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福寿草

 それから数日後。

 セインがエドの店にやってきた。手には数種類のファイル。そして小さな鉢植え。 

「エド、土産。」

 勢いよく店のドアを開け、大股でカウンターまでやってくると、無造作にその小さな鉢植えをカウンターに置く。

「何だ、これ?」

 カウンターの中で、コーヒーの豆を轢いていたエドが、眼鏡のフレームに手をやり、その物体を注意深く覗き込む。

 小さな黄色い花がいくつか、ついていた。

「福寿草だよ。」

「福寿草。」

 オウム返しにエドが応えると、さっき授業でデッサンに使ったんだ。良かったら、店に飾ってよとセインが応える。

「へえ、お前が店に花を持ってくるなんて珍しいなあ。」

 いつもの軽い調子で、からかうようにそう言うと、

「まだまだ寒いけど、もう咲き始める花もある。この福寿草は、元日草がんじつそう朔日草ついたちそうの別名を持ち、春を告げる花なんだ。」

 セインは、どこかさばさばした調子で話し始めた。いつになく口数も多いような感じだ。何か吹っ切れたのか。だけど、無理に明るく振舞っているような感じも否めない。

 今日のエドは、先日のような暗さやも翳りを、微塵も感じさせない。そこにいるのはいつもの彼だ。明るくて、軽い調子で人と話し、その場を和ませる。ふたりとも、先日の市場の帰り、ここで話したこと、ここであったことに何も触れることなく、いつもと同じように振舞っていた。

「で、何。そのファイル。」

 エドが問うと、〝ああ、これ。〟手にしたファイルを広げながら、セインは目で彼にリクエストする。

〝カプチーノ。〟

 言わずとも多少のことは意志の疎通が働くふたりである。エドは頷き、温めるためデミタスを湯の中につけ、極細轢きした粉をエスプレッソメーカーのバスケットに入れる。

 カプチーノを入れている間、セインは真剣な顔でファイルに目を通し、何枚かの書類に必要事項を書き込んでいる。時折、髪の毛がうっとうしいのか片手で束ねるような格好で、肘を突き、黙々とペンを走らせる。

「おい、書類汚すなよ。大事な書類なんだろう。」

 少し離れた位置にカプチーノのカップを置くと、エドは声をかけた。

「うん。」

 顔を上げたセインに、

「で、何それ」

 もう一度聞くと、

「そうそう、エドに報告しとこうと思って、持ってきたんだ。」

 そう言って、手にした書類をカウンターの向こうへ手渡す。

(へえ、珍しい。秘密主義が。俺に報告だって。)

 エドは面食らいながらも、その書類に目を通す。

 それは、来月に行われるミカエル展の審査書類だった。

「へえ、ミナにしたんだ。」

 文字を目で追っていたエドが弾かれたように顔を上げた。

 セインは満足そうに頷く。

「画の力量はどちらも甲乙つけがたい。だけど、ミナの方が完成度は高い。ロンはまだこれからどんな方向へ行くのか未知数だ。彼自身も、画を描くことは趣味の範疇でしかないという考えだ。たぶんね。だけど、ミナには画家としてやっていきたいというはっきりとした意思もある。道筋をつけてあげるのは師として当然の責任だからね。」

「へえ、師だって。」

 からかうと、セインは気を悪くしたようで眉根を寄せた。

「悪い、悪い。」

 黙って口角を下げたまま、エスプレッソのカップに口を付ける。

「まあ、いいけどね。」

「ミカエル展は来月に入ったらすぐだ。早速書類を審査会に出して、出展する準備だ。レセプションに式典のリハーサル。忙しいぞ。」

 珍しく感情を高揚させて張り切っている様子のセインに、エドは水を指す。

「・・・こないだの・・もういいのか。」

 何のことがすぐに察したセインが、

「いいんだ。くよくよしていても仕方ないし。やらないといけないことがいっぱいあるからね。」

 お前、変わったなあ。何かあると、布団引っかぶって、いつまでもくよくよしていた後ろ向きなやつだったのに。

 彼がティーンエイジャーだった頃の出来事を2,3思い出したように持ち出すと、セインはまた眉根を寄せ、彼を睨みつけた。

「もう25だぜ。俺。」

 そこへ、思い切りよくドアを開け、ミナが飛び込んできた。

「先生!」

「やあ、ミナ。」

「父から伝言聞きました。本当に私ですか。」

「ああ。」

 先ほど彼女の家に行ったら、ミナは留守だった。彼女の作品をミカエル展に出展することを在宅していた彼女の父に伝え置いて、この店にやってきたのだ。

 喜びに興奮して上気した頬が赤々と燃えていた。瞳が潤んだように輝き、口元には笑みが浮かんでいた。その様子はまるで満開に咲いた大輪の花のように華やかで眩しいくらいだった。

 グレーのファーがついたコートを着たままで、小走りにセインに近づいたミナが、間髪いれず抱きついた。セインは電流に貫かれたように身体を硬直させ、半ば椅子から転げ落ちるような格好になった。それでも、ミナは離れようとしない。

「ありがとう、先生!」

 両の腕で思い切り抱きしめられたセインが、痛みに耐えて、辛うじて笑顔を繕った。

「ミナ。いままでよく頑張ったね。」

 体制を整え、ミナの肩に手をおき、苦笑いのままカウンターの方へ振り返ると、気の毒にと言わんばかりに眉尻を下げたエドが笑いを堪えている。

 興奮冷めやらぬミナの様子に、セインも嬉しそうだ。

 苦笑いを浮かべながらも、今後の予定などをミナに話し始めた脇で、エドはカウンターに置かれたままの書類を取り上げ、何の気なしに眺める。

 審査書類の他に何枚かの式典に関する書類が混じっていた。

 その一枚を手に取り、眺めているエドの顔に緊迫した表情が浮かんだ。


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