君の声だけが訊きたい
ブルルッ。
不意に店の前に車が止まる音がした。その音に反射するように、ミルフィーユは顔を上げ、セインに告げた。
「…もう、行かなくちゃ。迎えの車だわ。」
涙に濡れた顔を手のひらで拭いながら、体を離した彼女を見て、セインは口惜しそうに漏らした。
「どこへ。」
いや、気が付いていたのだ。今日の彼女の装いは、近所へ出かけるようなラフなものではないことに。黒のモヘアのセーターの上に、外出用のジャケットを羽織っていたことに彼は気が付いていた。ループツィードの上品なもので、春らしいきれいなクリーム色だった。彼女は出かける前にここへ寄ったのだ。
「今日、出発するの。」
「そうか。」
ピアノの勉強をするために留学をすることは、以前から聞いていた。もう、ミルフィーユは出発したものだと思っていたセインは、今日彼女が現れたことに少々驚いていたのだ。もう、会えないものだとばかり思っていたのだから。
〝行かせたくない。〟
兄としては、妹の夢をかなえるための旅立ちを祝うべきだ、笑顔とともに送り出すべきだと、充分頭では分かっていたが、ぎこちない笑みを浮かべることすらできない。
離れたくない。ここにいて欲しい。
ミルフィーユは、バックを手に取り、
「飛行機の時間があるから。」
そう言い、セインに背中を向けた。
反射的に、後ろからその背中を抱いた。
羽のように風に乗って飛んでゆきそうに思えた。
〝ミルフィーユ。行かないでくれ。〟
心の中で叫んだ。口にすることは出来ないけれど。
彼女の背中がかすかに震えていた。息を詰めて、込み上げてくる思いに耐えるようにじっとしていた。そんな彼女がもどかしくて、セインは胸が張り裂けそうだった。
通りのざわめきも、彼女を待つ車のエンジン音も、何も聞こえなかった。彼女の押し殺したような息遣いをセインはじっと聞いていた。
どうして、妹なんだろう。
いつもの冷静な自分はどこにもいなかった。感情だけで動き、その感情に飲み込まれそうだった。このまま、この感情に身をゆだねて、明日のことも周りのことも何もかも考えずに、己の本能だけであるがまま突き進めたらどんなにいいか。
「ミルフィーユ。」
彼女を反転させ自分の腕の中に収めた彼は、彼女の唇を求めた。
顔を近づけようとした彼をミルフィーユは制した。
「駄目よ。セイン。」
言葉尻が震えていた。
腕を棒のように突っぱねて、彼の胸から逃れたミルフィーユは下を向いたまま動けなかった。その顔を上げることなく、再びセインに告げた。
「もう、行かないと。」
このままこんな形で別れたくない。セインはそう思った。無理にでも笑顔で。
だけど、ふたりとも強張った表情のまま、言葉すら出てこない。店の壁にかけてある時計の音だけがいやに大きく聞こえた。自分の心臓の音すら聞こえてきそうなくらいの静寂にセインは再びミルフィーユの手を握り、そっとその胸のうちに意識を傾けてみた。
〝今度・・〟
〝会える時は、〟
かすかにミルフィーユの心の声が聞こえた。
今度。会える時。
会うことがあるだろうか。ミルフィーユが戻ってきた時。お互いの気持ちの整理がついた時。今度は、兄と妹としてだろうか。それとも、お互いの存在の位置づけを確定されないまま、今のような気持ちのままで、会うことがあるだろうか。
だけど、かすかに聞こえたミルフィーユの心の声に、セインはもう終わりではないという希望を抱いた。
こんな希望を抱くことがお互いにプラスになるのかどうかもわからないけど、今の自分には、又きっとミルフィーユにも、いつかまた会えることが出来るかもしれないと、次に続く道しるべを見ながらではないと、今の状況はつらすぎる。セインはまだ自分の気持ちのやり場を見つけることが出来なかった。だけど、時間は待っていてはくれない。数分後、この愛しい人は、この地を去るのだ。
今まで聞こえなかった声。聞きたくてたまらない人の声ほど、聞こえない。
どこかでその声は響いているはずなのに、一生懸命、耳をそばだてているのに、その微かな音だってこの耳で拾いたいのに、狂おしいほど愛しくて、この手に入れたくてたまらずに、日々身を焦がすような思いにさいなまれているのに。
人の心の声が聞こえることが苦痛で忌まわしい思いしか持たなかったセインに、 この世でただ一つ欲しいものが心から愛おしく思う人の声だった。




