聞こえない!
(あれ・・・?)
「ロン!」
不意に素っ頓狂な声で呼びかけられ、ロンは飛び上がらんばかりに驚き、
「は、はい!」
答えた彼を、腕を広げ抱きしめたセインは確信した。
(聞こえない。やっぱり聞こえない!)
彼を抱きしめても、人に触れた時に感じる痺れに似た痛みも、耳鳴りのような奇怪な音も聞こえない。その人の感情も思いも聞こえない。ミルフィーユに初めて触れた時と同じ、そこには真っ白な空間があるだけだった。風の音も水のせせらぎの音も、光の反射する音も、すべて消えた静寂な空間。
そういえば、先ほど隣にいたミナが視線を向けた時も、かすかに僕を呼ぶ声が聞こえただけだ。ミナの思念も微かに僕に触れただけだ。
まさか。本当に。こんなことが。
思いっきり抱きしめられたロンは、びっくりするやら、何が起こっているのやらわからず、戸惑いただ、身体を固くしてじっとしていた。
「あ、あの。せ、先生・・・」
ロンが蚊の鳴くような声で呟くと、セインは我に返り、
「ご、ごめん。ロン。ああ。あんまり嬉しくて、みんなが揃ってくれて、それで君も・・・」
「あの。それで・・・」
その後は声にならなかった。胸がいっぱいになり、鼓動が胸を叩くように激しく鳴り始めた。今まで意識下に無理やり閉じ込めていた感情が渦になって押し寄せてきて、セインは自分の気持ちすらわからず、戸惑い、嬉しさと驚きが同時に押し寄せてくると、自分の意志とは関係なく涙が次から次へと溢れて湧き出してきた。
小さな頃の思い出や、顔を知らない母のことやら、エドと一緒に放浪したあちこちの街の風景やら、いろんな記憶の断片がごちゃ混ぜになってセインの心を翻弄した。
溢れ出る涙を皆に気づかれまいと、声を押し殺し、涙をぬぐおうとした手のひらで顔を覆うと、そのままセインは床に座り込んだ。
「あ、あの、先生。どうし・・たんです・・か。」
ロンが自分の前にしゃがみ込むのが気配で感じられた。
「先生!」
「どうしたんですか!」
「大丈夫ですか。先生。」
「先生!」
周りにいた生徒が自分を囲むのが感じられた。
笑ったり泣いたり、感情の起伏についていけない自分に、皆がびっくりして、口々に自分の名前を呼び、心配している。
早く涙を拭いて、立ち上がらないと。そう思えば思うほど、涙は溢れ出る湧き水のように止まることはなく、感情がセーブ出来ないことにセインはおかしくなってきて、笑い出した。
「ああ、あの何でもないんだ。そう、何でもないんだ。」
たかが外れたように声高に笑うセインに皆は戸惑い、顔を見合わせ、ロンはどうしていいのかわからず、助けを求めるようにおろおろと周りを見回すだけだった。
それを壇上から見ていたミナが駆け寄ろうとすると、誰かに腕をつかまれた。
「マスター。」
エドは軽くミナの腕を自分の方に引き、笑って首を振った。
「大丈夫だ。」
その場にいた全員が、セインの意味不明な言動に戸惑っていたにもかかわらず、エドだけが落ち着き払って、顔には嬉しそうな笑みさえ浮かべてさえいた。
「マスター。でも、先生なんか変ですよ。大丈夫なんですか。」
ミナは不安そうにエドの顔を見つめた。
「大丈夫。大丈夫。」
エドはいつもの軽い調子で顔の前で手を振った。
エドにはわかっていた。
セインの胸の内が。
ミルフィーユに去られた悲しみ、ミナの受賞のことや、思いもかけずロンがやってきたことに喜んでいること。興奮と悲壮感とがごちゃ混ぜになって自分にすら感情がコントロール出来ないこと。それに対して自分自身がうろたえるほどびっくりしていること。そして、生まれてこの方ずっと苦しめられていた忌まわしい能力が突然消えてしまったことに驚き、信じられない思いでいっぱいであること。疑いつつも安堵していることなど。
「やっぱり、お前はあの頃のままだ。ジョーイ。」
エドの脳裏には、小さな頃のセインの姿が浮かんでいた。
トウモロコシの綿毛のように金色に光る髪を揺らして、体いっぱいで生きている喜びを現していたあの頃のお前。無邪気に笑って、だれにでも心を開き、疑うことを知らず、神様の祝福をいっぱい受けて、皆に愛されていたお前。その明るさと素直さが、アメリアとそして俺に幸せを与え続けていてくれたこと。
根底になる素質は今もそのままなんだ。
改めてエドガーは義理の息子であるセインのことをそう思った。




