姿を消した天使
パーマネントホワイト、ジンク、シルバー、何色かの絵の具をパレットの上に広げては混ぜ、ふき取り、もう一度混ぜ、同じことを何度もセインは繰り返していた。
白色。
真新しいキャンバス。洗い立ての風に揺れるシーツ。グラスに入れた冷えたミルク。夕暮れの散歩道に咲いた芙蓉。朝露にぬれたバラ。エドの店に飾ってある象牙の置物。朝の空に浮かぶ月。
頭の中にいろんな白色が渦のように浮かんでは消える。
あの時のミルフィーユの白い色。薄いつばの帽子。白い帽子。少しピンクがさした白い頬。
初めてこのアトリエにミルフィーユがやってきた日のことを思い出しながら、セインはキャンバスに向かう。だが、あの時見たミルフィーユの白い色。実際にキャンバスにのせてみようと色を作るが、うまくいかない。
目の前にはキャンバスには、心持こちらに背を受ける金髪の少女。白いつばの帽子を脱ごうと帽子の淵に手をかけている。横顔にははにかんだような軽い笑みが口元に浮かんでいる。
セインは絵筆を置き、諦めたように脱力してソファに身を投げた。
ああ、うまくいかない。
彼はイラつき、銀の長い髪をくしゃくしゃと無造作に掻き毟った。
何故、来ない。何故、姿を消した。
同じ問いかけを何度も繰り返す。
あの夜以来、ミルフィーユに会っていない。彼女はセインに何も告げず、エドガーには店を少し休ませて欲しいとだけ告げ、姿を消した。
アパートにも行ってみた。家主だろう無愛想な中年の女性が姿を見せ、あの子ならもういないよ。急に引き払って出て行ってね。と、気だるそうに教えてくれた。
兄を捜すといっていた。ドイツに行くとも。もう行ってしまったのだろうか。よく考えてみれば、実家の連絡先も知らないし、ミルフィーユの交友関係も知らない。知らないことだらけだ。連絡を取ろうにも取り様子もない。
いや、もう俺とは会いたくないということか。
「ひらたくいうと、振られたってことか。」
誰に言うともなく、セインはソファに伸びたまま、吐き捨てた。腹立たしかった。
何かしら言ってくれればいいのに。
天井を見上げたまま、あれこれと思いを巡らせる。
あの日のこと。初めてまともに言葉を交わした。
白い帽子の彼女。興味深げにアトリエを覗き、デッサンに使った林檎を手に取る。あの細い指。カップを手にし、俺に店で弾く曲のことをどう思うか聞いてきた。あの時の真剣そうな顔。見ていないようで、結構細かいところまで覚えている。あの時の彼女の表情、言った言葉。笑ったときの鈴の鳴るような声色。
自分はこんなに彼女に惹かれていたのかと、セインは驚き、そして絶望的な気持ちになった。
人を好きだと思った。それを認めた。だけど、次の瞬間に我にかえったときもう自分はひとりだった。
ため息をついて、ソファから起き上がり、コーヒーを入れにミニキッチンに立った。いつもならカップは片付け、コンロ周りも綺麗に掃除してあるのに、汚れ放題で、シンクには使ったままのカップや皿が、洗われないまま濁った水に浸かっている。
もう一度ため息をついて、仕方なしに汚れたカップを申し訳程度に濯ぎ、それにドリップをセットする。赤いケトルから沸いた湯を注ぎながら、気持を落ち着かせるように注ぐ湯が作る茶色の渦を眺め、香ばしい匂いを胸に吸い込む。




