ふたりの時間
彼女は目を閉じている。
ベッドに横向けにふわりと身体を預けている。
セインの目に、使い込んで所々色が擦り切れているベッドカバーのブルーの色が目に飛び込んでくる。
〝セルリアン。〟
〝15番だったけ。買い足しておかないとストックが。〟
ふと、アトリエにあった絵の具の在庫を思い出した。
そして、又ミルフィーユを見る。ビリジアンのドレスの襟が呼吸に合わせて微かに揺れている。
ミルフィーユが部屋に入ってきたときに、散らかっているベッドの上を見られないように咄嗟にカバーをかけた。その上に彼女は体を横たえている。が、その下には洗っていないシャツや整理されていない書類などが無造作に突っ込まれている。
〝やはりたまには部屋を片付けないとなあ。〟
〝こんなときに何を考えているんだろう。俺。〟
セインは仰向けに横たわっているミルフィーユの顔を真上から覗き込みながら、このシチュエーションとは全く関係のない事柄に思いを馳せていた。
実は怖かった。
ミルフィーユは飲みすぎたのか白い頬をばら色に染めて、セインに身を委ねている。
落ち着いてリラックスしているようにも見えるが、かなりの至近距離に顔を近づけると、長い睫毛が微かに揺れているのがわかった。
ミルフィーユに触れてもいいだろうか。
セインはこの場に及んで尻込みをしていた。
部屋に誘ったのは自分だ。酔いに任せて。もっと彼女と話がしたかった。パーティではいろんな邪魔が入り、結局ふたりきりになれなかった。
話。いや、もっとそれ以上。
セインに抱かれたがる女の子はいっぱいいた。彼もその状況を甘んじて受けていた。今までは。
彼も男だから、身体が欲求することは自然の理だと納得している。だけど、今まで本気で好きになって抱いた女の子はいなかった。
心底、身体の芯の部分から欲して、触れてみたい、抱いてみたいと思った女の子に触れることがこんなに怖くて緊張することだと彼は思わなかった。
なので、いざこのチャンスに来て急に迷いだした。
それともうひとつ。
ブロックしないと人の心が、感情が入り込んでくる。彼には厄介この上ない特殊能力。それは身体に触れればなおさら倍増する。だけど若い男が女を抱きたいという欲求を抑えることは至難の技である。
だからどうしても欲求が理性を超えたときしか、セインはことに及ばない。それも何とか意識を他の事に飛ばしながら、ベッドの中で相手の子が抱く本能や、その身を委ねる官能の欲に巻き込まれないように注意しながら、ことを終えていた。
考えてみれば、勝手この上ない。
セインもわかっていた。
相手の人格やその子に対する自分の気持ちなど真剣に範疇に入れてなんかいなかったのだ。
今、ミルフィーユを目前にして、今までの自分の女の子に対する勝手な行いや振る舞い、相手の気持ちを無視した付き合い方を反省していた。
それはすべて自分のこの忌まわしい能力に対する自己憐憫と、向き合おうとする勇気のなさだった。
軽く頬に触れてみる。
やはり痛みは感じない。ぴりりともしない。
代わりにミルフィーユがぴくりと頬を動かした。
そして、ゆっくりと目を開け、
「セイン。」
尋ねるようにその目を見上げた。
明るい五月の新緑を思わせる澄んだグリーンの瞳を見ていたら、セインの目に自分の意思とは関係なく涙が滲んできた。
びっくりして彼女は、
「大丈夫?どうしたの。」
身を起こして、セインの身体を引き寄せる。
暖かいミルフィーユの胸に抱かれ、その金色の輝く髪に顔を埋めると、又涙がでてきた。
「ごめん。」
「いいのよ。」
じっとしていると、微かに時計が時を刻む音が耳に響いてきた。
まだ窓の外は細かい雪が降っている。明日の朝にはさらさらのパウダースノウが街を包んでいるだろう。
ストーブの上で、ケトルがお湯を沸かしていた。しんしんとお湯が沸騰する音と、時計の微かな音。そして、ゆっくりと鼓動する彼女の心音。
穏やかな気持ちだった。
他人といてこんなに心が安らぐ時が今まであっただろうか。
セインは思った。
母さんってこんな感じなんだろうか。
この感覚。この心地よさ。遠い昔。感じたことがあるような気がする。あれが母さんだったんだろうか。母さんに抱いてもらった時、こんな感じだったんだろうか。
物心つく前に亡くなった母の記憶などない。母に抱いてもらった記憶もない。
だから、想像するしかなかったが、たぶん母といる時間はこんなふうに流れていくのだろう。




