最後の時間
ミルフィーユに触れられた髪の先に電流を感じた。髪の毛に神経が通っているはずもないのに。さらりと撫でられた髪にまだ彼女の指先の感覚が残っている。セインは呆然と立ち尽くした。
何か言わなければ。
いつもの冷静な自分がひどく動揺していることを、彼女に悟られまいと、必死に頭の中で言葉を組み立てる。が、もどかしい。多分、伝えたいことはいっぱいあるのに、何も口をついて出てこない。セインは奥歯を噛み締めた。
ミルフィーユは落ち着いた様子で、じっと彼が口を開くのを待った。
「・・・あの。そうだな。ちょっと気分転換っていうか。まあ、深い意味はないんだけど。」
失恋すると髪の毛を切るのは女の子だったけ。それが理由だとミルフィーユには思って欲しくないけど。
セインはそう思いながら、ああ、そうか、そうともとられるかもしれないと心の底で少々焦った。ミルフィーユはそんなふうには捉えてはいなかった。多分、いろんなことがあって、彼は彼なりに新しいスタートを切りたいのだと、そのために気分を一新したのだと思っていた。
「でも、似合うわ。短い髪型も素敵よ。」
「そう。ありがとう。」
そんなやりとりをすると後はもう会話が続かず、二人は黙り込んでしまった。ぎこちない沈黙が流れた。春の陽光が指す窓辺からは通りを歩く人のざわめきが聞こえた。
「今日は通りがにぎわしいのね。」
ミルフィーユが口を開いた。その言葉を助け舟にセインは気になっていたことを口にした。
「日曜日だからね。話は変わるけど、そういえば、その、聞きたかったことがあるんだ。その、どこで、気がついたんだ。」
ミルフィーユは、床に視線を落とし、少し思案した後、カバンからあるものを取り出した。彼女には質問の意味がわかっていた。
「私が探している兄はあなただということに気がついたのは、これを見た時よ。」
彼女は手のひらにあの琥珀のネックレスを広げて、セインに見せた。
セインはそのネックレスを手に取り、あの夜のことを思い出した。
〝母さんの形見なんだ。〟
ネックレスを見せた時の彼女の表情。驚きを内に隠し、表情を見せまいと感情を無理に押し込めたあの能面のような顔。金色のボールチェーンの先には、幾重にも波のような模様を施した美しい琥珀がぶら下がっている。窓から差し込む光に茶色のグラデーションが揺らめいている。
彼女も同じネックレスを持っていた。セインには今更驚くべきことでもないように思えた。
「パパが持っていた物なの。私も同じようにパパからこのネックレスを譲り受けたの。ハイスクールに入った時かしら。記念にパパの大事にしていたものをあげるよって言って。」
同じふたつの琥珀のネックレス。多分、アメリアとカズマが揃いで持っていたものだろう。
「パパは、昔愛していた人と記念にと、同じ物を買い求めて持っていたのだと、その時話してくれたわ。だから、あなたがこれと同じものをお母様の形見だと言って見せてくれた時、わかってしまったの。」
ミルフィーユはうつむくと、さらに声を小さくして続けた。
「ううん、それ以前よりこのお店にアルバイトに来た頃から、ひょっとして、と思っていたわ。でも・・・」
「当たって欲しくなかったわ。」
聞き取れないほどの小さな声で呟くと、肩を震わせ何かを堪えるように小さく身震いをした。
窓辺に背をもたせかけ、話を聞いていたセインは、反射的にミルフィーユの側に寄り、その肩を抱いた。彼女は顔を上げ、息を飲み込むように泣くのをこらえ、鼻をすすった。そして彼の顔を見つめ、大きく息を吐いた。
「セイン。」
「俺も同じことを思っていた。当たって欲しくなかった。」
絞り出すようにそう言うと、もう一度彼女の肩を引き寄せた。ミルフィーユは、セインの胸に頬を押し付けて、肩を震わせて泣き始めた。
「泣かないで。ミルフィーユ。」
慰めるセインも胸が張り裂けそうだった。このまま、こうやって彼女を抱いていたい。どこへも行かせずに、小さな部屋を借りて、ふたりでずっと永遠に一緒に暮らせたらいいのに。毎日、朝も夜もこの人の顔を見ていられたら、自分の人生はもっとずっと満ち足りたものになるだろうに。
部屋には、自分が描いたミルフィーユの肖像画があった。白い服を着て周りの自然に溶け込むようにキャンバスの中で笑っている彼女は、まるでニンフのようでこの世のものと思われるほど清廉で美しかった。だけど、あれは血のかよった魂ではない。自分が感じた彼女の存在、その魂のようなものをキャンバスに写し取ったものだ。あの絵を側に置いていたことがひどく意味のないもののように思えた。本来の自分の望みは、美しい彼女だけでなく、こんなふうに泣く彼女を、あの時、自分の父をかばって怒りをたぎらせた彼女を、血のかよった生身の彼女を、いつもそばに感じていたいということだったのに。
こうやって抱いていても、彼女の思念が伝わっては来なかった。人に触れれば、ビリビリと嫌な振動を立てて無造作に押し入ってくる感情の流れが、今は感じられない。 そう、この人には感じられない。この何も感じられない、ただ泣いている人を抱いていることがその事実だけが安らぎなのだ。




