ソニピア 2
この季節は雨が良く降る。
街まで買い出しに来ていたピアは、モーテンセン邸への帰り道で突然の夕立に見舞われた。
街で評判のビスケットを買って来い、と言われてここまで来たがーー
「ど、どうしよう――ビスケットがしけっちゃいます。そうしたら」
いつだか鞭で叩かれた日のことを思い出し、ピアはぶるっと震えた。
奴隷が車に乗ることは許されない、と送迎もなく、バスやタクシーに乗るお金も渡されていなかった。
途方に暮れたピアは、仕方なく近くのホテルで雨宿りをさせてもらうことにした。
街でもそこそこ名の知れたホテルの扉を開けると、すぐにスーツを着た使用人が駆け寄ってきた。
「ああ、駄目駄目。うちはシャシール人はお断りだ」
しっし、とまるで虫でも払うかのように手を振る。
「とっとと出てってくれ」
「あ、あの、せめて軒先で雨宿りを」
「駄目だ、そんな肌の色の奴が入り口に立ってたら評判が落ちる」
「け、けど――」
「いいから出て行ってくれ」
ごわごわと大きな手がピアの小さな肩を掴んだ。
「やっ・・・・・・!」
反射的にピアは腕を上げて頭を護った。ぐいっと押されて、そのまま外へはじき出されてしまう。
痛みよりも、ばしゃっという音を感じる。
道路の水たまりに倒れたピアは、手にしていたはずのバスケットがないことに気づいた。顔を上げて、絶望のあまり声を失った。バスケットは真横を向いており、道端にいくつものクッキーが散乱していた。慌てて一つを拾い上げてみるが、水を吸ったクッキーは砂のようにボロボロと崩れた。
「・・・・・・そんな」
言いつけを守れなかった。
癇癪を起こす主人の顔が容易に想像できる。
道端にへたり込んだピアは、立ち上がる気力を失ってしまった。どうしようどうしよう、と思考を巡らせてみるが、状況を打開できる術は一つも浮かんでこない。
「考えないと、大丈夫です、何か方法が、大丈夫です」
嫌な音を立てて鳴る鼓動を抑えようと、そうつぶやいて胸に手を当てる。っはっは、と息が荒くなり始めた時、真横から水をかけられた。
「きゃっ」
道路を行き来する車の一つが、水たまりを踏んだらしい。顔に飛んだ水を指先で拭うと、メイド服が泥まみれであることに気づいた。
声にならない嗚咽が漏れる。
メイド服まで汚してしまって、ひどく怒られるに違いない。
ゆっくりと一粒の涙が、頬をつたい落ちた。
その時である――
クラクションを鳴らしながら迫る大きな影。乱暴な運転をする一台のタクシーがピアの目前に迫った。二つのヘッドライトにピアの顔が照らされた時――
「とうっ!」
誰かがピアの腰を抱き上げ、ビルの二階ほどまで飛び上った。
びゅおっという風の音と共に、先ほどまですぐ近くにあった大地が一気に遠のいた。
「っひ、っひ、っひぃいい」
「間一髪だったね、ちっちゃなメイドさん」
顔を上げると赤髪の女性が人懐こい顔で微笑みかけてくれる。
女神さまが助けてくれた。ピアがそう錯覚するほどの美貌であった。
「あ、そうそう。悲鳴上げるの早いよ~、お腹がすぅーってなるの落ちる時だからね」
頭上から聞こえた天使のように慈しみある声が、悪魔のような言葉を言い放った。
赤髪の女性がにこっと笑った直後、今度は下から風が吹き上げた。
ピアはこれまでにないくらいの悲鳴を上げた。
ソニアは何事もなかったかのように着地し、抱きかかえていたピアを降ろした。
「間に合ってよかったよ」
そう言って手を上空へ。あらかじめ上空へと放っていた傘が、ソニアの手にピタリと収まるようにして降って来た。
「あは、恐かった?」
微笑んだソニアが傘を差しだしながら言うと、あうあうと口をぱくつかせていたピアはかろうじて頷いた。
「驚かせちゃってごめんね」
「し、ししししし」
「ししし?」
「死ぬところでした」
「あは、もう大丈夫。安心していいんだよー」
気が動転していたが、どこか冷静な思考も保てていた。目の前にいる女は機動性に長けたコルセットとプリーツスカートを纏い、腰には騎士の象徴たるロングソードがある。この衣装を纏う者達がメルリスと呼ばれていることをピアは知っていた。
「メイドさんずぶ濡れだね。泥も跳ねちゃってるし」
屈んだソニアはピアのエプロンに跳ねた泥を払ってくれた。メイド服についた泥は落ちたが、こびりついた汚れは落ちない。なんとか綺麗にしようと悪戦苦闘するソニアと、それどころではないピア。ほんの少し間違えていたら車に撥ねられていた、高所からの着地も失敗していたらどうなっていたか。そう考えると今更ながら足が震え始めた。
「ねえ、あのバスケットってメイドさんの?」
ソニアが道路に落ちたクッキーを見ながら言う。
「は、はい。お使いで・・・・・・でも、もう」
そうだ。一難去ったが、当初の問題は残ったままだった。
思い出すと、別の意味でまた体が震える。
「うーん、あれはもう食べられないよね。あ、寒い?」
「いえ」
「でも震えてるよ? それともまだ怖い?」
上目づかいで見上げ、首を傾げるソニア。
その何気ない仕草の一つ一つが美しい。こちらを真っ直ぐに見上げる翡翠色の双眸が、混じりけのない宝石のように思える。しっとりと雨に濡れた頬も赤い髪も、どこか艶めかしく輝いている。
恐怖やら感動やらが入り混じり、もうわけがわからなくなってしまったピアは、エプロンの裾をぎゅっと握りしめて口を閉ざしてしまった。
「ねえメイドさん、私のとこに行こう? 汚れた服洗って、体も拭かないと」
「え」
「このままじゃ風邪ひいちゃうよ。だから、ね?」
その微笑みは慈愛に溢れていた。
「私ソニア・エルフォード。メルリスやってます」
にこやかにビシッと敬礼をする。
「メイドさんのお名前は?」
「――ピア」
「んん?」
「ピア・フローリオ、です」
「うん、じゃあピアちゃん。行こっか」
ピアは手を引かれるまま、雨に濡れる石畳の上を歩き始めた。




