第10話 お守り
朝晩の冷え込みが日に日に厳しさを増し、鮮やかに色づいていた庭木の葉もすっかり落ちてしまった。草月が江戸に来て初めての本格的な冬の到来である。
まだ昼の日差しは暖かいが、夜は部屋にいてさえ冷気が足元から伝わってきて、震えるほどに寒い。夜中に目が覚めた時など、外の厠へ行くのが億劫でならず、我慢して寝なおそうと布団で悶々とした挙句に、結局起きだす羽目になったことが一度や二度ではない。
(あ~、電気ストーブやエアコンが懐かしい)
ふうふうと、かじかんだ手に息を吹きかけながら庭の落ち葉を掃いていると、奥の建物から、高杉がやって来るのが見えた。胴着を付けているところを見ると、これから有備館の道場へでも行くのだろう。
「おはようございます、高杉さん」
「おう」
いつものように気軽にかけた言葉に、返って来たのはそっけない一言。しかも、こちらには一瞥もくれずに大股で歩き去った。
「なんか、今日の高杉さん、いつもの三割増しで機嫌悪くないですか?」
伊藤を見かけて事の次第を話すと、伊藤は、ああ、と眉を下げた。
「実は、洋行が取りやめになったんだよ。幕府が使節の随行員を一人しか認めなくて、高杉さんが外されたんだ」
「え――」
あんなに楽しみにしていたのに。本も読んで、英語だって一生懸命勉強して……。
そしてその日、草月の英語指南の時間になっても、高杉は現れなかった。
*
広大な藩邸の中でも、めったに人の来ない、奥まった棟の屋根の上。
そこで高杉は一人、酒をあおっていた。
「もう、こんな所にいたんですか! 探したんですよ!」
非難がましい声に、気だるげに目をやると、梯子の先から草月がこちらを睨みつけている。
「英語の勉強する刻限だったでしょう!」
そういえばそうだったなと思いながら、杯を口に運ぶ。
「もう必要なくなったんじゃ」
「知ってます。伊藤さんから聞きました。……でも、だからってこんなところで飲んだくれててどうするんです。そりゃあ、残念だとは思いますけど、ヤケ酒飲んだって事態は変わらないでしょう!」
草月は危なっかしい足取りで近づいてくると、やおら高杉の手から酒瓶をもぎ取った。
「飲んで何が悪い」
高杉は不機嫌さを隠そうともせずに、酒で据わった目で、目の前の草月を睨みつけた。
「もともと、僕のえげれす行きは、僕を江戸から追い払うのが目的だったんじゃ」
「え?」
「僕を江戸に留め置いちょったら何をしでかすか分からんけえ、外国へ追い払おうとしたらしい。それが取りやめになったんじゃ、遠慮なく暴れて何が悪い」
呆れて帰るかと思った草月は、意に反して、軽やかな声を上げて笑い出した。
「高杉さんの洋行って、そんな理由からだったんですか? い、いくら、江戸にいて欲しくなかったからって、外国に行って来いだなんて……。よっぽど遠くに行って欲しかったんですね! それって、きっと、周布さんの発案でしょう?」
「……おのしは、怒りに来たのか、笑いに来たのか、どっちじゃ」
「あ、そうだ、怒ってたんですよ、私は!」
笑いを引っ込め、怒った顔を作る。
しかし、笑いと共に怒りの感情も吹っ飛んでしまったらしく、妙に中途半端な表情になった。
高杉は毒気を抜かれたように杯を放り出すと、その場に大の字に寝っ転がった。
「ああ、もうやめじゃ! おのしといると、調子が狂う」
「はあ」
村塾の仲間でさえ、機嫌の悪い高杉には怖がって近づいて来ないのに、このお節介なおなごだけは、てんで頓着せずにやって来る。
あまつさえ、怒鳴りつけてきたのだ。
(まったく、こいつは……)
当の本人は、高杉の物思いなど露知らぬふうで、
「私、屋根の上なんて上がったの、生まれて初めてですよ。良い眺めですね」
などと呑気な事を言いながら楽しそうにしている。
「……おのしは、怖くないのか」
「え?」
きょとんとした顔を向けられて、高杉は自分が口に出していたことに気付いた。
「そりゃあ、ちょっとは怖いですけど。でも、景色を見てたら、怖いのなんて、忘れてました」
「いや、屋根のことじゃのうて……。まあ、ええ」
「あ、そうだ! これ」
唐突に草月は懐から小さな布包みを取り出すと、高杉に差し出した。
「お守りです。本当は、出発の日に渡そうと思ってたんですけど……。せっかくだから、持っててください。いつか、また、機会があるかもしれないし」
「……そうじゃな」
礼を言って受け取ると、草月はほっとしたように微笑んだ。ややあって、ぽつりと呟く。
「イギリス行き、残念でしたね」
「うん」
今度は、素直に言えた。
「洋行は、松陰先生の夢でもあったけえの。けど、僕はあきらめんぞ。いつか、先生の志を継いで、必ず洋行してやる」
「はい、きっと」
しばし、二人は海の向こうにある遠い異国に、思いをはせていた。




