河辺の灯
「・・・でもなあ。」
セインはため息をついた。あ、でもこれって心の中ではかなりロンを推しているってことだよな。
「やっぱ、えこひいきかなあ。」
・・・
「わかっているじゃないか。」
ふいに声を掛けられて現実に引き戻された。
「エド。」
カウンターの中でグラスを磨きながら、エドガーは冷ややかな視線を向けた。セインは罰の悪そうな表情を浮かべて頭をかいた。銀色の長い髪の毛が絡まって寝癖のような跡がついた。
「そうかな。」
「そうだよ。」
いつの間にかエドの店に来ていた。
アトリエの鍵を閉め、ロンにもらったバケットを抱えて歩いていたら、薄暗い路地をほのかに照らす灯りに吸い取られるように店に入っていた。
「ミスター。髪の毛、くしゃくしゃですよ。」
後ろから小さな笑い声が響いた。振り返るとミルフィーユが薄いベージュのケープを羽織ながら、帰り支度をしているところだった。
「何回言わすんだよ。セインでいいって。」
乱れた髪の毛を手ですきながらセインは不機嫌な声を上げた。
「全く。女の子にはもうちょっと優しく受け答えできないかな。」
エドがこちらに向かって咎めるように歯を見せた。
知るか。
セインがカウンターから席を立とうとすると、
「おい。セイン。ミルを送っていけ。」
「は。何で。」
反論すると、
「何でじゃない。時間ももう遅い。女の子の一人歩きは危ないからな。」
「だったら、こんな時間までひっぱってんじゃないよ!」
セインはいらいらしながら、エドガーに言葉をぶつけた。
彼は苛立っていた。ミカエル展まであと3ヶ月。誰の作品を出展するか。本当はロンを推したくてたまらないが、どこか私情が入っているような思いが払拭できない。それは何故なのかがわからない。ミナの才能もずば抜けている。最も、ロンと違って彼女はミカエル展に出展したくてたまらない。プロの画家を目指して、何年もこつこつと努力している。それはセインにもよくわかっていた。画家として、絵を純粋に愛するものとして、間違った選択をしてはならない。
「あの、マスター。私ならひとりで帰れますから。」
ふたりの険悪な雰囲気を察して、遠慮がちにミルフィーユが口を挟んだ。
「いいよ。送っていくよ。」
カウンターから上着を無造作に掴み取ると、ミルフィーユの肩を押してドアへ向かおうとした。
〝あれ。〟
その瞬間、セインは違和感に自分の掌を見た。
感じない。
ミルフィーユに触れた。いらいらしていて何も考えず、咄嗟に彼女の肩に触れてしまったが、何も感じなかった。注意して人に触れないと、その人の感情がダイレクトに皮膚に突き刺さってくる。だけど、ミルフィーユからは何も感じなかった。
やはり。この子は。
呆然と立っているセインの顔を、ミルフィーユは不思議そうに下から覗き込んだ。
「ミスター?」
「ミスターは止めてくれって言ってるだろ!」
ミルフィーユの手首を掴んだセインは、そのまま店を出た。
「頼むぞ。」
背中越しに楽しそうなエドガーの声が聞こえた。
足早にミルフィーユの前を歩く。後ろから小走りでついてくる彼女の足音が聞こえる。少し歩を緩めなければと思いながらも、思いがけず彼女とふたりになってしまい、セインは少々うろたえていた。
河の上まで来た。この町を流れる一番大きな河。レンガが積み上げられて作られたクラッシクな橋はこの町の観光スポットであり、あちこちで恋人たちが肩を寄せ合うようにして橋の上から河を眺めていた。
橋の中腹まで来るとセインは足を止めた。ミルフィーユがやっと彼に追いついて、息を弾ませながらセインに声を掛ける。
「ミス・・・あの。」
セインはミルフィーユに向き合い、照れくさそうに頭をかいた。
「ごめん。いらいらしていて。あの、本当にセインでいい。多分そんなに年も変わらないだろうし。ミスターは堅苦しい。」
「そうですね。ごめんなさい。」
ミルフィーユは軽やかな羽のように笑った。
何故か彼女の笑顔を見るとどうしようもなく照れくさくなる。じっと見ていたくなるほどの柔らかくて暖かい笑顔。
だが、じっと見ているわけにもいかず、セインはミルフィーユに背中を向けて、橋の欄干から河を眺めた。
ミルフィーユも同じようにセインの横に並んだ。
橋の欄干からは、北東に向かって長く弛ませて流れる河の景色が見える。両脇には丸い形の外灯が河に沿って配置されており、このクリスマス前の時期から新年まで河の景観を彩る。すっかり日が暮れ、暖かいクリームの灯りが河に沿って並びとても美しい。左岸から西側に向けて整備された森が作られており、春など陽気のよい時期にはピクニック客も結構訪れる。
「あの。」
ミルフィーユが声を掛ける。
「何?」
「さっき私の肩を押したとき、びっくりしたような顔をしていたわ。」
「あ、あれは。」
セインは返答に困ってしまった。
「いや、ごめん。何でもないんだ。」
ぶっきらぼうに言葉を切り、セインはまた河に視線を向けた。
気まずい雰囲気が流れた。だが、ミルフィーユは持ち前の明るさですぐに質問を変えた。
「初めて会ったときから思っていたのだけど、セインの髪の毛、とても綺麗だわ。もうずっと伸ばしているの?」
女の子は何故か、誰もが髪の毛のことを聞いてくる。
「そうだ。」
「子供の頃から?」
「そうだな。」
でも、君の金髪の方が綺麗だ。それに・・・
セインは心の中でそう思ったが、口には出さない。
「髪の毛ね。エドがいつも切れ、切れってうるさいんだけど。エドがそう言うのもわかるんだ。だけど・・・」
「だけど?」
ミルフィーユが続きを促した。
人に質問されるのは嫌いだ。何故人のことをみな知りたがるんだろう。セインはいつも質問に真剣に答えない。だけど、何故かミルフィーユの前では口が軽くなってしまう。
「もうすぐ、クリスマスだ。」
「そうね。」
質問をはぐらかされたと思ったミルフィーユが声のトーンを下げた。
「母の命日なんだ。」
「まあ、そうなの。」
クリスマス。キリストの誕生日を家族で祝う。暖かいチキンやケーキ。クリスマスツリーの下にはプレゼント。サンタクロースを待ちながら眠りにつく子供たち。
幸せな情景。暖かい団欒。
ミルフィーユは胸を痛めた。そんな日にお母様が亡くなったなんて。
「母は俺が物心つく前に亡くなった。エドから聞いた母は、長く美しい金髪を伸ばした綺麗な人だったらしい。・・・俺は母親に似ているらしい。エドがそう言うんだ。」
「・・・だから、髪の毛を伸ばしているのは、エドが喜ぶ・・・かな・・・って。」
「マスターが?」
ミルフィーユは理由が飲み込めず不思議そうに眉を下げた。
「つまり、俺の母親はエドの幼馴染で・・想い人だった。」
エドが喜ぶかもしれないと思って伸ばし始めた髪だった。
母親に似ていると、エドが幼い俺の顔をじっと見て、涙ぐんでいることがあった。子供心にもエドに何かしてあげたくて、髪の毛を伸ばし始めた。大人になってからは、逆にそれがエドを苦しめているのではないか。こんなふうに母親のように髪を伸ばした自分を見ていることは、想い人を忘れられないでいるエドにとって本当はつらいことではないのかと、セインは迷っていた。でも、きっかけもなくてそのままに髪を切ることができずにいる。
「お父様は?」
「知らない。」
セインに父親はいなかった。いや、いるには違いないだろうが。母親のアメリアはセインを私生児で産んだ。理由はエドが知っているが、セインは聞いたことがなかった。ただ、エドがセインの父を憎んでいることを知っていた。エドが一度だけ言ったことがある。アメリアが死んだのは父親のせいだと。




