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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
19/54

第16話 手紙

 じめじめとした梅雨からようやく解放されたと思えば、たちまち焼けつくような暑さがやって来る。藩邸には、まるで四方から迫りくるように、圧倒的な声量をもって蝉の声が響いている。

 もし南西の隅を通りかかった人が、蝉を探して頭上を見上げたら、屋根からにょっきり飛び出た白い足にぎょっとすることだろう。だが滅多に人の来ないここでは、気の毒な藩士の肝を冷やすこともなく、草月は一人ゆっくりと木の陰で涼を取りながら、京にいる伊藤からの文に目を通していた。



                        *



『 草月へ。

  元気にしてるか? こっちは俺も桂さんも元気だよ。

  久しぶりに久坂さんにも会えたんだけど、会って驚いた。

  精力的に活動してるっていうのは聞いてたけど、ホントすごいんだ。

  他藩にも顔が利いて、今じゃ藩のお偉方にも一目置かれてる。

  草月のこと、気にしてたよ。勉強は進んでるかって。あ、今、顔が引きつったろ?


  それにしても、京って暑いよな。

  じっとしてるだけで、じりじり溶けていきそうっていうかさ。

  まあでも、それを除けば京はいいぜ。酒はうまいし、綺麗な女もいっぱいいるし。

  京女はいいよなあ。はんなりしてて。

  江戸の気の強い女もいいけど、こういうのも堪らな(以下、塗りつぶしにより判読不能)


  えーと、何だっけ、そうそう、頼まれてた屏風の件。

  昨日、やっと時間が取れたから、寺田屋まで行ってきた。

  寺田屋ってのは伏見にある旅籠で、お登勢っていう気の強い女将がやってるんだけど、

  そのお登勢の話じゃ、草月が言うような、猫の絵が描いてある屏風は置いてないらしいよ。

  残念だったな。故郷に帰るための手掛かりだったんだろ?

  でも、俺もこれから出かけた先で聞いてみるようにするし、

  桂さんや久坂さんも  協力してくれるっていうから、あんまり気を落とすなよ。


  最後になったけど、綺麗な透かしの入った料紙を見つけたから、土産にあげるよ。

  お花と分けて。

  あ、くれぐれも、京女うんぬんってのは、お花には内緒な!

  それじゃあ、この辺で。体に気を付けてな。


                       文久二年 六月八日  伊藤俊輔 』




                         *




(……ふう)

 知らずに詰めていた息を吐き出し、草月はどさっと仰向けに寝転がった。

 濃い緑の葉の間から、木漏れ日がきらきらとのぞいている。

(やっぱ、そう簡単には見つからない、か)


 ――あの日。


 京に変事あり、との報せを受けた周布は、すぐさま状況確認と藩士統制に動いた。

 久坂たちの無事を祈りながら、ただただ待つしかない身がもどかしく、草月はこの時ほど文明の利器があればと切に願ったことはない。

 ひどく長い数日が過ぎ、ようやく桂が皆を有備館に集めた。

 まず、久坂を初め、長州藩士の中に死傷者はいないことが伝えられた。(これには、その場にいた全員の口から安堵の息が漏れた。)

 続いて、寺田屋の顛末が語られる。

 当初、攘夷派と思われていた島津久光には、実際のところ攘夷の意思はなかったこと。血気に逸る一部の過激攘夷派を疎ましく思った久光が、彼らのいた寺田屋という旅籠に藩士を派遣。鎮撫を拒否した攘夷派を上意討ちにしたこと。

「長州の中にも、薩摩攘夷派と呼応して事を起こそうとする動きがあったらしい。幸い、今回はこちらに犠牲はなかったが、もし寺田屋に長州の者がいたら、斬り合いに巻き込まれていたかもしれない。お前たちも、くれぐれも軽挙は控えるように」

 桂はそう締めくくった。

 その日は仲間の無事を祝って盛大な宴会になり、草月は深更に至ってようやく床に就いて目を閉じた。 その時だった。

 それはまるで天啓のように突然脳裏に閃いた。

 ――『寺田屋』

 なぜすぐに思い出さなかったのだろう。確か、坂本龍馬に関係する場所ではなかったか。

 もし、それが、龍馬暗殺の場所で、そこに、草月を幕末へと導いたあの屏風があれば。

(……帰れるかもしれない)

 一度芽吹いた考えは、容易には消えてくれず、桂に従って京へ行くと伊藤から聞かされた時、無理を承知で、寺田屋に行って調べて欲しいと頼んだのは、その一縷の望みに賭けたからだ。

 だが、寺田屋にあの屏風はなかった。

 では、一体どこにあるのだろう。

(伊藤さんたちは探してくれるって言ってくれてるけど、忙しいのにあまり無理を言うわけにいかないし……。やっぱり、自分で京へ行って、探すべきだよね。……でも、ここから京までって、どのくらいかかるんだろう)



                        *



「そうね、男の人なら十日やそこらで行けるでしょうけど、女の足だと、だいたい二十日くらいかしら」

 伊藤の京土産を渡しに相模屋へ行ったついでに尋ねてみると、花菱は大事そうに料紙を文箱に入れてから振り向いた。

「道中、駕籠を使わずに全部歩くにしても、その間の宿代でしょ、ご飯代に、川越の船賃、草鞋の替えなんかも……。色々合わせると、最低でも七、八両はいるんじゃないかしら」

「は、八両……! そんなに要るの!?」

「あら、これはあくまで何事もなく順調にいった場合よ。実際は、天候や体調の良し悪しで随分変わって来るし、万一、増水で何日も川止めなんてことになったら、その間の宿代が余計にいるわけだし」

 それに、と花菱は珍しく怖い顔をして、

「ましてや女の一人旅でしょ? いくら庶民の間でも旅が一般的になってきたとはいっても、追いはぎや夜盗の心配だって十分あるんだから」

 たとえ無事に京へ着けたとしても、生活はどうするのか、住むあてはあるのか。畳みかけられ、もはやうんともすんとも言えなくなった草月は小さくなって俯いた。

「……ごめんなさい、舐めてました」

「分かればよろしい」

 つんと澄ましたように言って、けれどすぐに気遣わしげな顔になる。

「草ちゃん、私、本当に心配してるのよ? 故郷に帰りたいっていう気持ちはわかるけど、どうか無理はしないでね」

「ありがと、お花ちゃん。でも、まだ行くって決めたわけじゃないし……。第一、行く行かないって以前に、路銀が全然足りないしね。何か仕事を見つけて稼がないと。お金がたまったら、そこでちゃんと考えるよ」

「うん。もし行くと決めたら、その時はきっと教えてね」

「うん、必ず」

 固く約束を交わして外へ出ると、海からのぬるい潮風がさあっと髪を揺らした。もう陽が沈む頃だというのに、まだまだじっとりと粘りつくように暑い。はるか遠い水平線を見つめ、

「……よしっ」

 自分に気合を入れると、気持ちを新たに歩き出した。



                        *



『 伊藤俊輔様。


  お手紙拝見しました。

  お元気そうで、なによりです。こちらも特に変わりなく、元気でやっています。


  まずは寺田屋の件、お世話になりました。

  結果は残念でしたけど、寺田屋ではない、ということが分かっただけでも、

  一歩前進だと思います。

  気長に探すつもりなので、伊藤さんたちも、無理しないでくださいね。

  それに私も、いつか京に行こうと計画中なんです。……色んな意味で道は遠いですけど。

  あ、でも、一歩は踏み出せたかな?

  路銀を稼ぐために仕事を探してたら、周布さんが洋書の翻訳をする仕事をくれたんです。

  私の語学力では分からないことも多いですけど、辞書で調べたり、

  蘭学に詳しい村田蔵六さんていう人と協力したりして頑張ってます。

  伊藤さんは村田さんに会ったことありますか?

  桂さんが兵学の才を見込んで招聘した人らしいんですけど、特徴的な顔立ちの方で、

  しかも、ちょっと……、いえ、かなり無愛想な人なんですよね。

  一度会ったら、なかなか忘れられません。


  あ、周布さんと言えば、この間、面白いことがあったんですよ。

  お花ちゃんに会いに相模屋に行った時のことなんですけど、

  ちょうど周布さんや来島さん達も来ていて、一緒に飲もうって誘ってくれたんです。

  良い具合にお酒がまわって、程よく酔っぱらってきた頃、どういう話の流れか、

  この中で一番女装が似合うのは誰か、って話になりましてね。

  確か、芸者に化けて、幕府の役人から情報を探れないか、みたいな話をしてたのかな。

  それで、色んな意見が出る中、来島さんは顔が厳ついから絶対無理だ、となって。

  そしたら周布さんが、じい様だっておしろい塗って紅さして振袖着れば女に見えるだろう、

  なんて言いだしたから、さあ大変。

  うっかり想像してみんな大爆笑しちゃって、怒った来島さんが、

  それならお前たちも女に化けられるなら化けてみろ、と大騒ぎ。

  それからは凄かったですよ。

  芸者さんたちも面白がって、お化粧から着物まできっちり整えてくれて。

  私が検分役を務めたんですが、もう、壮観でした。

  なんせ、真っ白の塗り壁みたいな顔した女装の男性が、ずらりと並んでるんですから。

  事情を知らない人が見たら、妖怪の集まりとでも思ったんじゃないでしょうか。

  失礼ながら、お花ちゃんや他の芸者さんと一緒に思いっきり笑ってしまいました。

  でも周布さんたら、次の日起きたら、そのこと何も覚えてないんですよ。

  後で皆に聞いて、しきりに悔しがってました。

  何でそんな面白いこと俺は忘れてるんだ!って。

  そうそう、誰が一番似合ってたかは、ここでは言わずにおきますね。

  帰って来た時に、お花ちゃんに聞いてください。


  それでは、長くなったのでこの辺で。

  桂さんや久坂さんにどうぞよろしく。

  伊藤さんも、お体に気を付けて、お仕事頑張ってくださいね。


                          文久二年 六月十七日    草月拝  』




                         *



「随分熱心に読んでるな、俊輔。恋文か?」

 御所の南東。高瀬川沿いに建てられた長州藩京藩邸。炎天下の陽射しの中、船着き場に舟を着けた久坂は、川に足を浸して涼を取る伊藤に気付いて、からかい交じりに声をかけた。

 だらしなく衿元をくつろげている伊藤に対し、この暑さにもかかわらず、きっちりと衿を整えた姿が久坂らしい。

「女からの文には違いないんですけどね」

 伊藤はにやっと笑って、

「草月からです」

「……江戸は相変わらずのようだな」

 一読した久坂は苦笑を漏らす。

「でも、草月が元気そうで安心したよ。寺田屋の屏風がはずれだったことで落ち込んでるんじゃないかって心配していたから」

「久坂さんのほうは、聞き込みの成果はどうですか? それらしき屏風はありました?」

「単に猫の絵が描いてある屏風なら、いくつか見つけた。でも、どれも形や大きさが違ってね。せめてもう少し特徴が分かれば探しやすいんだが」

「草月もはっきりとは覚えてはいないらしいですからね」

 伊藤は額の汗を手で拭った。

 草月と故郷を結ぶ屏風。

 正直、その屏風が草月の故郷とどうつながっているのか、伊藤には良く分からない。そもそも、たつみ屋で働く前の草月のことはほとんど何も知らない。

『ごめんなさい。詳しいことは話せないんです。頼み事しておいて、何勝手なこと言ってるんだ、って自分でも良く分かってます。でも、私にとっては故郷に帰るために、どうしても必要な物なんです!』

 お願いします、と必死な顔で頭を下げた草月の姿を思い出す。

 もとより、伊藤に否やはなかった。

 昔のことを何も知らなくても、草月は大事な友達だから。草月が探して欲しいと言うなら、ただ探してやる。それだけのこと。それは、久坂や桂も同じだろう。

「俊輔、今日の夜空いてたら、僕の部屋で情報交換しないか? 皆が同じ場所を当たったりするのでは効率が悪いだろう」

「分かりました。桂さんのほうの進捗具合も聞いておきますよ。――あ、そうだ久坂さん」

「何だ」

 すでに歩き出していた久坂は、足を止めて振り返る。伊藤は面白がるように目を細めて、

「これ、誰が勝ったと思います?」

 ひらりと文を振って見せた。



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