問題編
本当は、今年の正月に「戌年にちなんで」と銘打って公開するつもりだった作品。
やっつけ感のあるトリックは大目に見てください。
綱吉さんに怒られそうな内容です。殺生、ダメ、絶対。
始まり
サンダルを引っ掛け庭に出て、月桂樹の木の下にある犬小屋に近づいた。入り口を覗き込むと、黄金色の柔らかな毛をもったゴールデンレトリバーが、気持ち良さそうに眠りについてる。朝美春樹は小さく息を吐くと、忍び足でそっと犬小屋から離れた。
そのまま庭から玄関に周り、サンダルからスニーカーに履き替える。車庫から折りたたみ式の自転車を引っ張り出してまたがると、ゆっくりと漕ぎ出した。
目的地の郷原忠柾邸には、十分ほどで到着した。春樹の背丈の倍ほどもある立派な構えの門は、わずかに隙間が生じており鍵はかけられていない。するりと身体を滑り込ませ、朝美家よりもはるかに面積の広いであろう庭に足を踏み入れる。そのまま庭を横切ると、最も奥まったところに小さな墓が設けられていた。
――Oliver, Rest In Peace Here――
英字が刻まれた墓石の前にしゃがみ込んで、およそ一分の間静かに手を合わせる。
「オリバー、きみは本当に死んじゃったの? 僕はね、きみの死にちょっとした疑問があるんだ。でも、その疑問を解決する術を僕は知らない。どうすればいいんだろう」
独り言ちる。だが、その問いに答える声はない。春樹は無言で立ち上がると、ひんやりとした墓石を一撫でした。
春の匂いを乗せた風が、少年の柔らかな髪を揺らして過ぎ去った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その一 関係者らの証言
「では、笠井さんがこちらに入ったときには、すでに忠柾氏は事切れていたと」
縁なし眼鏡をかけ黒髪をオールバック風にきちんと撫で付けた男は、「はい」と生真面目に頷く。
「私が郷原邸に到着したのは、十三時四十分頃でした。忠柾様との打ち合わせは十四時からでしたが、だいたい二十分から三十分前には着くようにしていますので」
「それで、玄関の呼び鈴を鳴らしたところ主からの応答がなく、不審に思いドアノブに手をかけたところ、扉には鍵が掛けられていた」
「ええ。只ならぬ予感がしたものですから、庭先へと回り込み窓から部屋の様子を見てみようかと考えました。一階にある部屋の中で、庭に面している部屋はこの保管室だけでしたので、こちらの部屋の窓に駆けつけました。そうしますと、窓ガラスの一部が割られており、錠が破壊されていることに気がついたのです」
「なるほど。ちなみに、この保管室というのは具体的にどういう?」
「あちらにあります金庫には、忠柾様が海外から買い付けた品が保管されています。そして、こちらのガラスケースには忠柾様の個人的なコレクションが収められています」
「コレクション、ですか」
「ええ。宝石商などという職業ですから、もちろん忠柾様も宝石飾には目がないもので。ちなみに、今回被害にあったこちらのケースに入っていたのは、すべてダイヤモンドで作られた指輪やネックレス、ブレスレットの類です」
「このケースの中身以外に、盗まれた痕跡のあるものは」
「私が見た限りでは、おそらくないかと」
「そうですか――忠柾氏が倒れていたのは、こちらですね」
粉々に砕け散ったガラスケースから離れ、二人の男は窓辺に移動する。窓のちょうど真下あたりの位置に、大人の拳大ほどだろうか、赤黒い染みのようなものがグレーのカーペットに滲んでいた。すぐ傍らには、血糊の付着した三十センチ弱ほどの大きさの置物が転がっている。
「彼を殴ったと思われる凶器は、このアフロディーテの像ですね」
「ええ。いつもは、この窓辺の棚に置かれていました」腰ほどまでの高さの棚が、窓の横に据え置かれている。ガラス窓付きのショーケース様式になっており、中には文字盤やベルト部分に宝石をあしらった、見るからに高価な腕時計が数セット展示されていた。いずれも盗み出された形跡はないようである。
犯人の侵入経路と思われる窓に注目してみると、先で笠井が証言したように、窓のクレセント錠が取り付けられている部分だけ綺麗にガラスが割られていた。成人男性の手首でもするりと通るほどの穴が開いている。三角割りと呼ばれる、強盗が用いる典型的な手口の一つだ。
「ここで、忠柾様が頭から血を流して倒れておられました」
「窓側に頭、部屋の出入り口側に足を向ける格好ですね」
「はい」
「ふうむ。それでは、第二の被害者が倒れていた場所へ参りましょうか」
「では、ご案内します」
執事のように部屋の戸口を手で示した男に続き、手入れの行き届いた庭へと繰り出す。二人が足を止めたのは、保管室と呼ばれていた部屋の窓から三、四メートルほど離れた位置だった。
「ここに、忠柾様が大変可愛がっておられたゴールデンレトリバーのオリバーが」
惨状が脳裏に甦ったのか、執事然とした男、笠井文寛は苦々しそうに顔を顰めた。対する質問者の男は、顎を手で撫でながら冷静な声で「オリバーを襲った凶器は」と問いを重ねていく。
「ちょうど、保管室の窓の傍に刺又が立てかけていました。おそらく、それを凶器に用いたのかと。オリバーの遺体の傍に落ちていましたから。今は室内に保管してあります」
「犯人は、郷原氏とオリバーの殺害で別々の凶器を用いたということですね」
「ええ。しかし、なぜ忠柾様を襲った凶器がアフロディーテの像だったのでしょうか」
「それは、なぜ刺又を凶器として使用しなかったのか、という意味でしょうか」
「はい」
「刺又はもともと、防犯目的で犯人の動きを封じるために作られたものですからね。大きさも大きさですし、犯人の体格によっては凶器として使うのには適さなかったと考えることもできます」
「犯人にとって、凶器としては使いづらかったということですか」
「ひとつの可能性として、そうとも推測できるというだけです」
「はあ」
「オリバーを襲った際、アフロディーテの像は保管室の床に転がっていた。部屋に戻ってアフロディーテの像を手にオリバーを襲撃する、という方法は面倒だったのでしょうね。窓の外からすぐに手を伸ばせば届く刺又を凶器として選んだことは自然です。郷原氏とは違い、オリバーはいつ襲い掛かってくるのか予測できなかった。そういった意味でも、遠距離から攻撃が可能な刺又は犯人にとって都合の良い道具でもあったのでしょうね」
「防犯のための道具が、犯罪の凶器となってしまうとは。やり切れませんね――しかし、なぜ強盗犯は忠柾様だけでなくオリバーまで」
「単純に考えるならば、犯行を終え退散しようとしていた犯人に吠え付いた、あるいは足止めをしようとしたのかもしれない。忠柾氏の忠実な名犬だったのなら、彼が忠柾氏に危害を加えたことを本能的に察した可能性は否定できません」
「なるほど。オリバーは最期まで、忠柾様を想っていたのですね」
一人納得したようにこくこくと首を縦に振った笠井は、だがすぐに恐る恐るといった様子で隣に立つ男へ顔を向けた。
「あの。このことを、警察には」
「あまりおすすめはしませんが、そこまでおっしゃるのなら。ただ、調査の結果によっては私も沈黙を守ったまま――というわけにはいかないかもしれません。一般市民として、警察への通報義務がありますので」
「はい。その点につきましては覚悟しております。忠柾様から、吾妻先生の力を大変頼りにしていると伺っておりますので。いざとなれば、私もすべてをお話いたします」
笠井は深々と頭を下げる。乱れた頭髪を風になびかせながら、男――現役推理作家の吾妻鑑はジャケットから煙草の箱を取り出し、一本を口の端に咥えた。
郷原忠柾は、業界ではやり手の宝石商としてその名を轟かせていた。かつては宝石の買い付けだけでなく、買い付けた宝石で自らジュエリーを製造することまで行っていたのだが、齢五十を超えてからは専ら鑑定士としての職務を優先するようになる。それからは海外での買い付けと国内での取引、および宝石職人の育成を主な仕事内容としていたようだった。彼が経営者として名を連ねていたジュエリーショップは、K県内にも数店舗存在する。
吾妻が郷原氏と面識を持っていたのは、以前氏の経営するジュエリーショップで起きた強盗事件がきっかけだった。たまたま付近に居合わせた彼が事件の捜査に飛び入り参加したことで、事件は急速に解決の途へと導かれあっけない犯人逮捕にまで至ったのだ。この一件で吾妻鑑の人知れぬ能力にほれ込んだ郷原は、その後幾度か彼を誘い出しては、チェスやポーカーなどの遊戯やミステリ談義に興じていたのである。氏としては、まるで物語の中にしか登場しないような探偵もどきが、現実の世界に突如として現れたことがひどく印象的だったのであろう。「きみといると、何か面白いことが起きるような気がしてならないよ」と吾妻に軽口を叩くこともあったのだ。まさか、自身がその渦中に巻き込まれ、挙句の果てに五十六という若さでその生涯を終えることになろうとは、さすがに予想していなかったに違いない。
郷原の秘書である笠井からの連絡を受け、吾妻はおよそ半年振りに氏の邸宅を訪れた。推理作家の彼とて、このような形で氏を訪ねることになろうとは思いもよらず、不意打ちを食らったように笠井が訥々と語る事件の概要を静聴していたのだった。
「ところで、笠井さんは忠柾氏の秘書として、少なからず彼の身近で過ごしていた人物の一人となるわけですが。何か、事件について心当たりはありませんか。氏が誰かに狙われていたとか、脅迫めいたことを受けていたとか」
「それは――このような世界ですから、忠柾様を快く思わなかった者がいないとは断言できません」
「確か、氏は以前雑誌のインタビューで『常時クリーンな取引を心がけている。私が客に提供するのは、輝くジュエリーと夢の二つに限ります』と豪語されていたようですが」
「よく覚えておいでですね」
「その雑誌を郵送していただきましたから。まあ、敵のまったくいない人間など、それこそ滅多にいないものですが」
来客用の革張りのソファに深く腰掛けた推理作家に、宝石商の秘書は数枚の書類のようなものを差し出した。
「こちらが、先生のおっっしゃっていた忠柾様の死亡診断書です」
「ああ、どうも。ふうむ、死亡推定時刻は三月十八日の二十二時三十分頃ですか。死因は、頭部を激しく損傷したことによる脳挫傷。この診断書では、事故死ということになっているようですね」
「ええ。忠柾様は心臓の持病をお持ちでしたから、発作が起きたことにより身体のバランスを失い、運悪く近くの棚に頭部を打ちつけ、さらに棚上のアフロディーテ像が落下し忠柾様に致命傷を与えた、ということです。社員にはそのように説明するつもりです」
「そうですか」
不満を残した声色の吾妻に、笠井は「それから」と遠慮がちに話を続ける。
「これは、おそらく本件とは何の関係もないことなのでしょうが」
「何でしょうか」
「実は、忠柾様は生涯独り身を通しておられて、家族は愛犬のオリバー一匹。ですが、忠柾様が親しくお付き合いしていたご家族がおりまして」
「はあ」
「朝美家というところです。ご夫妻に娘と息子が一人ずつ、そしてその娘の旦那様がお一人。現在はその五人で、光神町に住まわれています」
「光神町なら、車でここから五分ほどしかかからない場所ですね」
「ええ」
「それで、その朝美家が何か」
「その娘婿が、夏彦様とおっしゃるのですが、彼は忠柾様が経営しておられたジュエリーショップの専属デザイナーなのです」
「デザイナーですか」
「はい。その名の通りジュエリーのデザインを担当しております」
「その夏彦さんが、どうかされたのですか」
「いえ、その。実はここ数か月ほどの間に、忠柾様が電話で口論をしておられるのをたまたま見てしまいまして。その相手が、どうも夏彦様らしいのです」
「なぜ、電話の相手が彼だと?」
「『お前はデザイナーとしての素質に欠けている』ですとか『せいぜい朝美家の名に泥を塗らぬことだ』などという言葉が耳に入りまして」
「それは穏やかではありませんね」
「ええ。ただ、だからといって彼が今回の事件に関わっているというわけではなく。あくまで、私が個人的に引っかかりを覚えたというだけですので」
共犯者を警察に密告した犯罪者のように、笠井は言い訳めいた口調で補足した。暗に「朝美夏彦が怪しい」と吾妻に進言したようなものだろう。
死亡診断書をガラステーブルに置いて、推理作家は腰を上げる。ソファの背もたれに掛けていたジャケットを手にすると、朝美家までの簡易地図を描いてくれないかと秘書に告げた。
「ええ、確かに私は郷原社長の経営するジュエリーショップで専属のデザイナーをさせていただいています」
皺のない白シャツと紺のベストを着こなした朝美夏彦は、こくりと首を振った。
「今のショップで働くことになったのは、二年ほど前からです。それまでは、他店でデザイナーとしての勉強をしていたのですが、妻と結婚してから郷原さんと面識を持ちまして。その縁もあって、今の場所を紹介していただきました」
「なるほど。ちなみに、そのショップというのはどちらの」
「駅通りにある店です」
「ありがとうございます。ここからは私の興味半分での質問になりますので、答えたくないことには答えなくて構いません。奥様と知り合ったきっかけというのは?」
「単純ですが、ジュエリーショップでの出会いでした。私が当時見習いとして通っていた店の常連が、妻だったのです」
夏彦は照れ笑いを浮かべながら頭を掻く。スリッパの軽やかな音とともに、栗毛を緩くひとつに束ねた女性がトレーを手にリビングへと姿を見せた。
「ああ、吾妻さん。こちら、妻の千代です。千代、こちらは郷原さんのお知り合いだという、作家の吾妻さん」
「どうも。朝美千代です」
柔和な笑みを浮かべ、千代は夏彦の隣に腰掛けた。淡いグリーンのブラウスと白のフレアスカートが春らしい装いである。
「忠柾さんは、作家先生にもお知り合いがいらしたのね。顔が広いわ」
「いえ、たまの付き合いという程度でしたが」
「そうですか。夫から伺いました、ミステリをご専門になさっていらっしゃると」
「書店の末席を汚しているミステリ作家です」
小さく肩を上げた男に、千代は「あら」と含み笑いをしてみせる。夏彦が「それで」と話を戻した。
「朝美家は以前から郷原氏と付き合いがあったと伺いましたが、具体的にはどういう?」
「朝美家と郷原家は、親縁関係にあります。忠柾さんはご存知の通り独身を貫かれていましたから、私たちとは半ば家族のような付き合いが続いていました」
夏彦の代わりに答えた千代に、吾妻はゆっくりと顔を向ける。
「ご自宅も随分近いようですね」
「ええ。このあたりは市の中心部に近いわりに閑静な住宅街ですから、忠柾さんも仕事とプライベートを分けるためにも良いとおっしゃっていました」
「郷原氏があの邸宅に住み始めたのは、いつ頃からでしょうか」
「二年ほど前になります。それまでは隣の市に住まわれていましたが、突然こちらに越したいとおっしゃって」
「夏彦さんが今の店に仕事場が移った時期と同じですね」
「そうですね」
「郷原氏がこちらに越してきた理由というのは、何かあったのでしょうか」
夫婦は顔を合わせながら、互いに首を捻っている。さしたる心当たりはないらしい。吾妻は顎に手を当てあらぬ方角をぼんやりと眺めていたが、やがて徐に立ち上がると礼を述べてリビングを後にした。
色鮮やかな花壇が並ぶ玄関を出たところで、「こんにちは」と明るい声が飛んできた。駐車場へと顔を向けると、折りたたみ自転車を片付けていた少年が礼儀正しく頭を下げる。無言で頭をちょいと動かした推理作家は、ふと思い立ったように足を止めて振り返った。
「もしかすると、朝美春樹くんかい」
「もしかしなくても、朝美春樹です」
栗毛の髪をふわりと揺らして、屈託なく笑う。
「確か、今年から高校三年生になるんだってな」
「ええ。いよいよ受験って年だから、今から気が滅入っちゃいますよ」
気障な仕草で肩を上げてみせる。吾妻は「そりゃ大変だ」と大仰に答えながら春樹にゆっくりと歩み寄った。
「なあ。少し聞きたいことがあるのだが」
「はあ。ところで、あなたは?」
「吾妻鑑だ。郷原邸で起きた事件について、秘書の笠井さんという人に頼まれてな。きみのお姉さんたちに話を聞いていたんだ」
「郷原邸の事件って、忠柾さんが強盗に殺された?」
「ああ。朝美家の者は皆、彼が強盗に襲われたと聞いているのか」
「はい。笠井さんからはそのように伺いましたけど」
家族同然の付き合いであった朝美家には、事故死という虚偽はしていないようだ。両家の親交の深さが伺える。
「そうか。じゃあ、郷原氏の邸宅で飼い犬のオリバーが殺されていたことも?」
「ええ、知っています。庭先で頭の部分を殴られて亡くなっていたって。僕、オリバーの墓にさっき行ってきたんです」
「氏の邸宅には墓地があるのか」
「庭の隅に、小さな墓石がありますよ」
「きみは、オリバーと仲良くしていたのかい」
「はい。実は、僕の家でも犬を飼っているんです。しかも、同じゴールデンレトリバー。ロビンっていうんですけど。だから、余計にショックだったんです。ロビンも寂しいだろうなあ」
少年は顔を曇らせ、自宅の玄関へ遠い目を向けた。推理作家はボサボサの髪を撫でながら、淡々と質疑を続ける。
「きみは――ええと、春樹くんか。そのオリバーが倒れていた現場を、実際に見たことはあるのか」
「いいえ。でも、笠井さんと一緒にオリバーを土の中に埋めました。体温がまったく感じられなくて、本当に死んじゃったんだって現実を突きつけられました」
「郷原氏が殺されていた現場には?」
「いえ、そっちには行っていません。現場はなくべく荒らさないようにって、笠井さんからきつく言われていますから」
「ふむ、それはありがたい――なあ」
「何でしょう」
「そのオリバーのことについて、もう少し具体的な話を聞かせてくれないか」
春樹は快く「分かりました」と承諾する。戻しかけていた折りたたみ式自転車を引っ張り出した少年に、推理作家は「その自転車、良いデザインだな」と小さく笑いかけた。
「ロビンとオリバーは、体格も同じくらいだったから、首輪で見分けをつけていたんです。オリバーは、エメラルドの小さな宝石を埋め込んだ首輪をつけていて、うちのロビンは青い首輪。もちろん、ペットショップで買った安物ですけどね」
郷原邸の門前に自転車を停め、春樹は門扉に手をかける。
「忠柾さんは、オリバーを散歩に行かせるときもリードをつけていなかったんですよ。オリバーはとても賢くて、リードがなくてもちゃんと飼い主である忠柾さんの隣を歩いていたんです」
「郷原氏も溺愛していたそうだな」
「はい。忠柾さんはずっと独りだったから、なおさらだったと思います。オリバーも飼い主に大切にされて、幸せそうでした。あ、僕らだってロビンを家族の一員として大切にしていますよ」
慌てたように両手を振る少年に、吾妻は「分かっているさ」と微笑する。
「ロビンはオリバーよりも活発というか、やんちゃな性格だから。散歩のときはリードをつけていないとすぐにどこかに行ってしまうんです。今までも、ふと犬小屋を抜け出して家の裏手にある森の中で遊んでいたなんてことも何度かありました。家族総動員で探したこともあって――あ、あれがオリバーの墓石です」
昔を懐かしむように空を見上げていた少年は、ふと顔を正面に戻すと前方を指差した。春風に乱れた頭髪に手を入れながら、吾妻は目を細めて指先の方角へと視線を飛ばす。
「墓石は、笠井さんが用意したみたいです。『これくらいのことはして差し上げないと、忠柾様に怒られます』って、ちょっと悲しそうに笑っていました」
小ぢんまりとした墓標の前で、足を止める。英字が彫られた石の表面を、少年の白い指先がなぞった。
「『オリバー、ここに安らかに眠る』。最近覚えた英語です。多分、一生忘れられない英文だろうなあ」
ぽつりと、独り言のように漏らす。その物憂げな横顔を一瞥し、推理作家は静かに口を開いた。
「オリバーの遺体を目にしたとき、何か違和感を覚えたりおかしいなと感じたりすることはなかったか」
「違和感、ですか」
「いつもと違うところ、様子が異なるところ。オリバーに限らず、春樹くんが事件後にこの郷原邸を訪れて気がついたことがあれば何でもいい」
「まるで、推理小説に出てくる探偵みたいだ」
上背の高い吾妻を見上げて、少年は無邪気に相好を崩した。推理作家は無言のまま小さく肩を竦めてみせる。
「そうだなあ。突然聞かれると難しい質問ですね。ううん」
両腕を組んで低く唸っていた少年は、しばらくすると「そういえば」と顔を上げた。
「忠柾さんやオリバーとは直接関係ないと思うんだけど」
「何だ」
「事件が起きてから、ロビンの様子がちょっと気になっているんです」
「ロビンって、朝美家で飼っているゴールデンレトリバーの」
「はい。何だか、不機嫌というか、元気がないというか。前みたく庭を走り回ったり、姉さんに散歩をねだることも減った気がするし」
「ロビンの散歩は、千代さんが担当していたのか」
「はい。ロビンの世話は、家族ごとに役割が決まっているんです。因みに、僕は定期的にロビンの毛づくろいをすることと、犬小屋の掃除をすること。夏彦さんは、ロビンの餌を買ってくること。母さんと父さんは、ロビンをペットサロンに連れて行ったり時々動物病院で健診を受けさせたりすること」
「それぞれ役割分担が振られているということか」
「そうです」
「それで、春樹くんは事件後からロビンのことが気がかりだと」
「はい――あの」
あどけなさの残る黒目がちな視線を推理作家に向け、少年は意を決したように切り出した。
「僕、気になっているんです。もしかすると、オリバーが殺されたのには何か深い理由があって、オリバーが殺されたこととロビンのことは何か関係しているんじゃないかって。吾妻さん、僕を事件の調査に加えてもらえないでしょうか? 知りたいんです。誰がどうして、こんなことを起こしてしまったのか」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その二 ホームズとワトソン少年
「郷原氏はコレクションルームで犯人と鉢合わせをし、襲われた可能性が高い」
「コレクションルーム?」
「氏が個人的に収集していたそうだ。今回の事件では、その中でもダイヤモンドをあしらった品がガラスケースからごっそり盗み出されていた」
「ダイヤモンドに何か拘りがあったのでしょうか」
「宝石の中では市場価値が分かりやすいだけ、という考えもある。宝石職に縁がない人間が最も想像する一般的な宝石といえば、大概がダイヤモンド、あるいはルビーやサファイアあたりの名前を挙げるだろう」
「確かに。他にも、エメラルドとかアメジストとか、あとパールとかありますけど。やっぱりダイヤモンドが連想しやすいですよね」
「ああ。あるいは、ガラスケース内の品を一式失敬する計画だったのかもしれない。だが、屋敷の主に運悪く見つかってしまったことで、計画は破綻するわけだ」
「プロの強盗なら、盗みに入る家の人が不在のときを知っていそうなものですけど」
「アマチュアの強盗が杜撰な計画のもと実行したのか、あるいは郷原氏の帰宅が想定外だったのか」
「そういえば、忠柾さんの事件当日の行動って、どのようになっていたのでしょうか」
春樹の言葉に、推理作家は手帳のあるページを開くと机上に広げた。決して麗筆とは言いがたい文字で、去る三月十八日の被害者の行動が記されている。
「郷原氏は、十四日の月曜日から一週間、イギリスへ出張していたらしい。笠井さんによると、本来ならば土曜日の早朝に帰国する予定だったそうだ」
「その帰国が、金曜日に早まった?」
「氏はイギリスのある宝石商に会いに行っていたということなんだが、その宝石商が仕事上急なスケジュールの変更を余儀なくされ、結果として郷原氏は帰国を一日前倒しにしたんだとさ」
「そのスケジュールの変更がなければ、忠柾さんは殺されずに済んだかもしれない」
カフェオレが並々と注がれたカップを両手で包み、少年は感傷に浸っているようだ。吾妻はブラックコーヒーを啜りながら「因果だな」とそっけない。
「もし、犯人が忠柾さんの予定変更を想定しておらず、けれど出張のことは知っていたのだとすると、顔見知りや近しい関係者の犯行という可能性もある。そういうことですね」
「話が早くて助かるよ」
春樹は照れくさそうに頬を掻くと、カフェオレを半分ほどまで減らし再び手帳を覗き込んだ。
「吾妻さんは、今までの調査で怪しいと睨んでいる容疑者はいるんですか」
「最初に疑いの目を向けたのは、無論秘書の笠井さんだ。遺体の第一発見者でもあり、しかも彼は郷原邸内にしばしば仕事の打ち合わせで訪れていた。邸宅内のセキュリティ環境を容易に知ることができる数少ない人物でもあったんだ」
「だった、ということは、容疑は晴れたんですか」
「彼には家族がいる。妻と一人娘だ。彼女らの証言を信用するのならば、彼は仕事を終えた後真っ直ぐに帰宅し、帰宅以降一切外出をしていないんだと。立派なアリバイが成立することになる」
「完全に信用してはいない、と言いたげですね」
「身内の証言を鵜呑みにはできないからな。まあ、参考程度というところだ」
ソファに背中を預け、潰れかけた煙草の箱を玩びながら推理作家は持論を展開する。
「次に、きみたち朝美家のアリバイも確かめる必要がある」
「僕たちですか」
両目を瞬かせる少年に、「気を悪くしないでもらいたい」と低い声が告げた。
「笠井さんの次に氏と深い接点があった人間は、客観的に考える限りきみたち朝美一家ということになる。氏の交友関係はなかなかに手広いが、先で言ったように被害者の身近な者による犯行だと仮定するならば、残念だが朝美家は条件にぴたりと該当してしまうんだよ」
「墓穴を掘った、ってこういうことを指すんですね。でも、僕は神様に誓って犯罪なんてしていないと宣言できます。だから、どんな質問にもお答えしますよ」
「そりゃ有難いな――それじゃ、春樹くんの知る限りでいい。三月十八日の夜、朝美一家のそれぞれの行動を教えてくれ」
「はい。といっても、きちんと思い出せるかな。ええと」
眉根をきゅっと寄せ店の天井を睨みながら、春樹が呼び起こした事件当夜の朝美一家の動向は以下のようであった。
まず、朝美春樹はその日、学校で卒業式があったのだという。剣道部に所属している春樹は、部活動の部員で打ち上げに参加したため、夜の十時頃に帰宅した。以降は自宅にずっといたという。
春樹の姉である朝美千代は、夜の七時頃に友人と食事をすると告げて出かけた。帰宅したのは深夜の零時を回った頃。友人の詳細は分からないと首を横に振った。
娘婿の夏彦は、仕事先の同僚とやはり飲みに出かけていたという。帰宅時刻は夜の十一時過ぎ。千代も夏彦も、春樹の知る限りでは帰宅以降に再度外出した様子はなかった。
母の朝美沙代に関しては、高校の同窓会に参加することを家族に告げていた。千代と同時刻に家を出て、帰宅のタイミングは春樹とほぼ同じだったようだ。犯行時刻と考えられる夜の十時以降は、息子とともに自宅で過ごしていた。
最後に、父の朝美桂介。現役の弁護士である彼は、日夜を問わず多忙を極めている。三月十八日も例に違わず、仕事で夜遅くに帰宅したと春樹は記憶していた。時刻は、十一時三十分頃。前に同じく、帰宅以降に家を出る姿は見られなかった。
郷原氏の死亡推定時刻から割り出される犯行時刻は、十八日の夜十時から十一時の間。朝美春樹の証言を信じるならば、朝美一家の全員にアリバイが成立していることになる。とはいうものの、先の吾妻の言葉を借りるならば、身内で犯行を隠匿する可能性は考慮すべきであろう。
「協力に感謝する。おかげで手間がひとつ省けたよ。まったく、警察の日夜の苦労が身に染みるな」
「今回の事件、警察はどのように考えているのでしょうか。やっぱり、強盗の仕業かな」
吾妻はふと、口を噤む。郷原氏殺害の一件は、笠井の要求によって事故死として表向きは処理されることになっている。だが、氏の邸宅に強盗が侵入したと知らされている朝美家にとっては、郷原氏の件に関して警察の動きが見られないことに、疑念を抱くのは至極当然のことだろう。笠井が朝美家をいかように言い包めるのか、定かではないが怪しまれるのも時間の問題だ。
「警察には警察の見解があるだろうさ。俺たちが気にしたところで何も進みはしまいよ」
御座なりにはぐらかすと、吾妻は伝票を掴んで緩慢な動作で立ち上がる。ジーンズのポケットから折り畳みの財布を出した少年に、推理作家は「そんなものは仕舞え」と鷹揚に手を振ってみせた。
結論から言えば、朝美春樹が提供したアリバイの有無は存外にあっさりと証明されるに至った。
春樹が参加していたという剣道部の打ち上げについては、参加していた部員らの証言から春樹が当夜の七時から九時三十分の間まで市内の食事処にいたことが証明された。さらに、春樹はその後数人の部員らとともにタクシー代を割り勘して帰途に着いたため、帰宅までのアリバイにも疑いを挟む余地はない。朝美沙代との共謀という線さえ打破すれば、朝美少年は鉄壁のアリバイを有していることになる。
次に、朝美千代が事件の夜に食事をともにしたという人物の特定に至る。五十嵐剛、千代と同い年の男だ。いかにも屈強な字面ではあるが、実際は暴漢に金銭を集られる役どころが似合うような、つまるところ気の弱さと人の良さがよく現れているような青年であった。五十嵐は、十八日の夜七時から十一時三十分までの間、自身が勤務する居酒屋で千代と二人、夕餉を共にし酒を酌み交わしていたのだという。この日五十嵐は非番で、従業員割引で安く食べ飲みができるということで千代を誘ったと証言した。五十嵐と千代には、高校時代の同級生という接点がある。また、当日二人が入店し、会計を共に済ませるところを店長や数人の店員に目撃されていた。
朝美夏彦に関しても同様で、同日晩酌を共にした同僚二人、居酒屋の店主の証言がはっきりしていた。十時を回り店を後にしてからは、同僚と別れて一人でタクシーを拾ったという。帰路のアリバイが判然としない点が、心残りではある。
朝美沙代のアリバイは、同窓会からの帰宅までは確固たるものだった。同窓会の参加者名簿には朝美沙代の名が残っており、参加者の中でも特に沙代と親しくしていた同級生は、一次会の間はずっと沙代と行動を共にしていたことが判明している。一次会は九時過ぎにお開きとなっており、主婦である沙代は二次会には参加せずそのまま帰宅。息子の春樹が帰る十分ほど前に家路に着いたのだという。ただし、被害者の死亡推定時刻である十時以降のアリバイは曖昧だ。春樹に口止めをするか、あるいは共犯関係を結び犯行に及ぶことは可能である。だが、金に困窮しているわけでもない彼女が、いかなる動機で強盗行為に手を染めたのかは大きな謎だった。
朝美桂介は、事件当日の朝八時から同日夜の十時四十五分まで、仕事場の事務所に在勤していた。昨今では珍しいタイムカード形式によって、勤怠状況が克明に記録されていたのである。事務所の社員による証言も確固たるもので、朝美春樹同様強固なアリバイが成立していた。
朝美家の十八日のアリバイをまとめた書類を捲りながら、吾妻は自室兼仕事場の書斎で煙草を吹かしていた。何故朝美家の人間が縁者である郷原忠柾邸に忍び込み、強盗を働いた上に氏の殺害という凶行に及んだのか。アリバイの有無が確認できたところで、動機という次なる壁が行く手を大きく阻んでいる。動機から犯人を特定するという手法は、吾妻の好むところではない。だが、行きずりの強盗犯による犯行でないと仮定するならば、動機の解明をいつまでも後回しにしておくわけにもいかないのである。
「朝美家の中で、辛うじて動機を持つ者は娘婿の夏彦だ。氏と口論をしていたという笠井の証言もある。だが、肝心の内容までに辿り着かない。朝美家の名に泥を塗る? 夏彦は何らかの失態を犯したのだろうか。だが、仮に夏彦が氏を殺害したいほどに恨んでいたとするならば、氏の不在時に屋敷を訪れる行動は矛盾している。犯人はやはり、氏のコレクションが本来の目的で彼の殺害はアクシデントに過ぎなかったのだろうか。しかし、朝美家が金に困っている様子もない」
苛立たしげに言ちながら、吸殻を乱暴な手つきで灰皿にねじ込む。気分転換に、と珈琲を淹れていたところで、スマートフォンに着信が入った。本業が立て込んでいたためにご無沙汰状態になっていた、K県警の小暮警部からの一報である。
『吾妻先生。ご無沙汰しています』
「こちらこそ。今日はどうされましたか」
『いえ、大した用件ではないのですがね。念のためにと手が自然と携帯電話に伸びてしまいました。習慣とは恐ろしいものです』
「はあ」
呆けたように返す推理作家に、電話口の穏やかな声が続ける。
『つい三日前のことです。一般市民から署に通報がありましてね。何でも、インターネットのネットショッピングというのですか。その手のサイトで偽のダイヤモンドジュエリーが出回っているのではないかというのです。通報は匿名で、その人物も何故ジュエリーが偽物と知ったのかについては分からず仕舞いになりそうなのですがね。念のために調べてみたところ、確かにある特定のネットショッピングサイトで売られていたダイヤのジュエリー、およそ十数点が偽物であることが判明しました。現在、捜査二課が出品者の身元を洗い出しているところです』
殺人事件など、小暮警部らが所属する捜査一課が動くような事件が発生した際、吾妻鑑は警部に応援を求められ警察の捜査に非公式で協力することがある。今回のように、まるで旧友に連絡をするような調子で小暮警部が携帯電話を手にしたのも、そのような奇妙な縁がある所以なのだった。
『以前、先生がジュエリーショップで起きた強盗事件を解決なさったことがあったでしょう。だから何が起きるというわけでもない、小さな事件ですがね。まあ、老いぼれ刑事の気まぐれな近況報告とでも受け取ってください』
ベテラン警部の声色は至って和やかだ。捜査本部が設置されるような緊迫した空気は微塵も感じられない。吾妻は二、三の相槌を打って通話を終えようとしたところで、ふと電話相手を呼び止めた。
「警部。その偽ダイヤが出回ったというのは、いつのことだとおっしゃりましたか」
『え? ああ、三月二十四日、木曜日に出品されていたようですね。まだ購入まで至った者はいないらしいので、実質的な被害は未然に防ぐことができそうです』
「三月二十四日――警部。その出品者について詳しいことが判明次第、連絡をいただけないでしょうか」
『ええ、それは勿論構いませんが。何か、心当たりでも?』
「いえ、個人的な興味です。では」
通話を切り、すっかり冷めた珈琲を喉に流し込む。ベッド代わりに重宝しているカウチソファに深く腰掛けしばらくじっとしていた推理作家は、やがて弾かれたようにスマートフォンを手にすると素早くある番号をプッシュした。
『――はい、朝美ですけど』
「吾妻です」
『あ、吾妻さん』
「春樹くんか。ちょうど良かった。ワトソンくんに頼みたいことがあってな」
電話の向こうから、何ですかと好奇に満ちた声が飛んできた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その三 吾妻鑑の考察
「忠柾様が出張している間、ですか」
「ええ。まさか、一週間もあの邸宅で一匹留守番をさせていたわけではないでしょう。それとも、あなたが代わりに世話をしていたのですか」
「いいえ。確か、ペットサロンに預けになられたと記憶していますが」
「ペットサロン」
「確か、夏彦様の職場の近くに、二十四時間経営の小さなペットサロンがございます。朝美家のロビンくんも、そこでお世話になっていると伺ったこともございます。忠柾様は、そのペットサロンにオリバーを預けて出張されたのではないかと」
ソファから立ち上がり、いそいそとした足取りで客間を離れた笠井は、すぐに茶革の分厚い手帳を手に戻ってくる。笠井ではなく、郷原氏が生前使っていたものらしい。
「確か、こちらにペットサロンの住所をお書きになっていたはずです――ああ、こちらですね。日付も残されています。出張の前日、十三日の日曜日にサロンへ預けに行かれたようですね」
ページを見開いて、吾妻に差し出す。笠井の証言通りであった。帰国日の十九日には、愛犬をサロンから引き取る予定になっていたらしい。
「だとすると、おかしなことになりますね」
「おかしなこと、と言いますと」
「郷原氏は、十九日の午前にオリバーをサロンから引き取るつもりだった。だが、実際には前日の十八日に帰宅し、そこで強盗犯に襲われた。この時点では、オリバーはまだサロンにいるはずです」
「確かに。では、何故サロンにいるはずのオリバーが、事件当夜忠柾様の家で襲われたのか。その点が不自然だというわけですね」
「まさか、オリバーが瞬間移動したわけでもありますまい」
推理作家の冗談に、笠井はいたく真剣な面持ちで「そうですね」と頭をめぐらせる。
「笠井さん。そのペットサロンへ確認をお願いできますか」
「事件当日、サロンにオリバーを引き取りに来た人物がいないか、ということですね」
有能な秘書は二つ返事で請け負うと、屋敷の電話からペットサロンへ確認を取った。その結果を聞いた吾妻は、主亡き屋敷を辞しその足で朝美家へと向かう。入り口の門扉をくぐってすぐ右手が庭へと面しており、顔を覗かせるとパーカーにジーンズという軽装の少年が暇を持て余すように草むしりをしていた。
「あ、吾妻さん」
待ち人の到着に、春樹は嬉しそうに顔を綻ばせる。推理作家は「よお」と軽快な声で応じた。
「今日は、みんな出かけているんです。姉さんは夏彦さんと水入らずだし、母さんは同窓会。父さんは仕事先の人たちとのお付き合いだって」
「そうか。きみは、一人留守番で退屈しないのか」
「だって、今日は吾妻さんと会議でしょ」
悪戯っぽく笑ってみせる小さな助手に招かれ、推理作家は苦笑しながらリビングへと通される。慣れた手付きで茶菓子の用意を終えた少年は、「それで」と興奮気味に吾妻の向かいのソファに腰を落ち着かせた。
「まあ、そう焦るな。まず、オリバーを預けていたというサロンのことだが」
「『ルポゼ』っていうサロンですよね。ロビンもそのサロンに預けることがあります」
「ああ、そのルポゼというサロンに、笠井さんが確認をとった。随分と奇妙なことが判明したよ」
「奇妙なこと?」
「確かに、オリバーは三月十九日、つまり郷原氏が予定していた日に引き取られていた。だが、引き取りに来た人物は郷原氏ではなかった」
「だって、忠柾さんは十八日の夜に」
「そうだ。十九日にオリバーを迎えに来た人物は、うら若い女性だったそうだ」
「女性?」
「そう。彼女は『郷原氏の知人で、代理でオリバーを引き取りに行くよう頼まれた』とサロンの従業員に証言したそうだ。郷原氏の名刺も持参していたため、従業員は疑いもせずにオリバーを彼女に引き渡したらしい」
「何だか危ないですね。ロビンを預ける店、ちょっと考え直そうかな」
渋面を見せる春樹に、吾妻は頷きながら調査報告を進める。
「それから、女性がルポゼに現れた時間だが、これは十九日の午前一時頃となっていた」
「午前一時って、十九日の真夜中ということですよね。どうしてそんな時間に」
「分からん。この女性が郷原氏殺害に関わっている可能性は高いが、何故彼女がオリバーをわざわざ早朝にサロンから引き取り、そしてなぜオリバーが殺されなければならなかったのか」
「それを証明するために、僕にあんな頼みを?」
「それですべてが解決するわけじゃないが、謎がひとつ解けるかもしれない。それじゃ、ワトソンくんも報告を始めてくれないか」
長い脚を優雅に組み替えた推理作家に、若き助手はソファの上で居住まいを正す。
「まず、吾妻さんに言われた例の資料ですけど。あちこちをひっくり返して探しましたが、家からは見つかりませんでした」
「最初から、もらっていなかったということか」
「いえ、確かに店からもらったんです。僕、ちゃんと見ましたから」
「犯人が処分したという可能性がある、ということかもしれないな」
「それで、昨日ロビンを買ったペットショップに行ってみました。もしかしたら、資料のコピーなんかが保管されているんじゃないかと思って」
「ほお。さすがはホームズの優秀な助手だ」
クールな口調で褒め称す吾妻に、ワトソン役は緩めていた頬を軽く叩いて真顔に戻る。
「それで、店長さんに話をしてみたんです。てきとうな理由をつけて、あの資料がまだ店に残っていないかって。その結果が、これです」
真っ白なクロスが敷かれたテーブルの上に、一枚のコピー紙が置かれる。手に取って流し読みをしていた推理作家に、助手は不思議そうに声をかけた。
「吾妻さん。その資料が一体どんな役に立つのですか」
「大いに役に立つさ。場合によっては、強い物的証拠になり得るかもしれないからな――それで」
「はあ。次に頼まれたことも、僕にはよく分からなかったのですが。『ロビンにリードを付けずに散歩をさせてみろ』でしたよね」
「ああ」
「させてみましたよ。ロビンは前にも言ったような性格だから、ちょっとドキドキしましたけど。友人を誘って一緒に散歩に出かけました」
「結果は?」
「それが、その日のロビンはとっても大人しくて。僕の横をちゃんと歩いていたし、逃げ出してどこかに行ってしまった、ということもありませんでした。もしかして、実は散歩の気分じゃなかったのかなあ。友人は楽しかったって言ってくれましたけど」
釈然としない口ぶりで腕を組んだ春樹に対して、推理作家は満足そうに鼻を鳴らすとジャケットからスマートフォンを取り出した。ワトソン少年が無言で見守る中、ホームズが電話をかけた相手はK県警のレストレード警部である。
『これは吾妻先生。まるで見計らったようなタイミングですね』
「小暮警部。いえ、私は先の偽ダイヤとは別件で、警部にちょいと頼み事がありまして」
『別件ですか。先生から頼み事とは、珍しいこともあるものですね』
「見計らったようなタイミング、ということは、偽ダイヤに関する報告が何か挙がってきたということでしょうか」
『ええ。ところで、先生の頼み事とは急ぎですかな』
「できれば。ですが、偽ダイヤの捜査結果によっては、あながち私の頼み事とも無関係ではないかもしれません」
『どういうことです。先生も何か別件で動いていらっしゃると?』
「まあ。そうですね、私から県警に伺いましょう。直接お話しするほうが効率が良い」
『はあ。先生がおっしゃるのなら』
いくらか慌しい調子で通話を終えた吾妻に、春樹は両目を丸くしながらソファから身を乗り出した。
「吾妻さん、今の電話はもしかして警察の人たちですか。やっぱり、警察も何か忠柾さんの事件で証拠を見つけているんですか」
「落ち着け、ワトソンくん。きみにもいずれ話すべきときが来るだろうが、もう少し証拠固めが必要だ。警察はそうそう簡単には動いちゃくれないからな」
「そうですか。でも、良かった。ちゃんと警察の人が調べてくれるんだし、吾妻さんも何か閃いているみたいだし。オリバーのことも、きっと真相が明らかになりますよね」
「ああ――なあ、春樹くん」
「はい」
「確かに、きみの証言は今回の調査に重要な足跡を残した。これで郷原氏とオリバー殺害の真相が白日の元に晒されたとすれば、きっと二人、いや一人と一匹も浮かばれるだろう。だが、その真相は必ずしもきみが望んでいるような結果にはならないかもしれない」
手元の資料に視線を落とし、低く呟く。春樹は推理作家の骨ばった両手あたりに視線を定めながら、静かに耳を傾けていた。
「それでも、きみは最後まで見届けるべきだと俺は思う。真実が知りたいと言い切った以上、どんなに酷な現実を見せ付けられたとしても、目を逸らさずにな。事件の真相を暴く者の、ある種の責任だ」
最後の一言は、自らに言い聞かせているようでもあった。推理作家の助手は背筋をすっと伸ばすと、「吾妻さん」と凛とした声を発する。
「僕は、最後までこの事件と向き合います。それに、覚悟もできていますから。ほとんど直感ですけど、もしかするとって。オリバーとも約束したんです、吾妻さんと行ったときに。必ず犯人を見つけ出すからって。僕には何もできないと思っていたけれど、今は違う。だから、僕は大丈夫です」
吾妻は唇の端に薄く笑みを湛えてソファから立ち上がると、少年の栗毛を無造作に撫でた。




