審査会のメンバー
いつもと違うただならぬ様子の彼に気がついたセインが声をかける。
「エド、どうかした?」
そこに書かれている文字の羅列から視線を離すことも出来ず、エドは黙ったままだった。
「エド、どうかしたのか?」
もう一度声をかけ、訝しげに彼が手にした書類に覗き込む。
「・・・もしかして、これ?」
セインが指差した箇所には、審査会のメンバーの名前が載っていた。
「俺も、もしかしたらって思ったんだけど、〝バラン〟っていう苗字は珍しくないからな。人違いかもしれない。」
審査会のメンバーには、美術界の重鎮が顔を揃えている。それ以外にも、著名人や文化人、教授や博士もいる。各界からいろんな人たちが審査にやってくる。美術界の一種の大きなイベントである。そのメンバーの中に、〝カズマ・バラン〟という大学教授が名を連ねていた。
「だって、数学の博士らしい。ミルフィーユの父親は。絵画や彫刻、陶芸なんかには何の関係もないだろう。」
セインは顎に手をやり、少し考えるふりをしたが、すぐに諦めたように首を振り、
「違うよ。きっと。」
バランという苗字に最初、セインも反応した。まさかミルフィーユの父親かと思ったが、すぐにその思いを消した。父親が審査会のメンバーだったからといって、どうにかしたいわけでもない。最も、ミルフィーユの父親が自分の父親でもあるという可能性を肯定したいわけではない。そんな悪夢のような話、信じたくないのが本音だからだ。
今のセインには、ミカエル展にミナの作品を出す。その作品が重鎮たちの目に留まってほしい。その事だけに心血を注ぎたかった。そうすることによって、ミルフィーユへの思い、自分の出生の秘密、そんな呪縛から逃れていたかったのかもしれない。
「まさかな。」
エドがやっと口を開いた。か細い声で、搾り出すようにそう呟くと、カウンターの端に腰を下ろし、くたびれた様子で背中を丸めた。
「そうだな。ミルフィーユの父親とは限らん。バランという苗字なんてこの辺りにはごまんといるからな。」
エドもセインの考えに肯定した様子だが、それはセインの思いとは少し感触が違っていた。胸の内に湧き上がる何かを必死に堪えている様子で、セインはいつもと違う様子のエドが心配になり、窓際の席で様子を伺っていたミナを先に返した。
「大丈夫か。エド。」
「ああ。」
カウンターで頬杖をついてぼんやりしていたエドが、焦点の定まらぬ目をセインに向けた刹那、カウンターの上に置かれていたカップが数個、横倒しになり、床に落ちた。
カシャンと軽いガラスが砕ける音がして、床にカップの破片が飛び散った。
「何だ、今の。地震か。」
誰も触れていないのにカップが倒れた。セインは地震かと思ったが、身体に感じる振動はなかった。エドも何事もなかったかのように落ち着いた様子だ。
いや、何か変だ。その肩先が痙攣しているかのように小刻みに震えている。
「何が起きているんだ。エド。教えてくれ。」
セインは一瞬躊躇したが、その肩先を抱いた。ミナに抱きつかれた時と同じ、電流が走った。痺れるような痛みに歯を食いしばり、耐え、それでも震えているエドの肩先を自分の身体に引き寄せた。
セインは不安だった。エドの様子が変だ。だけど何も語らない。心配をかけまいとしているのか、それとも自分の知らないところで何か良くないことが起こっているのか。それは、ミルフィーユと関係のあることなのか。バランというキーワードがエドを苦しめている。何故かそんな感じがした。
「教えてくれ。エド。俺がつらい時、いつも側にいてくれた。今度は俺が力になりたい。」
必死に語りかけても、エドはじっと痛みに耐える小動物のように身体を強張らせたまま、セインの腕の中でじっとしているだけで、一言も発しない。セインは意を決し、彼の胸の中にその手を入れようとしてみた。が、そこは氷のように冷たい。 すぐに手先が痺れて千切れそうになり耐え切れず身を翻す。
〝どうしてだ。何故エドの心が読めない。〟
再度、試してみたが、エドの心は固く、固くガードされていて、セインですらその扉を押すことすら出来なかった。
もう一度固く彼の身体を抱きしめた。痛みで声を上げそうになるが、それでも腕に力を込めた。
こんなことしか出来ない。エドは何かに苦しめられている。多分それはずいぶん前から。それについ最近まで俺は気がつくことが出来なかった。自分のことしか考えが及ばなかった。今まで。陰日向になり支えていてくれた年端も変わらぬ義理の父のことを、今まで真剣に考えもしなかった。特殊な力を持つ自分のことを自己憐憫しつつも、どこか特別な存在だと自負する面があった。周りの人のことを考える余裕もなく過ごしてきたナルシストな自分をセインは恥じた。
気づかせてくれたのはミルフィーユだった。ミルフィーユを好きになった。自分以外の人間を愛することによって、初めて周りの人たちのことが見えてきた。
今はいない。もう会うこともないかもしれない。だけど、ミルフィーユを愛した気持ちは今も消えずに小さな炎となって燃え続けている。エドが彼の母親を今も思うように。




