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これからも

 市街地を抜けてエドの店があるサンリータの通りまでやって来た。狭い石畳の路地を青のフィアットは器用に右に左に曲がり、エドの店の前にたどり着いた。

〝何て長い一日だったんだろう。〟

 ライトを落とし、サイドブレーキを引いてセインは深く息を吐いた。

 店の2階がエドの住まいになっていた。小さなミニキッチンにリビング。窓側に面して部屋がふたつ。そのひとつはセインが大学に入るまで使っていたものだ。

 明かりのついていない窓を眺めながら、セインはエドに遠慮がちに、

「エド。俺、今夜泊まっていこうかな。たまには。」

 エドはそれを聞いて、おかしそうに頬を緩め、

「明日も忙しいんだろう。俺のことは気にするな。」

 いろんなことがありすぎて、身体も心も疲れきっているのはセインも同じだったが、自分よりも数倍疲れ、心身ともに負担がかかった一日を過ごしたのはエドの方ではないか。こんなことがあった後で、ひとりにしても大丈夫だろうかと、セインが心配していることは、エドにはすっかりお見通しだったようだ。

 すっかり日が落ちた路地裏。エドの店があるサンリータの通りには、小さなレストランやバー、パブなどが所狭しと、隣接している。この辺りは焼き物が盛んで、その仕事に従事している職人たちが仕事帰りに一杯飲もうと店に出入りし、夜の帳が降りる頃にはたちまち賑やかな空気に包まれる。まだ時間が早いせいか、人の通りもまばらだ。

〝エドは今日も店を開くのかな。〟

 セインは、この後もいつものように店を開けて、客たちに軽い冗談を言いながらシェイカーを振るエドガーを想像したが、うまくいかなかった。

「店は開けるよ。いつもどおり。」

 セインの考えていることがわかったのか、エドガーは疲れた顔に無理矢理笑顔を作った。

 ドアノブに手をかけ、車を降りようとしたエドガーだったが、不意に振り返り、

「これからも今までどおりだな。」

 不安そうにセインに問いかけた。

〝お前は俺のことが怖くないのか。今まで自分の正体を隠していた。封印していたはずの力が、ミルフィーユが現れ、バランという名前を耳にした時、あの男に対する憎しみが再び湧き上がってきた。未だあの忌まわしい力が俺の中に巣くったままだった〟

 エドガーの心の声が聞こえてきた。

 触れもせず、床に落ち割れたグラス。

 あの夜のことを思い出した。

〝だけどそれを言ったら俺だってモンスターだぜ。〟

 セインは口には出さず、エドガーの目を真っ直ぐ見て笑顔を作った。

 彼には自分の心の声が届いている。

 確信するセインの目に、安堵したように頬を緩め、目に少し涙を溜めたエドガーが映った。

 車から降り、助手席の窓を開けたセインに、エドが言った。

「ありがとう。」

 セインが首を振ると、

「明日も頑張れよ。」

と、親指を立て、肩目をつぶった。

 バックミラーに目をやると、店の戸口に立ち、こちらを見送るエドガーの姿が映った。

〝珍しいことをしてやがる。〟

 セインは苦笑した。

 客には別だが、自分にはぶっきらぼうなエドが、すぐに建物の中に入らず、しおらしくこちらを見送っているなんて。

〝でも、ありがとう。〟

 今まで育ててくれて。本当のことを教えてくれて。長い間俺を探してくれて。

 そして、ずっと俺のことで苦しませて・・すまない。

 それはエドに対しても、実の父、カズマに対してもだった。感謝と申し訳ないという思い。セインはふたりの父に思いを馳せた。

 幼き頃よりの想い人とその子供に、長年自分の人生を捧げ続けてきた。己の力を隠し、また、同じような力を持つその子供に、生きる術を教え、導いてくれたエドガー。

 そして長年後悔と罪の意識に苛まれ続け、それでも陰日向になり支え続けてくれた実の父、カズマ。

 自分はずっとひとりではなかったのだ。

 夜の帳の降りた街並み。ひとつずつ灯る灯りに、セインは家族のありがたみを感じた。あの家にも、あの部屋にも、あの灯りの下で、食卓を囲み、団欒を楽しむ人たちがいる。本当はずっと自分もその輪の中にいたのだ。今まで、気がつかなかったけど。

 暖かい思いに胸が浸される。だけど、その中にも、小さなしこりのように胸を刺す痛みが細切れに思い出したように訪れる。

 思い出すまいとしても、自動的に回り続ける映写機のように、ミルフィーユの残像が頭から離れない。

 ああ、あの子は妹だったのだ。自分に兄弟すらいるなどと思いもしなかった。

 母の違う異母兄弟がいるなどと、夢にも思わなかった。

 初めて知った本物の恋。

 恋してはならない相手。

 どうにもならない苦しみに、胸が塞がる思いだった。だけど、セインはその思いを振り切る。明日、自分には重大な責務があるのだ。

 審査結果の発表。

 今回、ミカエル展に出展がならなかったロンを始めとする多くのアトリエの生徒のためにも、その才能を認められ、世に出て、多くの作品を創り出していくであろうミナのためにも、明日は自分がしっかりしていなければならない。

 数学の学者であるカズマが審査員のひとりであることは、少々不自然な気もするが、彼は息子であるセインに会いたいがため、何かしらの手を打って審査員のひとりに加わったのではないかと思われた。また、明日は公の場で父に会わなければならないことは、多少の動揺を引き起こすかもしれないが、セインにとってはそんなことを気にしてはいられない。自分の仕事をこなし、無事にすべてのスケジュールを終えること。ミナが入選するかしないか、今はそれだけを考えよう。そして、ミナに春が訪れる事を願おう。セインはそのことだけに気持ちを集中させようと思った。


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