アヤクリ 9
お風呂から上がり、再び部屋に戻ってきた。
ついにこの時が来た。
さあ、クリステル様をベッドの上に――と、思っていたが。なぜか私は椅子に座らされていた。
「髪整えてあげるね」
そう言ってクリステル様はヘアブラシを使って私の髪を梳き始めた。彼女は優しくブラシを使ってくれるので、髪が絡んで頭皮が引っ張られることがない。ブラシの先端が肌に当たって痛むこともなかった。
「痛くなぁい?」
母親が子に言うように、クリステル様は言った。
「はい、気持ちいいです」
「よかった」
まるで水をすくうように、柔らかい動作で私の髪を持ち上げ、丁寧にブラシをかけてくれる。
心地よい時間が流れた。
髪を梳く音と、彼女の微かな息遣い。少し湿った肌の香り。なにより背中に感じる体温。
こんなにも満たされる時間は久しぶりだ。思い返せば三日前は城に怪しい影が見えたということで、クリステル様の部屋で寝ずの番だったし、二日前は来賓のための部屋の掃除をするメイドを夜通し手伝っていたし、昨日から今朝までは皇妃様にマッサージの手ほどきを受けていたし・・・・・・あれ?・・・・・・最後に寝たのはいつだっただろう。
ガバっと起き上がる。
気がついたらベッドで眠っていた。
自分がいつ眠り落ちたのかまったくわからなかった。
失態だ、クリステル様の疲れを癒すはずが先に寝てしまうとはなんたることだ。
ふと、いつも腕の先にあるはずの温みがないのに気づいた。
クリステル様がベッドにいない。
「あ、起きた?」
横から声が聞こえた。見るとクリステル様が椅子に腰かけていて、読んでいた本をパタンと閉じた。
「髪を梳いてあげてたらね、寝ちゃったの。大分疲れてたみたいだね」
「あ、あの――」
「だぁめ」
起き上がろうとした私の唇を人差し指で制し、再びベッドで横になるように目を動かした。
「眠らないと駄目よ」
「しかし」
「いいから」
クリステル様の目が少しだけ強くなった。その視線に押されるように、私の頭が枕の上に戻る。
彼女はそっと私の腕を取り、自らの頬に擦りつけた。
「疲れているときは休むの」
「はい」
私の手に口づけた後、ゆっくりとベッドへと移った。両手で私の頬を掴み、額や頬や唇に、ゆっくりとキスをしてくれた。金糸のような彼女の髪が垂れて私の眉をくすぐる。キスの合間に漏れる小さな息遣いが、とても艶めかしく思えた。
恥ずかしくて、思わず声が漏れてしまう。
気づいたクリステル様が「くすぐったかった?」と言って、髪を撫でてくれる。それはくすぐったいけれど、とても心地よくて。いつまでもそうしていてもらいたくて、私はずっと彼女に頭を傾けていた。
「私の護衛をすること、負担になっていない?」
「なっていません」
即答する。
きっぱりとした答えに、クリステル様は目をしばたたいて、やがて笑みを零した。
「アヤメさんちょっとうつ伏せになってくれる?」
「は、はい」
「マッサージしてあげる」
「え」
どうしてこうなったのか。
本来なら私がやるはずであったのに。
下着姿になった私はベッドでうつ伏せとなっている。
「凝ってるなあ、アヤメさん」
クリステル様の手がゆっくりと背中を押してくれる。皇妃様のマッサージはくすぐったくてかなわなかったが、クリステル様のマッサージは自然と体の強張った部分が解れていくようであった。
柔らかな掌が背中を行き来する度、荷を降ろした後のような解放感に包まれる。皇女様のもてなしを受けるなど、私はなんて幸せなんだろう。
気持ちいい。
ベッドの横ではカモミールローマンのキャンドルが灯っている。ほのかに甘い香りが漂い、心が落ち着いてきて眠気を誘う。
「気持ちい?」
「はぁい」
恐ろしく気の抜けた返事をしてしまった。クリステル様がくすりと笑う声が聞こえる。恥ずかしくて耳まで赤くなってしまう。
「リラックスできてるみたいでよかった。湯あみした後でやってあげればよかったね。あと、バラの香油を使ったマッサージ方もあって・・・・・・」
「存じております」
「え、そうなの?」
「・・・・・・実は皇妃様にマッサージの手ほどきを受けました」
「お母様に、どうして?」
「クリステル様のためです。次はぜひ私にやらせてください」
「そうだったのね。うん。アヤメさんのマッサージ、楽しみにしてるからね」
やがて私たちはベッドに横になった。
お休み、と言ったクリステル様は私の隣で、背を向けて眠っている。ゆっくりと近づき、そっとクリステル様のお腹に手を回した。
「っきゃ、アヤメさん駄目。今日は眠らないと」
「ぎゅっとするだけです」
何故か体の火照りが抜けなかった。
優しく体を撫でてもらったからだろうか。彼女の愛を一身に受けた私は、もっともっと欲しくて。我が儘になっていた。
彼女の金色の髪を分け、うなじにそっと口づける。
「っも、もう。駄目だよ」
私はやめなかった。
お腹に回した手から、彼女の胸の鼓動が伝わってくる。足を伸ばし、彼女の足に絡ませるとさらに心音が早まったようだった。柔らかい肌は弾力がある、けれど強く抱きしめると折れてしまいそうだ。だから優しく触れることを心がけている。
お腹から胸元まで、肌をなぞるようにして手を滑らせる。
「きゃぁっ」
ふいに指先があばらに触れた。鳥かごのようなあばらは細く肌に浮きたっていた。
服の上からでも体が熱くなっているのがわかってぞくぞくしてくる。
優しくされた分、優しくしてあげたい。
「悪戯しないの」
クリステル様は私の手を掴んで寝返りをうつ。
お互いの顔が近すぎて、相手の息が唇に触れる。
私は真っ直ぐに彼女の紺碧の瞳を見ていた。暗闇の中でも美しく輝いていて、いつまでも見ていられる。
私を嗜めるような目をしていたクリステル様は、ハッと目を大きく見開いた。頬を染めて視線を落としてしまう。目を逸らしてほしくなくて、前髪を押し付けてみる。
「く、くすぐったいよ」
困り顔のクリステル様は、それでも私を見てくれた。
「今日は眠らないといけません、わかりましたか」
頬を染めつつも、やや怒っているような顔であった。クリステル様の色々な表情が見たい。笑っている顔も、こんなふうに怒っている顔も、私にとっては全て宝物だった。
嬉しそうな顔をしている私を見て、クリステル様が頬を膨らませる。そんな顔もまた可愛らしくて、思わず小さな笑いが漏れてしまう。
「真面目に言っているんです」
「はい――ではキスをしてくれたら眠ります」
「キス?」
「はい」
「いいよ、キスしたらちゃんと寝るんだよ」
顔を寄せた彼女から、甘い香りが漂う。
そっと唇が触れ合う。
一度、二度、三度。
四度目の口づけは少しだけ唇が開いた。湿った感触と、クリステル様の味が口内に広がっていく。
離れていたのは一日だけだったのに、その味がとても懐かしく、そして愛しく思えた。
「お終い。約束です、今日は眠ること」
キスを終えたクリステル様は私を抱きしめてくれた。
彼女の胸は熱くて、鼓動は勢いを増していた。
もう一度だけ、頬に口づける。
「本当に会いたかったのですよ」
「私だって――でも今日は駄目。アヤメさん疲れてる」
「はい」
キスをしたら眠る約束だった。大切な人との約束を破るわけにはいかない。
腕と胸に愛しい人の体温を感じる。それが嬉しくてならなかった。
温かい胸の中で、私はそっと目を閉じた。




