第11話 高杉の旅立ち
「なあ、高杉さん見なかった?」
まるで季節が逆戻りしたかのような暖かな小春日和のある日。息を切らせて走って来た伊藤が井戸端に集まった若い藩士らを見かけて尋ねた。下帯を洗っていた有吉は鷹揚に顔を上げ、
「高杉さん? 今日は見ちょらんけど」
どうかしたのか、と聞いてきた。
「桂さんが呼んでるんだよ。急ぎの用みたいで」
「高杉なら、さっき厩のところで見かけたぞ」
いつもの淡々とした口調でそう声をかけてきたのは、楢崎弥八郎だ。
「草月も一緒だったな。人目もはばからず、なにやら大声で喧嘩していたが。今行けば、まだ近くにいるんじゃないか?」
「ありがとうございます! 行ってみます!」
礼もそこそこに厩のある方へ足を向ける。果たして、そちらから馴染みのある声が聞こえてきた。
「――か――て……、――るんじゃ!」
「そんな――から、――です!」
(あーあ、ホントだ、また派手に喧嘩してるなあ)
原因はなんであれ、とにかくここは急いで高杉に桂のもとに行ってもらわなければ。だが、伊藤の決意は、二人の姿を見た瞬間に吹っ飛んだ。
二人とも、着物は土まみれ、草月にいたっては、髪はぼさぼさ、手も足も擦り傷だらけという有様だったからだ。
「どうしたんですか、それ。二人して、相撲でもとってたんですか」
「そんなわけないじゃろう。草月に馬を教えちょったんじゃ」
「馬?」
「はい。今日は天気もいいし、朝から近くの馬場に行って練習してたんです」
草月は着物についた土を払いながら、じろりと高杉を睨んだ。
「でも、ぜんぜん乗れるようにならなくて」
「おのしがとろすぎるんじゃ!」
「私のせいですか!? 高杉さんの教え方が下手なんですよ! 前置きなしにいきなり一人で乗ってみろだとか、ありえないでしょう!」
「こういうもんは、口で説明するより、実際に経験して体で覚えるのが一番なんじゃ!」
「それで何度も落っこちてたら、いつまでたっても乗れるようになんかなりませんよ! 頭ごなしにああしろこうしろ言うだけで、具体的にどうすればいいのかちっとも分からないし、出来ないって言えば、何でこんな簡単なことが出来ないんだって怒るし」
「何じゃと! おのしは、『学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆し』という言葉を知らんのか!」
「知りませんよ! そうやって、難しい言葉で自分の教え下手をごまかそうとしても駄目ですからね。きっと、高杉さんは馬みたいに顔が長いから、馬も仲間と思って乗せてくれてるんですよ」
「ふん、おのしこそ、馬の尻尾みたいな髪型しちょるくせに!」
「これはポニーテールなんだから、馬の尻尾で当たり前なんです!」
「また妙な異国語を使いおって! 分からん言葉でごまかそうとしちょるのはそっちじゃろう」
「先に言いだしたのは高杉さんじゃないですか!」
まるで子供の喧嘩である。
呆気にとられて見ていた伊藤は、はっと我に返って言った。
「そうだ、喧嘩してる場合じゃないですよ。桂さんに言われて、高杉さんを探してたんです。早く行ってください」
「桂さん? 一体何の用じゃ」
「俺には急ぎの用としか。とにかく早く!」
怒りが収まらぬ風の高杉を宥めすかして桂のもとへ向かわせると、伊藤はほっと安堵のため息を付いた。
「やれやれ……。それにしても、どうしたの、突然乗馬なんて」
「この前、高杉さんに旅のお守りをあげたんです。そしたら、お礼に何かくれるって言うから、代わりに乗馬を教えて欲しいって頼んだんです。私のいたところでは、なかなか近くで馬を見る機会もなかったし、この前、久坂さんを追いかけて二人乗りした時は散々だったから、ちゃんと一人で乗れるようになりたくて」
「ふうん」
馬に乗ることは許されない身分の伊藤からすれば、羨ましい限りだ。今度、二人の練習にこっそり付き合わせてもらおうか。
(……きっとまた、大喧嘩になるんだろうけど)
内心でくすりと笑いながら草月と二人有備館に向かい、いつものように仲間と話していると、程なく、戻って来た高杉から、上海行きの内命が下ったと聞かされた。
幕府の上海視察の一員だという。イギリス行きが取りやめになって意気消沈していた高杉のために、周布が骨を折ってくれたらしい。
「すごいじゃないですか! 良かったですね!」
先ほどの喧嘩のことなどすっかり忘れて、手放しで喜ぶ草月に、高杉も嬉しそうに、おう、と答えた。
そして、明けて文久二年一月三日。
親しい仲間に見送られて、高杉は船に乗り、意気揚々と長崎へ旅立っていった。




