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それぞれの道

 時計を見ると午後八時を回っている。ユリウスにはもうベッドに入る時間になっていた。

「遅くまですまなかった。」

 ユリウスのことを口にすると、エドは、

「いや、いつでも預かるよ。それより、今日はどうだった。」

「うん。そうだね。よかったよ。」

「どんなリサイタルだった?」

「そう、よかったよ。」

 よかったとしか言わず、口をつぐんだセインを見て、エドは、

(こりゃあ行かん方が良かったのかな。)

 セインの心情を測り兼ねてやきもきしていると、不意に、

「でも、行ってよかったよ。行こうかどうしようか迷ったけど、行ってよかった。本当に素晴らしかったよ。とても。何だかそう、聴いていると胸がいっぱいになった。自然に涙がこみあげてきて、自分でもびっくりした。美しい音楽って人の心の琴線に触れるんだろうね。いや、それとも彼女が弾いているからなのか。僕の贔屓目なんだろうか。」

 一気に話し終えたセインは窓の外に視線を移し、今しがた自分が口にした言葉の意味を胸の中で噛み砕くように黙り込み、その時の心情をまた思い返していた。

 何も言わずとも、エドは彼の心の中を察した。

 コポコポとフィルターにお湯が落ちる音が静かに響いていた。エドも同じように窓の外を見た。白い綿毛のような丸い雪が音もなく窓の外を滑っては流れていた。

 セインはじっと窓の外の雪を見ていた。その白い色が彼女のドレスの色と重なる。

 白いドレスを着ていた。今日も。

 初めて会った時も、白色の服を着てこの店のピアノを弾いていた。今日と同じように。

 ピアノと前にいた。

 あの頃を思い出し、涙腺が緩むのを感じた。

(時は戻らないが、気持ちは同じところをぐるぐると回り続ける。あの時と同じ雪ではないが、それでもこの雪を見ている僕には、この雪もあの時と同じ雪に思える。だけど、あの時の彼女との時間があったから、今の僕がいる。彼女との出会いがあったから、今の幸せがある。)

 懐かしさに思いが溢れそうになる。あの頃の悲しみも苦しみも、今はただ懐かしい。彼女に会いたい。彼女に会えたら。もし、会えたら何を話そう。自分はどうするだろか。気持ちはどうなっていくだろうか。いろんな過程を考えながら過ごした数年。その後、妻も娶り、子供を授かり、家族が出来た。愛する人たちに囲まれて過ごす幸せな日々。この日々もミルフィーユが与えてくれたものだ。セインはそう思っていた。彼女に会えたから、今の自分がいる。そう思っていた。

 最前列にカズマが座っていたのに気が付いて、声をかけようかと思ったが、勇気が出なかった。髪に白いものが混じっていた。でも、穏やかな表情で娘の演奏を聴き入っていた。それを見てほっとした。


「会ったのか。」

 エドは視線を窓の外に向けたまま、尋ねた。

 セインもエドと視線を合わさずに答えた。

「いや。会わなかった。」

 その声には落胆も抑揚もなかったが、落ち着いた声色には納得した様子がうかがえた。彼の視線の先には、優雅な動きでピアノに向かう彼女の姿が映っていた。スポットライトを浴びて、光る金色の髪と、白い華奢な肩先で鍵盤を叩くミルフィーユの姿が。


 セインが帰った後、席に残っていたパンフレットを拾い上げ、エドはしばしそれを見つめていた。

「クリスマスのピアノリサイタル」

「帰国後初のリサイタルを出身地で行う新進気鋭のピアニスト」

 パンフレットには、柔らかな表情で微笑むピアノの前のミルフィーユの写真が載っていた。肩先の出た白いシフォンのドレスの胸元には、琥珀色の石が想いを含んだように光っていた。


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