第17話 藩論転換
文久二年、七月六日。
京、長州藩邸の一室にて。久坂は身じろぎ一つせずに、ただある報せを待っていた。今、大広間では、藩是を決めるための御前会議が開かれているはずだ。
――開国か、攘夷か。
握り締めた拳にじっとりと汗がにじむ。
どれ程時が経っただろうか。
久坂が顔を上げるのと、障子に影が映ったのはほぼ同時だった。
「――桂さん!」
固唾を呑んで言葉を待つ久坂の前で、桂は簡潔に言った。
「成った」
*
――『奉勅攘夷』。
劇的な藩論の転換と共に政府の人事も一新され、桂は実務の重要な役職である御右筆に抜擢された。
京では朝廷と藩との意見のすり合わせに奔走し、八月に世子に随行して江戸へ戻って来てからも、幕府へ攘夷実行を承認するよう工作するなど、休む間もなく精力的に働いている。
四月の寺田屋事件で肩透かしを食らい、鬱憤の溜まっていた有備館の面々も、今度こそ攘夷実行が近いと、刀の手入れに余念がない。
(桂さんたち、攘夷を目指す人たちにとっては、悲願達成の第一歩って感じなんだろうけど……)
沸き上がる歓声の輪を、草月は一人離れたところから見ている。
(素直には喜べないな。外国と戦争なんか、して欲しくない。もっと平和に、友好関係を築いて欲しい)
でもそれが無理なことは、もう草月にも分かっている。
(外国は、日本を対等には見てくれない。今も、外国との貿易の影響で、物価が上がったり、金や銀が大量に海外へ流出したりしてる。外国船が我が物顔で日本の海岸線を測量していても、幕府は怖くて追い払うこともできないんだ。……なのに。それが分かってるのに)
不甲斐なさに、唇を噛む。
(単に戦争が嫌だからしないで欲しいなんて、こんなの、ただの子供のわがままだ。皆には、はっきりと目指す国の姿があって、そのために真っ直ぐ進んでて。私だけ、ここへ来た頃と何も変わってない。どうしたら――)
「迷うことなどない! 異人を斬って死ぬだけだ!」
(えっ!?)
ぎょっとして、声のした廊下を振り返る。何事かと集まって来た館生と一緒に、障子の隙間からそっと外を窺うと、桂が暴れる壮年の武士を体を張って止めているところだった。
「来原さん、どうか落ち着いてください。異人の一人や二人斬ったところで何になります? それよりも、幕府に攘夷実行を迫り、諸藩一丸となって事に当たることこそ肝要ではありませんか! 今、あなたがすべきことは、異人斬りではなく、ここで世子様をお助けすることです」
「いっぱしのことを言うようになったではないか、桂」
来原と呼ばれた武士は、鬼でも射殺せそうな峻烈な瞳で桂を睨みつけた。
「いいから、どけい! 殿が攘夷という叡慮に従うとお決めになった以上、長州こそが率先して行動を起こさねばならんのだ。すでに薩摩に先を越されておることを恥と思え! 他力本願など考えておっては、いつまで経っても事は成就せんぞ!」
激しい応酬は止まることなく、二人はそのまま廊下の奥へと消えた。
「……すげ……。迫力あったなぁ」
館生の一人がぽつんと呟く。その言葉でようやく緊張が解けたように、皆が次々に口を開いた。
「来原さんか。話には聞いてたけど、想像以上だな」
「桂さんも、よくあの目に睨まれて平気じゃのう。俺だったら、小便もらしそうじゃ」
「確かに!」
「けど、来原さんて、確か開国派だったろ。長井とも親しかったし。それが、長井が失脚して藩是が攘夷に決まった途端、手のひら返したように攘夷、攘夷って、ちょっと調子がよすぎるよな」
「確かになぁ。なんか保身に走ってる感じが……」
「――来原さんを悪く言うな!!」
ぴしゃりと叩きつけるような声に、草月たちは一様にはっとしてその声の主へと顔を向けた。皆が廊下のやり取りに気を取られている中、ただ一人その場を動かなかった人物。
彼――伊藤は、悲しみと怒りがない交ぜになったような表情を浮かべて、じっと己の拳を見つめている。
「あの人は……」
言いかけた言葉を、ぐっと飲み込む。
そして真一文字に唇を引き結ぶと、何も言わずに部屋を出ていった。
「……あー、……いや、その、な……」
伊藤に怒鳴られた男が、気まずそうに頭をかく。
「あの、来原さん、って?」
「ああ、草月は知らないのか」
男はどこかほっとしたように息をつき、
「来原良蔵さん、ていって、俊輔が子供の頃、学問を教わった師匠だよ。桂さんの義理の弟でもある」
「え――」
*
草月が次に『来原良蔵』の名を聞いたのは、彼の死を知らせる訃報によってであった。それはわずかに、有備館で姿を見かけた、その二日後のことである。
『開国を唱えて来た自分の不忠の罪は逃れ難く、余儀なく切腹する』との遺書を遺しての自害だった。
長州藩の急激な方針の転換が、来原を追い込んだのだ。藩が殺したようなものだった。
忠臣の苛烈な死に、誰もが衝撃を隠せなかった。藩は、来原を手厚く葬り、遺族に弔慰金を下賜するなど、異例の厚遇を与えた。
伊藤が来原の遺髪を国元に届けに行くと聞き、草月は悩んだ末に意を決して伊藤を長屋に訪ねた。
一声かけて、戸を開ける。
月のない夜。明かりの点いていない部屋は、まるで果てのない闇のようだ。
「あの、この度は、本当にご愁傷さまでした。……明日、長州に発つって聞いて、おにぎり、作ってきました。明日のお弁当です。多めに作ったから、良かったら後で食べてください。夕ご飯、食べてないでしょう?」
言葉が端から闇へ吸い込まれていく。それでも、草月は伊藤に届くように懸命に言葉をつむいだ。
「伊藤さん、私……。私、聞くくらいしかできないですけど、でも、話したいことあったら、何でも言ってくださいね。話すだけでも、少しは楽になることもあると思うし……。私には、開国派も攘夷派もないから。悲しいとか、辛いとか、みんなの前じゃ言えないこと、何でも……。いつでもいいですから」
返事はない。ただ深い闇だけがある。
「……それじゃ、行きますね。おにぎり、戸口の横に置いておきますから」
踵を返した、その時。
「なあ」
闇の奥から、声がした。
「はい」
草月は足を止め、声のほうへ向き直る。闇に慣れてきた目に、背を向けて蹲る伊藤の姿がぼんやりと映る。
「前に話したよな。俺が餓鬼の頃、勉強を教えてくれた人のこと。……来原さんだけだったんだ。どうせ足軽の子なんて大したこと出来ないって、端から諦めてた俺を、叱咤して前に進む力をくれた。自分でさえ信じてなかった俺の未来を、あの人だけが信じてくれたんだ」
『利助、卑屈になるな。人と交わり、学問を修めれば、きっとお前は大きな男になる』
「そう教え、諭し、励ましてくれた人だった。なのに、俺はあの人を追い詰めるようなことをした。来原さんは忠義の人だ。長井に賛同して開国論を推していたあの人が、藩が攘夷に傾いてく状況で、どんな風に思っていたのか、俺が一番分かっていなきゃいけなかったのに。俺のせいだ! ……けど、それでも。他に道はなかったんですか! 死ぬ以外に、道はなかったんですか!! なんでじゃ、来原さん! なんでじゃ……!!」
だん、だん、と床に拳を打ち付ける音に、嗚咽交じりの声が重なる。
「くそう、くそう、くそうっ……!」
血を吐くような伊藤の叫びを、草月は胸を抉られるような思いで聞いていた。きっと、この時代の武士にとって、死はとても身近なもので。責任を取っての死も、志を貫いての死も、当たり前のことで。いつだって、その覚悟ができている。
でも、それでも。
親しい人が亡くなって、悲しくないわけがない。辛くないわけがない。
自分に何が言えるだろう。
人の生死など関係ないところで安穏と生き、近しい人の死に立ち会ったことのない自分に。
「私――」
何か言いたくて、言ってあげたくて、衝動的に声を上げた。
「私、その来原さんて人のことは何も知りません。でも、伊藤さんがとっても尊敬してたことは知ってます。前にその人のこと話してくれた時の伊藤さん、すごく嬉しそうで、きらきらしてました。伊藤さんがそんなふうに話す人なら、きっと、伊藤さんが今そうやって自分を責めること、望んでないと思います。来原さんは、自分を貫き通した。だから、伊藤さんにも自分の道を貫いて欲しいと思ってるはずです。……ごめんなさい、何も知らないのに分かったようなこと言って。全然、慰めになってないですよね。私、もう戻ります」
戸を閉める寸前、微かな「ありがとう」の声が、確かに聞こえた気がした。




