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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
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第12話 波紋

 高杉の江戸出立で始まった文久二年は、正月気分もそこそこに、慌ただしい時勢の波がいつになく江戸を覆っていた。有備館には連日、桂を訪ねて各地の藩士や浪士たちがやって来て、伊藤と草月はその対応に追われて休む暇もない忙しさだ。

「すまないな、君にまで手伝わせて」

 ある晩遅く、最後の客が帰った後で、桂が申し訳なさそうに謝った。

「とんでもない。いつもお世話になりっぱなしなんですから、ちょっとでもお役に立てて、嬉しいです」

 偽りのない気持ちだった。

 そんな日々がしばらく続いた、一月十五日のこと。

 江戸城の御門近くで何か騒ぎがあったとかで、その日は朝早くから、藩邸内がざわついていた。昼近くになってようやく、老中の安藤信正が水戸浪士に襲われたらしいことが分かり、藩士たちは寄ると触るとその話でもちきりだった。いま一つ事情の良く分からない草月は、そんな喧騒を横目に、常と変わらず有備館の雑務をこなしている。いつも一緒だった伊藤は久しぶりの非番で、ここぞとばかりに昨夜から相模屋へ出かけているため、今日は一人だ。

(伊藤さんとお花ちゃん、うまくやってるかな)

 実は、正太郎に身請けされた初音の代わりに、花菱が相模屋で働くようになったのだ。なぜ本所の芸者が遠く離れた品川へ移ったかというと、先日の根付け騒ぎが原因である。

 犯人は無事お縄になったのだが、どこからともなく、花菱が物の怪憑きだという有難くない噂がたってしまった。店に居づらくなってしまった花菱と、ちょうど初音の後任を探していた相模屋とがうまい具合にはまって、とんとん拍子に話が進んだ。

(そういえば、今、上野でかかってるお芝居が人気だって聞いたな。今度行ったら、お花ちゃんを誘ってみよう)

 昼食をはさんで仕事を再開した時、桂に面会したいと一人の武士が訪ねてきた。年の頃は三十くらい、どこか思い詰めたような目が妙に印象的だった。

 折悪しく桂は出かけていて不在だったため、とりあえず有備館の舎長室に案内する。

「今、お茶をお持ちしますね」

「かたじけない」

 男は生真面目に頭を下げた。

 程なくして戻って来た桂に来客のことを伝えると、桂は端正な顔に思案の色を浮かべた。

「内田万之助? 聞かない名前だな。……まあ、とにかく会ってみよう」

 紹介状を持たない客が不意に訪ねてくるのは良くあることだ。こだわりなく二階に上がって行った桂だったが、いくらも経たないうちにまた降りてきて、少し出かけてくると告げた。こころなしか、表情が硬い。何かあったのだろうか。

「すまないが、あの客人に酒の用意を頼む。思い詰めている様子だから、注意して見ていてくれ。できるだけすぐ戻る」

「分かりました」


                        *


「ただいま~」

 陽気な声とともに、草月のいる書庫へ伊藤が顔を出した。

 はいこれお土産、と小さな箱包みを渡される。

「お帰りなさい、伊藤さん。……何ですか、これ?」

「今評判の、湊屋の饅頭。花菱に買ったついでで悪いけど」

「わ、ありがとうございます。お花ちゃんは元気でした?」

「うん、元気元気。草月にも会いたがってたよ」

「今度、お芝居でも一緒に見に行きたいなって思ってたとこなんですよ。上野でやってる仇討ち芝居が、すごく面白いらしくて。……あ、そういえば、聞きました? 今朝、老中が襲われたって事件」

「ああ聞いたよ。水戸の奴らの仕業だろ?」

「今日はみんな、その話でもちきりですよ。桂さんを訪ねて、訳ありみたいなお客さんも来てるし」

「訳あり? 誰?」

「それがよく分からないんです。桂さんも、その人を置いてどこかへ出かけちゃったし」

「えっ? 出かけた? 珍しいな、客に対して桂さんがそんなことするの」

「でしょう?」

 いつでも、どんな相手にも誠実に接する桂らしくない行動だ。二人で首をひねりながら廊下へ出たところで、ちょうど帰って来た桂と行き会った。

「草月、客人の様子はどうだ?」

「落ち着いてらっしゃいます。手紙を書きたいと言われたので、紙と筆をお出ししました」

「そうか。私はもう一度話してみる。いささか込み入った話になるだろうから、しばらく誰も部屋に通さないでくれ」

「分かりました」

 頷いて、別れかけた、その時だった。

「――愉快、愉快!」

 客のいる部屋の方から、ぞっとするような叫び声が聞こえてきた。

「今の、あのお客さんの声じゃ――」

 草月が言った時には、桂はもう駆け出している。一拍遅れて、伊藤と草月も後に続いた。

 ――パン!

 桂が勢いよく障子を開けた。

 途端、むっとした臭いが鼻腔を満たした。

 そして、目に飛び込んでくる、赤い

「――っ、見るな!」

 咄嗟に、桂が袂で草月の顔を覆った。

 しかし、それより早く、草月の目は部屋の中のものを捉えていた。

 真っ赤な血だまりの中、文机に突っ伏している男の姿。遠目にも、こと切れているのは明らかだった。

 それは、確かに、ついさっきまで話していた男で……。

 ふらりとよろけた草月を、桂の腕がしっかりと支えた。

「俊輔、草月を長屋まで連れて行け! それから、この部屋には誰も入れるな。私は長井に知らせに行く」

「分かりました!」

 矢継ぎ早に交わされる二人の言葉を、草月は半ば放心状態で聞いていた。情けないことに震えが止まらず、その夜から、熱を出して寝込んでしまった。



                        *


 ようやく起き上れるようになったのは、十日ほども経ってのことである。あの時の光景が、まるで写真のようにくっきりと脳裏に焼き付いて眠れず、なかなか熱が下がらなかったせいだ。

 ずっと外の情報と遮断されていたため、あの自害した男が、老中を襲った水戸浪士の仲間であったことも、そのせいで桂と伊藤が奉行所に呼び出しを受けたことも、全く知らずにいた。

 本来ならば、最初に対応した草月も取り調べの対象になったはずだが、桂が手を回して、伊藤が対応したことにしてくれていた。

 遅ればせながらそのことを知り、すぐにでも桂と伊藤に会いたかったが、面会はごく限られており、会わせてもらえない。より詳しい話を聞こうにも、久しぶりに顔を出した有備館では、館生たちが奉行所に殴り込みに行くの行かないの論争すさまじく、話を聞くどころではない。

(他に誰か、事情を知ってそうな人っていえば……)

 思い当たるのは一人だけ。草月は意を決してその人を訪ねた。

「何じゃ、寝込んじょったときいたが、確かに酷い顔じゃな」

 見世物小屋にある人魚の木乃伊のようじゃぞ、と。開口一番、いつものように発せられた皮肉になぜかほっとして、草月は彼――志道の向かいに座った。

「お邪魔してすみません。お聞きしたいことがあって」

「分かっちょる。桂さんと俊輔のことじゃろう?」

「はい。奉行所に呼び出されたって聞いて、心配で……。何か知ってたら、教えてもらえませんか」

「はっきり言って、状況は良くないな」

 正式な藩の人間でもないのに教えられない、と言われるのも覚悟していたが、草月が当事者の一人であったせいか、思いのほかあっさりと志道は口を開いた。

「桂さんを名指しで訪ねて来て、その上自害したんじゃ。何の関係もないというほうがおかしいじゃろう。幕府もそう簡単に騙されるほど馬鹿ではない」

「そんな……。じゃあ、二人は何かお咎めを受けたり……?」

「ないとは言い切れん。じゃが、長井殿の読みでは、それほど深刻なことにはならんじゃろうということじゃった」

「それって……」

 草月はちょっと考えて、

「長井さんの唱える航海遠略策が、幕府にとって大事だから、長州に対して厳しい沙汰はしないだろう、ってことですか?」

「ふん、多少は勉強しちょるようじゃな。まあ、そういうことじゃ」

 小馬鹿にしたように鼻を鳴らした後、ふいに志道は真顔になり、

「いいか、お前は絶対に表に出るなよ。幕府には、水戸浪士が勝手に押しかけてきて死んだ、ということで押し通しちょる。実際、桂さんはそいつと面識はなかったそうじゃし、俊輔も何も知らん。知らぬ存ぜぬで通せば、幕府も手の出しようがないからな」

「はい……」

神妙に頷いた草月は、ためらうように目を伏せていたが、ややあってぽつりと訊ねた。

「……私のせいでしょうか」

「あん?」

「ずっと考えてたんです。私が、もっと、ちゃんと傍で気を付けてたら、あんな――」

「自惚れるな」

 草月の言葉を、志道はぴしゃりと撥ねつけた。

「そいつは、初めから死ぬつもりじゃったんじゃ。武士がそう決めたなら、お前ごときが何をしようと翻意したりせん」

 厳しい言葉だが、真実だった。

「お時間取らせてすみませんでした。失礼します」

 深々と頭を下げて部屋を辞すと、澄んだ冬の空が頭上に広がっている。

(空だけ見てれば、私がいた時代と何も変わらないのに)

 ここでは、人の営みも、考え方も、価値観も、何もかもが違う。

(ホントに、幕末なんだな……)

 無性に、家が恋しかった。



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