固い友情を誓い合った。
日本人が珍しいのか、街で本屋や骨董屋を覘いていると、住人にぞろぞろと付いて回られて閉口したこともあった。
生き生きと描写される上海での様子は、その空気さえ肌身に感じられるほどで、草月はじっと聞き入った。
「じゃがな」
ふいに高杉は声を落とし、
「こんなものは、上海の一側面でしかない。豊かなのは異人ばかりで、清国人のほとんどが貧しいその日暮らしを強いられちょる。街中を異人が我が物顔で横行し、清国人は脇に避けて道を譲るんじゃ。これではもう、上海は清国のものとは言えん。……僕は、上海が日本の未来のように思えた」
「え?」
未来、という言葉に一瞬どきりとする。
「おのしなら分かるじゃろう。前々から異国の力は侮れんと言っちょったおのしなら。……僕は正直、舐めちょった。異国の技術が優れているとはいっても、どれ程のものかと。じゃが、上海を見て悟った。あれだけの軍事力を持った国に本気で攻め込まれたら、日本は負ける。真に『奉勅攘夷』を掲げるなら、これまでのような生ぬるいやり方ではいかん。叡慮に背いて条約を結んだ幕府の非を糺し、一戦するも辞さん覚悟で臨まんと――」
「ええ!? ちょ、ちょっと待ってください。異国だけじゃなく、幕府とも戦う気ですか? 少し論理が飛躍しすぎじゃないですか?」
「それくらいの気概でやらねば、事は成らんということじゃ。周りを見てみろ。諸侯は口ばかりで傍観を決め込んじょる。長州にしても、どれだけ本気で攘夷をする気があるのか怪しいもんじゃ。先だっても、横浜で異人斬りをしようとした者を世子様がお止めしたと聞いたぞ」
――来原のことだ。
草月は無言で目を伏せた。
「幕府や朝廷への工作など、単に自分を世間に知られたいがための虚飾にすぎん」
「……でも、桂さんや久坂さんは、そういう大きな力を利用して、諸藩に動員命令を出そうとしてるんでしょう? もし本当に戦うなら、長州一藩より、その方が有利なんじゃないですか」
「それで諸藩が本当に動くならな。あてにならん他力本願より、長州だけでも軍備を整え、有事に備えるべきじゃ。――そこで真っ先に手を付けるべきは何じゃと思う?」
「えっ? えーと……」
外国が攻めてくるとしたら、海からだから……。
「沿岸の防備を固める。具体的には、砲台を設置する、とかですか?」
「それもある。じゃが僕は、船を揃えることが第一じゃと思う。砲台も有効ではあるが、それでは敵艦を不用意に国に近づけてしまう。それより、軍艦を数多く揃えて、日本に近づく前に撃退するのが上策じゃ。なのに、どれだけ僕がそう説いても、誰も耳を貸さん。数千隻の蒸気で動く軍艦に対して、小さな帆船の一隻や二隻で何ができる? 長州には今すぐ蒸気船が必要なんじゃ。藩の石頭連中は、なんでそれが分からん!」
激しく語気を荒げ、がつんと屋根瓦を叩いた。
すでに独断で蒸気船を買おうとして(値二万両もする!)、慌てた藩上層部が急いでもみ消しにかかったらしい。
ただ一人周布だけは、「もう契約してしまっているのだし、殿さまの金銀のお道具を売り払えば、払えないこともあるまい」と言って賛成してくれたらしいが。
草月には、高杉の焦燥が分かる気がした。
攘夷を声高に叫ぶ人たちには、異国の軍事力の高さが本当には分かっていない。ただやみくもに日本の優位を信じている。
だが高杉は違う。高杉はもう、彼我の力の差を知ってしまった。変わってしまった自分と、変わらない仲間。そのはざまで苦しんでいる。
有備館を抜け出してきたのは、きっとその場にいるのが辛かったからだ。
「長州の人たち皆、上海に行かせればいいんですよ。それで、これ見ても同じ事が言えるか、って言ってやるんです」
「全員か。そりゃあええのう」
淋しげに笑う高杉の横顔を、草月はただじっと見つめることしか出来なかった。
高杉が書置きを残し、藩邸を飛び出したのは、それから数日後のことである。




