幽霊の落とし物・後
草月が花菱を連れて去り、男ばかり取り残された座敷では、志道がぶつくさと文句を言いながら酒を飲んでいた。
「何じゃ、あの女は。あの程度でへそを曲げおって。あんなに短気で良く芸者が務まったな」
「まだ見習いのようなものじゃったらしいがの。……それより、おのしも人のこと言えんじゃろ、癇癪持ちが」
「あーあ、ますます嫌われた……」
がっくりとうなだれる伊藤を見て、さすがに悪いと思ったのか、志道が元気づけるように肩を叩いた。
「そう気を落とすな、俊輔。わしがお前と花菱が二人きりになれるように協力してやる。さっきの感じでは、まったく脈がないわけではなさそうじゃったぞ」
「……本当にそう思う?」
「おう、わしの女を見る目は確かじゃ。……それにしても、遅いのう。あいつ、いつまで臍を曲げちょるつもりじゃ」
志道が廊下を振り仰いだ時、血相を変えた女将が息を切らして飛び込んできた。
「た、大変です! は、花菱と、お連れの方が、か、拐かしに――!」
「……は?」
一瞬、ぽかんとした三人は、女将の言葉を理解するや、一斉に口の中の酒を噴いた。
「――何じゃと!」
「花菱の部屋が荒らされていて、店の外を走り去る怪しい人影を見た者がいるんです。今、うちの男衆に頼んで探しておりますが……」
「どっちの方向に行ったか、分かるか!?」
「北のほう、としか」
「北じゃな! ――女将、すまんが、番所に届けるのは少し待ってくれ。僕らが必ず連れ戻して来るけえ!」
高杉を先頭に、三人は返事も聞かずに店を飛び出した。
*
――寒い。
冷たい床の感覚に、草月の意識はゆっくりと覚醒した。体を起こそうとすると、無理な姿勢で横になっていたせいか、体の節々が悲鳴を上げる。同時に、みぞおちの鈍い痛みが戻ってきた。
(そうだ、私、殴られて……。ここ、どこだろう。やけに埃っぽいけど。真っ暗で何も見えない)
まるで井戸の底に取り残されたような恐怖が全身を駆けめぐる。闇雲に手を動かしていると、ふいに指が柔らかな布地に触れた。
(お花ちゃん!)
肩と思われる場所を掴んで揺り起こす。
「……草ちゃん?」
幸い花菱にも大した怪我はないようだ。しかし、問題はこれからである。
夜目の利く花菱が見たところ、二人がいるのは廃寺か何かのお堂らしい。
「どうしよう、草ちゃん。きっと、最近私の周りをうろついてた人たちの仕業だわ。ごめんなさい、草ちゃんまで巻き込んで、私、どうしたら……」
「落ち着いて、お花ちゃん。何がどうなってるのか良く分からないけど、とにかく逃げなきゃ! ……そっちに、外に出られるような扉とか、ない?」
「待って……、ええと、あった、これかしら」
花菱は扉らしきものに手をかけ、そっと押してみるが、ほんのわずか動いたところで無情にもがたりと止まった。力を入れて幾度か試してみても、どうしても開かない。
「駄目だわ、閂でもかかってるみたい」
花菱がかぶりを振った時、外からごとりと何かを外すような音がして、二人は驚いて後ずさった。
ぎぃぃっという音と共に、見たことのない三人の男が入って来る。雰囲気からして、中央の男が首領だろう。両脇に控える手下の持つ提灯の明かりが、部屋の奥でしっかりと身を寄せ合う草月と花菱を照らし出した。
「ようやくお目覚めか。手間かけさせやがって」
「一体なんなの、あなた達は! お花ちゃんに何の用?」
「別に女に用はない。俺たちが欲しいのは、その女が拾った根付だ」
「根付?」
(って、あの獅子の根付のこと?)
「ほう、その顔は、心当たりがあるようだな。では、それを渡してもらおうか。大人しく渡せば、悪いようにはしない」
(そうは言われても……)
あれは高杉が持ったままだ。もし花菱が持っていないと分かれば、どうなるか……。
寄せ合った肩を通して、花菱の震えが伝わってくる。
(何とかごまかさなきゃ。でも、どうやって――)
ぎゅっと胸の前で握った手が、固いものに触れた。
(――そうだ!)
咄嗟に腹を決めると、草月はきっ、と男を見据えた。
「根付なら、私が預かってる」
「え?」
花菱の小さな声を無視して、草月は続ける。
「渡したら、本当に逃がしてくれる?」
「ああ、約束する」
「分かった。出すから待って」
男から視線を外さぬまま、ゆっくりと手を懐に入れる。探る必要もなく、手はするりと馴染んだ金属製の板――携帯端末に触れた。
(お願い……、点いてよ)
緊張の一拍の後、懐からじわりと光が漏れた。ひゅっと周りで息を呑む気配がする。
「……な、なんだそれは! 鬼火か!?」
狼狽えた男の手から明かりが落ちる。
一瞬にして闇に包まれた室内に、草月の持つ端末の無機質な液晶画面の光だけが不気味に揺らめく。それが一層、男たちの恐怖を倍増させた。
「――お花ちゃん、今のうちに!」
恐慌状態に陥った男たちの脇をすり抜け、草月は花菱の手を引いて一目散に逃げ出した。ここがどこか正確には分からないが、とにかく人のいるところまで行けば助かるだろう。
石灯籠は倒れ、雑草は伸び放題の荒れ果てた境内を、月明かりを頼りにおぼつかない足取りで進む。足袋はだしに小石がちくちくと刺さる。遅れがちについて来ていた花菱が、ふいに躓いて体勢を崩した。
「お花ちゃん! 大丈夫?」
「っ、だいじょうぶ……」
転びはしなかったが、足を挫いてしまったらしい。
「無理しないで。……とりあえず、ここに座って」
手近な灌木の茂みに身を潜ませる。
「ごめん、草ちゃん。……私はいいから、草ちゃんだけでも逃げて」
「何言ってるの、お花ちゃんを放って行けないよ! 大丈夫、きっとお店の人や、高杉さんたちが探してくれてる。何か、合図を送る方法があればいいんだけど――」
「……あ! ねえ、草ちゃん、あれは?」
花菱が指差した先には、月の光に照らされて、鐘楼の姿がくっきりと浮かび上がっている。
「そっか、あの鐘を鳴らせば――! よし、じゃあ私が行ってくる。お花ちゃんはここに隠れてて」
もし男たちが来たらこれを、と言って携帯端末を渡し、草月は鐘楼に向かってそろそろと近づいた。近くで見ると、思った以上に古びて傷みがひどく、撞木の紐は切れていないのが不思議なくらいだ。
(お願い、誰か気付いて――!)
草月は一縷の望みをかけ、渾身の力で紐を引っ張った。
ぼぉぉぉ・・・ん、ぼぉぉー・・・ん
夜の静寂を押しのけるように、低い鐘の音が響く。その余韻も止まらぬうちに、草月はさっと鐘楼から飛び降りた。
(これを聞いて、誰か来てくれれば……!)
だが希望を持ったのも束の間、突如、凄まじい力で片腕を捩じり上げられる。堪らず悲鳴を上げた草月の顔に、生暖かい息がかかった。
「この野郎、舐めた真似しやがって!」
賊の首領が、憤怒に表情を歪ませてこちらを見下ろしている。
「こんなことしても、もう無駄よ! あの音を聞いて、きっと人がやってくる。その前に、さっさと逃げた方がいいんじゃない?」
「生憎だな。ここは町から大分離れた辺鄙なところにあるんだよ。そうそう人など来るものか! この腕、へし折ってやる!」
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げた時、目の端を青白い光が横切った。
「お花ちゃん!」
足を引きずった花菱が、携帯端末をまるで魔よけのお札のように掲げて男を睨み据えている。
「――!」
一瞬、男が怯んだ隙に、草月は渾身の力で肘鉄を食らわせ、花菱のもとに駆け寄る。
「ぐっ! くそ、またそれか。一体何なんだ、そりゃ!? お前ら、物の怪の類か?」
「モノノ……? そ、そうよ! 私たちは、……そう、富岡八幡宮にあるお稲荷さんのお使いよ! これ以上悪さしたら、天罰が下るから!」
「何を馬鹿な――」
言いかけた男の姿が不意に横合いに吹っ飛んだ。
(え? まさか、本当に天罰が!?)
半ば本気で思ったその時。
「……まったく、おのしという奴は」
呆れと称賛が入り混じったような声。
高杉が男を殴り倒したのだ、と理解するのに数秒かかった。
「大の男相手に大立ち回りか。相変わらず無茶するのう」
「やむなくです! 悠長に助けを待ってたら、とっくに殺されてますよ!」
強気に言い返したのは、そうでなければ安堵のあまり、うっかり涙が出そうだったからだ。
間もなく合流した伊藤と志道から、残りの手下もきっちり捕まえたと聞かされた。
「本当にありがとうございました。皆さんが来てくれなかったら、どうなってたか……」
花菱と共に深々と頭を下げ、
「……でも、よくこの場所が分かりましたね」
「それは俊輔の手柄じゃ。あの鐘を聞いて、すぐにこの廃寺のことに思い至ったんじゃけえ。僕と聞多だけでは、もっと手間取ったはずじゃ」
「へえ、すごい、伊藤さん!」
「へへ、俺も、伊達にあちこち使いっぱしりに行ってない、ってこと! 桂さんの人使いの荒さも、意外なとこで役立ったな」
「あの、ところで、この人たちは、一体何者なんでしょう? 私が拾った根付が目的だったみたいなんですが……」
「根付?」
「どれ、見せてみろ」
志道は高杉から受け取ると、伊藤の持つ提灯の明かりにかざして矯めつ眇めつ見た。ややあって、ふうん、と呟くと、にやりと笑って顔を上げた。
「こりゃ、盗品じゃな」
「盗品!?」
「え、何で見ただけでそんなことが分かるんですか?」
「よく見てみろ。一見ただの根付じゃが、こりゃ実はかなりの値打物じゃ。銘は名の知れた根付師の物じゃし、希少なウニコールで出来ちょる。まあ、安く見積もっても五両はくだらんじゃろうな」
五両! と全員の声が揃った。
「それを、こいつらが血眼になって探しちょったんじゃ。盗んだ品としか考えられん。おおかた、例の柳の下で殺された男も盗賊仲間で、分け前をめぐって喧嘩にでもなって、殺してしまったんじゃろう。この根付は、その時に落としたんじゃろうな」
「それで、お花ちゃんの素性を調べて付け狙ってたんですね」
最近噂になっている幽霊話も、これがもとだろう。
(それにしても……)
人を殺したような危険な人物と対峙していたとは。今更ながら、足の震える思いである。
賊たちは、縛り上げたまま、根付と一緒に通りへ転がしておくことにした。朝になれば、誰か見つけるだろう。
「花菱、負ぶってくよ」
歩けない花菱のために、伊藤が背を向けてしゃがみこんだ。
「け、結構です! 自分で歩けます」
「馬鹿言うなよ。その足で歩けるわけないだろ。余計ひどくなるぞ」
どこかで見たような光景だなあ、と思いながら、草月は真っ赤な顔の花菱の肩をつついた。
「負ぶってもらったら? でないと、高杉さんに米俵みたいに担がれるよ」
「えっ?」
花菱はぎょっとしたように高杉を見、それからしぶしぶ頷いた。
*
ころんころん。
高杉に借りた下駄が、優しい音を響かせる。
少し後ろで、嬉しそうに花菱を背負って歩く伊藤の顔をこっそり見ながら、草月はふふふ、と忍び笑いをもらした。
「あの二人、けっこういい感じじゃないですか? 何話してるんでしょうね」
草月がそんなことを言っているとは露知らず、伊藤は背中のほのかな温もりにこれ以上ない幸せを感じていた。
故郷のこと、仕事のこと、子供の頃の悪戯のこと。
とりとめのない伊藤の話に、最初は頑なに体を固くしていた花菱もだんだん打ち解け、時には声を上げて笑ってくれるまでになっていた。
そうして花菱の店が近づいて来た頃。
伊藤は、意を決して問いかけた。
「ねえ、名前、教えてくれない?」
「私の名前は、とうにご存じのはずですけど」
「そうじゃなくて。……君の、本当の名前」
触れ合った背中を通して、花菱が息を呑む気配が伝わってくる。花街の女が本名を明かすことは、その相手に心を預けることを意味する。
返事がないまま、時間だけが流れた。
(怒らせちゃったかな)
せっかく、笑ってくれるようになったのに。
内心でがっくり頭を垂れたその時。首に回された花菱の腕に力がこもった。
しゃらり、と簪の揺れる音。
そして――。
息を止めた伊藤の耳朶に、柔らかな吐息がかかった。




