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少女

「ミスター。」

 笑顔を向けられて咄嗟に言葉が出ず、セインは頷いた。ミルフィーユだった。

薄いつばの白い帽子を取ると、溢れんばかりに豊かな金髪が流れるように肩に落ちた。それを見て光のようだとセインは思った。だが、次の瞬間、エドの店で会ったことは覚えているが、何故彼女がここに来たのか。どうして自分のアトリエを知っているのか不思議に思った。それを察知するように、ミルフィーユが言葉を続けた。

「マスターに頼まれて。」

 手にしたカゴから包みを取り出し、セインに向けた。

「何。これ。」

 エドからの荷物だということはわかった。この場所もエドに聞いたのだろうということも。

「ラタトゥイユ。」

 蓋を取るとトマトとオリーブのいい匂いがした。

「ああ、好物なんだ。」

 時々、エドが作ってくれる。子供の頃からの好物だ。

「仲いいんですね。」

 ミルフィーユが少し不思議そうな顔をしながら聞いた。店の店主と客の間柄で好物だからと差し入れをするなんて、ずいぶん仲が良いのだと彼女は不思議に思った。

「古いつきあいでね。」

 エドとの間柄を説明するのも面倒くさい気がして、セインは素っ気無く彼女から視線をはずした。

「そうなんですか。」

 ミルフィーユは腑に落ちないような表情を浮かべたが、もう興味はセインのアトリエの内に向けられていた。

「ここで生徒さんに教えているんですか。」

「そう。」

 ミルフィーユはイーグルの間を歩き回り、デッサンに使った果物籠の林檎を手にしたりしながら興味深げに教室を見回した。そして、隣のセインの製作室に気づくと薄く開いたドアから中を覗こうと身体を傾けた。

「ちょっと。」

 セインは慌ててミルフィーユの肩を抑えた。

「え。」

「こっちは覗かないで。俺が画を描いているスペースだから。」

 セインは完成するまで自分の描いているものを他人に見られるのが嫌いだった。何故かはわからないし、アーティストはみなそうなのかもしれないし、そうではないかもしれない。そんなこと頓着しないものなのかもしれないけど、描いているものを途中で見られるのは、他人に土足で部屋に上がりこまれるようなデリカシーのない行為のような気がした。

「ごめんなさい。」

 慌ててミルフィーユは謝った。

「いや。」

 大きな緑色の瞳をさらに大きくして見つめられ、セインは慌てて床に視線を落とした。心臓が大きな音を立てている。何なんだろう。この落ち着かない気持ち悪さは。彼は突っ立ったまま、尻から背中にかけて這い上がってくる虫の感触の如くむずむずとした何ともいえない気持ちを分析しようとしていた。

「ミスター。」

 その様子をいぶかしげに思い、ミルフィーユは再度声をかけた。

「そのミスターっていうのもやめてくれないか。セインでいい。」

〝ごめんなさい。〟また小さく謝って彼女は下を向いた。

 自分が小さな子供を苛めているようで居心地の悪さを感じ、セインは彼女に椅子を勧めた。

「エドの店か。勤務中?少しくらいならいいだろう。お茶でも飲んでいけば。」

 一気にまくし立てた。頷いた彼女を見て、ほっとしたセインはアトリエの隅にあるミニキッチンでお湯を沸かし始めた。


 晩秋の陽は短い。窓から差す陽が長く壁に影を落としている。コンロにかけられたポットから出る白い湯気が壁の影に重なるように模様を作っていた。コーヒーをいれ彼女にカップを手渡し、向き合って椅子に座るととりたてて話すこともなく、セインはますます居心地の悪さを感じ、お茶に誘ったことを早くも後悔しはじめていた。ミルフィーユは取り立てて何も感じないようで、カップのぬくもりを楽しむようにゆっくりとコーヒーを口に含んだ。その様子を見て、セインは少し心の中の扉を開いてみた。やはり、そこにあるのは真っ白な光の空間だった。

 この子は何も感じていないのか。

 そうも思ったが、あちこちに動かす視線や、瞬きをする様子などを見て、感情が動いていないとも考えにくかった。

 いくつくらいなんだろう。エドには未成年だろうって言ったけど。

 幼く見える白い頬を見ながらセインは思った。年を聞こうと口を開きかけたその時、ミルフィーユが急に口を開いた。

「クラッシックは弾かない方がいいのかしら。」

 何のことを言っているのか咄嗟にはわからなかったが、この間のピアノのことを言っているのだとすぐに理解した。

「エドが硬いって?」

「マスターは流行歌みたいなものやムード音楽みたいなものがいいからって。」

 だろうね。エドにはクラッシックなんて無縁だからな。

 少し考えてから、セインは口を開いた。

「別に。あの曲。嫌いじゃない。激しい旋律とその後にくる穏やかな優しい旋律。相反するものがあんなにバランスよく調和している曲はないよ。」

言ってからふと人の心に似ているとセインは思った。

「そうだな。人の心に似ている。」

 口の端に乗せてから、何がだろうと少し考えてみた。セインの次の台詞をミルフィーユが興味深げに待ち受けた。

「混沌としている。相反する要素が入り混じって動いている。だけど混沌としているからこそのバランスと素晴らしい調和。人の心の動きに似ている。」

 それを聞いて、ミルフィーユが笑顔を見せた。

「素晴らしいわ。ミスター。捉え方がやはり芸術家ね。」

「そうかな。」

「で、結論としては、お店では弾かない方がいい?」

 腕くみをしてセインは考えてみた。

「さあ、どうだろう。エド的にはあまり好きじゃないみたいだから、オーナーの意思を尊重するなら弾かない方がいいのかもしれないけど、客の中にはクラッシクが好きな客もいる。リクエストがあれば弾けばいいんじゃない。」

「君はクラッシックが好きなの?」

「違うの。」

 照れくさそうに足の先に目を落としながら、

「それしか弾けないのよ。」


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