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ロン

 それから、パン屋に行く度、ちょくちょくロンに声を掛けた。人の心の声を聞かないようにして人に接するのは難しい。だからセインは人と接することが好きではないのだが、何故かロンのことが気になって仕方がなかった。

「やあ、ロン。」

「ど、ど、どうも。い、いらっしゃいませ・・・」

 ロンは頭を下げると逃げるように店の奥に引っ込んでしまう。それでも、セインは、

「今日のお勧めのパンはどれだい。」

 ロンに声を掛ける。すると、仕方なしといったように、店の奥からおどおどと出てきては、無言で2,3種類のパンを指差す。

 セインはロンの勧めたパンをふたつ、みっつ買い、

「ありがとう。」

 そういって笑顔を向けた。

〝せ、せん、先生は何故僕に声を掛けるんだろう。〟

〝ぼ、ぼ、僕なんかに。〟

 背中に音にならないロンの声がぶつかってきた。


 そんなことが何回か繰り返された頃、珍しくロンがセインのアトリエにやってきた。

 ドアの透かし窓から白い帽子を覗かせて不審な視線をこちらへ向けている。

 午前中の生徒が帰った後で、ちょうど誰もいないアトリエで片づけをしていたセインは、ロンに気がつき、

「どうした。良かったら入っていいよ。」

 声を掛けると、その声に反応して、おずおずとドアが開かれた。

「あ、ああ、あの。」

 ドアを開けたものの戸口ででくのぼうのように突っ立ったまま動かない。

「どうぞ。」

 セインはロンの心の声を聞かないように、深呼吸をし、内の扉がしっかりと閉められていることを確認した。ゆっくり歩いてロンの側に行き、彼の手を取る。何故だかわからないが、人に触れると扉を閉めているにもかかわらず、その人の心の声が伝染するようにセインの皮膚を通して染みこんでくるのだ。人に触れることを極力避けている。だけど、同じように人と接することが苦手なロンが、ありったけの勇気を振り絞ってここへ訪れたのだということがセインには手に取るようにわかっていたから、ロンを部屋に誘導した。

 ロンはアトリエに入るときょろきょろと辺りを見回した。部屋の中には描きかけの生徒の絵が無造作に乱立していた。脇には使用中のパレットや絵の具が整然と並べてある。彼はそれらを黙って興味深そうに眺めた。そして、許しを請うようにセインの顔を見上げた。心を読むまでもなく、彼の言わんとしていることがわかったので、セインは大きく頷き、

「ゆっくりと見ていくといい。」

 そう言って、自分の制作室へ引っ込んだ。彼の姿が見えなくなるとほっとしたようにロンはゆっくりとひとつずつ丹念に描きかけの画を見て回った。

〝やっぱりあの子は絵が好きなんだな。〟

 制作室のドアの隙間越しにロンの画を眺める表情を見ながらセインはそう思った。

 彼の表情は、パン屋で見せるいつも怯えたような自信のない表情ではなく、のびのびとしていた。頬を少し上気させ興奮しているようにも見えたが、いつもとは違う明るい表情だった。

 セインは、彼に別れ際、いつでも見に来るように伝えた。

 その後、何度かロンは仕事の合間にセインのアトリエを訪れた。純粋に画に興味があると思えた。セインは、自分のお古のデッサン用の道具とスケッチブックをロンに与えた。ロンは大変恐縮をしていたが、強く勧めるとおずおずと手を伸ばし、何度も頭を下げた。

 ロンがスケッチブックを片手にアトリエに訪れるとセインは彼の描いたものにアドバイスを与え、指導した。

〝これってえこひいきかな。〟

 他の生徒に対して後ろめたくもあったが、ロンの画に対する純粋な興味とその類まれなる才能に、どうしても目をかけてやりたかった。

「習いにおいでよ。」

 一度そう声を掛けたことがある。だけど、ロンは大きく首を振って、仕事があるからと断った。その時、セインが感じ取ったのは、本当は画を習いたくてたまらないが、飲んだくれの父親を養う為、ロンには習い事をするような余裕がないという事情だった。

 〝人の家庭事情なんか知ったことじゃない。〟

 セインはそう思ったが、父親に恵まれていないというロンの立場に、どことなく共感を覚えた。

セインは本当の父親を知らない。母親もすでに他界した。


 あれから何年かな。

 セインは指を折って数えた。

 5年か。

 それでも、少ないパン屋の給料から捻出し、ロンが月謝を払い、画を習いに来るようになってから5年が経っていた。だが、月謝が精一杯で絵の具やキャンバスを買う余裕のない彼に、セインは自分の使いかけの絵の具や予備のキャンバスを与えた。

 もちろん他の生徒には内緒だ。ロンはそのことを心苦しく思っているのか、ミカエル展の候補に彼の名前をあげたときに、こう言った。

「せ、せ、先生。僕は、その絵をかけるだけでじゅ、充分なんです。ミカエル展になんてとても。ぼ、僕はいいです。だれか他の人を・・・・」

 消え入りそうな声だった。ロンはセインに援助してもらいながら習いに来ていることを引け目に感じていた。


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