内気な少年
不思議な子だ。何であの店にバイトに来たんだろう。クラッシクしか弾いたことがないお嬢さん。流行歌も知らないなんて。
ま、確かに手垢なんてどこにもついてないって感じだけど。
ミルフィーユが帰ってカップを片付けながらセインは不思議に思った。どこから見てもいいところのお嬢さんって感じだし、エドの店でのピアノ弾きのバイトは夜だし、中には酔客もいる。未成年にも見える幼さ。俺には20歳だっていったけど、本当だろうか。
考えてみれば謎だらけだ。エドは素性を知って雇ったのだろうか。ふむ、今度聞いてみよう。
などとセインが思いを巡らせていると、コン、コンとアトリエのドアをノックす る音が聞こえる。
「はい。」
今日は客が多いな。
セインは少し緊張して、心の扉をそっと閉める。
「先生。」
白い帽子を被った階下のパン屋の店員が立っていた。年の頃は16,17歳。薄い茶色の髪の毛を白い帽子の奥にひっつめるようにして整え、緊張した面持ちで廊下に立っていた。
「やあ。ロン。」
〝試作なんだけど。先生はフランスパン好きだから。どうかな。〟
ロンと呼ばれた少年はセインと目を合わさずに自分の足元を見ていた。手には大きなバケットが。
「これ、ロンが焼いたのかい?」
セインは優しくロンに語り掛けた。
「あ、あ、これ・・・。僕が。」
ロンは顔を真っ赤にして、どもりながら手にしたバケットをセインに突き出した。
「美味しそうだね。いい匂いだ。」
焼きたての香ばしい匂いがアトリエ一杯に広がるようだった。
セインはバケットを手にしてロンの肩に手を置いた。
「最近、画を描きに来ないね。どうした?」
「・・・あ、ああ、それは。仕事のことで・・あ、頭が・・・」
〝いっぱいなんだ。初めてひとりで焼きを任せてもらえるみたいだし。〟
ロンの声が聞こえた。セインはアトリエに彼が姿を見せないのは、本当に仕事が忙しいみたいだと納得して少し安堵した。
「仕事が忙しいんだね。ならいいんだけど。」
「すみません。」
ロンは頭を下げた。
「別に気にしなくていい。君が好きなときに、描きに来ればいい。」
「え、あ、ああ。」
ロンは又顔を真っ赤にしてせわしなく口を動かした。
〝これ、ありがとう。〟
バケットを手に、アトリエの階段を下りていくロンの背中に向かって声を掛けると、びくっと驚いたように振り向きそれでも嬉しそうに微かに笑顔を向けると、慌ててロンは階段を下りていった。
制作室のドアを後ろ手に閉めながら、セインは思った。
ロンの才能は捨てがたい。元々彼は極度の緊張症らしく、人と話すことが苦手らしい。セインと話すときでもつかえながら話し、人の目を見ることも出来ない。アトリエの階下のパン屋で働き始めてもう何年にもなるが、客の相手は出来ず、店の掃除や、調理器具の手入れや、職人たちの下働きなどをしている。それでも最近は、少しずつ、パンの成型や焼きなどをやらせてもらっているみたいだ。その喜びがロンの心に溢れていた。セインは先ほどもらったバケットを手にし、それを実感した。
彼はパン職人のほうが幸せなのかな。だけど、この画。もったいないな。
セインは迷っていた。
制作室の奥には2枚の画が並んでいた。キャンバス一杯に広がる大きなひまわりの群生。もう一枚の画には清らかな小川の上に踊る光、それを包み込むように明るい色調で美しい森の風景が広がっている。
小川と森の風景画はミナの作品。セインが才能を認めている愛弟子のひとり。そして、大きなひまわりの群生画はロンの作品だ。
悩むな。
セインは大きなため息をついた。期限が迫っている。出せる枠はひとつ。
ミナはカリタの通りの先にある大きな家に住み、父親は町の名士だ。教養も知性も兼ね備えた美しい女性だ。絵の才能もずば抜けている。セインと同じ美大の出身でもある。
ロンはセインに会うまで絵筆など握ったこともない貧しい職人の家の出で、絵の具の混ぜ方から筆の手入れまで手取り足取り指導した。
セインはひまわりの画を見ながらロンに出会った頃のことを思い出していた。
このアトリエを開いたばかりの頃。階下にパン屋があるのは好都合だった。
昼時や小腹が空いた時など下へちょくちょくパンを買いに行った。ロンは黙って店先を掃除しているか、先輩格の職人たちにこづかれながら荷物を運び入れたりしていた。背中を丸めて下ばかり向いている。その陰のある暗い雰囲気にセインは興味を持っていた。
何故だろう。多分あれは自分の中にある資質を彼の中に見ていたからだろう。
後になってセインはそう思った。
そのうち、店の主人が画に興味があることを知り、2Fを貸してもらっていることもあって、ある日描いた画を贈ったら大変喜ばれた。店に入ったすぐの一番目立つところにその画は飾られた。二人の子供が肩を寄せ合ってテーブルの上の小鳥を見守っている画で、その奥には籠に盛られたバケットの山を描いた。
朝、アトリエに赴くと、画の前で箒を片手にじっと見入っているロンの姿を何度か見かけた。彼は画に興味があるのかと思い、ある日、アトリエに上がっていく前にロンに声を掛けてみた。
「君。」
急に呼びかけられたせいなのか、ロンは飛び上がらんばかりに驚きを見せた。
「ごめん。脅かすつもりはなかったんだ。」
謝ると、
「あ、あ、いえ。その・・別に。」
ロンは目を白黒させた。目がきょろきょろ動き、動揺していることが手に取るようにわかった。
不審に思ったが続けた。
「君。絵は好きかい?」
「あ、・・・・。」
長い沈黙の後、
「べ、別に。」
搾り出すように彼は言った。
その時、ふと扉が開いてセインにはロンの心の姿が見えた。
驚いて後退りしようとしたが、何かに捕らわれるように身動きも出来ず、セインはロンの心を垣間見た。
それは、薄暗い陽の差さぬ小さな部屋で暴力を振るわれている幼いロンの姿だった。止めてくれとも言えず、黙って小さな体を精一杯丸めて耐えている子供の姿がはっきりと見えた。その脇に一目で肉体労働者とわかる体格のいい男が何かをわめきながら、拳を振り上げている。
〝やめて、お父さん。やめて。〟
震えながら微かに声を上げているロンの顔は真っ青で、この世の終わりを見たかのように悲惨な表情をしている。
「・・僕、その、し、し、仕事に戻らなくちゃ。」
ロンの遠慮がちにかける言葉でセインは現実に引き戻された。
〝は。今のは。〟
何だったんだろう。
異様な光景は、自分が感じたロンの心の中を投影したものなのか。
初めてだった。脳を揺さぶるような振動でも、鼓膜に響いてくる音の連なりでもない。あれは何だったんだろう。
セインはロンの後姿を見ながら深いショックを受けていた。
それは恐れだった。自分の特殊な能力に対しての薄気味悪さと、ロンがおそらく父親から暴力を受け続けて成長したことへの同情を感じた自分の傲慢さに対するものと、それでも人として育つのだという畏敬の念を感じたことに対してだ。
セインにはわかっていた。人の顔をまともに見ることも出来ず、どもりながら話し、人に対して異様なまでの緊張感をみなぎらせるロンの本質を。
彼はどうしようもないほど純粋な子供だった。本当は愛されたくて、人に触れたくてしょうがないのに、恐ろしくて近づくことも出来ない。だけど彼の中にある願いは心優しい誰かに抱きかかえられ、安心して眠りにつくことだけなのだと。




