エドの店
〝こいつさ、俺の金でよく飲むよな。〟
〝このピザ、端が固いわ。〟
〝今夜この後どうしようか。俺の部屋へでも・・・〟
〝あら、あのコート、私のものと色違いだわ。〟
ドアを開けた途端、急などしゃぶりの中に放り出されたように、雨礫がセインの身体を打った。人々の感情が痛みを伴う雨だ。
「痛っ。」
思わず声になる。
セインは、その場に立ち止まり深く深呼吸をする。ゆっくりと心の扉を閉める。人々の感情をそっと自己のテリトリーの外へ押し戻す。目を閉じ、頭の中でイメージを操る。
徐々に身体を打つ痛みが引いていく。周りが静かになる。
その間、僅か数秒のことだが、セインにとってはこの不意に受けた痛みの感触がいつまでも治らない傷のように身体の隅に溜まっていくようで、実に嫌な気分である。
目をゆっくりと開けると、人々のざわめきと共に店内にかかる静かな音楽の調べが心地よく身体を包んでいく。
「大丈夫か。セイン。」
店の奥に位置するカウンターから、男が声を掛ける。麻の上質なシャツを着、短髪に銀の薄いフレームの眼鏡をかけている。
「大丈夫だ。エド。」
エドと呼ばれた男は、口の端を上げて微かに微笑み、セインを手招きする。
店内に点在する丸テーブルの脇を縫ってカウンターにたどり着いたセインは、やれやれといったふうに肩をすくめ、スツールに腰を掛けた。
「うっかりしたよ。」
頭をかいた彼の指の間から銀色の髪がさらさらと音を立てるように肩に落ちた。
「ブロックし忘れ?」
「ああ、ちょっと考え事していて。」
「気をつけろよ。」
「ああ、それよりエド。ピザの端が固いってさ。」
セインは、右奥の窓際の席に座する中年女性のテーブルに視線を泳がせる。皿の上にマルガリータのピザがふた切れ残っていた。
「や、ちょっと焼きすぎたかなって心配はしていたんだ。」
エドは鼻をかいてばつの悪そうな顔をした。
「駄目だよ。ちゃんとしたもの出さないと。」
「そうだな。それよりお前そろそろ髪の毛、切ったら。」
ミスを指摘されたエドは、話の矛先を変える。
「髪の毛、切るの嫌いなんだ。知ってるくせに。」
セインは嫌そうに鼻に皺を寄せた。
確かに彼の髪の毛は伸びすぎている。それを無造作に束ねているからエドには余計に気になるようだ。セインにおせっかいをやくエド。年は30代後半。セインは20代そこそこ。見ようによっては兄弟にも見える。
切れ長の細い目に、腰まで伸びた銀髪。通った鼻筋、180センチは越す長身。セインはときおりすれ違う人が振り返るほどの美形だが、どことなく人を寄せつけない雰囲気があった。
実際、彼は人と交流することがあまり好きではない。ここの店主であるエドガーは別で、時折店に訪れて談笑するが、それ以外ではこういった人が集まる場所には、特別に用事がない限り訪れない。人が集まる場所に来ることは極めてセインの不得意とすることなのだ。
「で、何考えごとしてたんだ。」
エドが尋ねると、
「あ、今度のミカエル展、ひと枠出せるんだ。ミナとロンのどちらを出すか、迷っているんだ。」
「ああ、あれか。画家の登竜門だな。ふたりとも優秀だからな。」
ミカエル展は、年に一度国が主催する美術の祭典であり、国内外から美術関係の重鎮が多数訪れ審査をする。それには絵画、彫刻、陶芸などいろんな分野から作品が出品され、重鎮たちの目に留まれば、その世界での出世は約束されたのも同然である。
昔からずばぬけて絵画の才能があったセインは、飛び石で美大を優秀な成績で卒業した後は、師も得ることもなく、ひとりアトリエを開き、何人かの生徒を教えている。その生徒の誰もが優秀で、中でもミナとロンのふたりは、彼がアトリエを開いてからずっと在籍している生徒で、いくつかの賞を取り、実力も申し分がない。
「すごく迷うよ。本当だったらふたりとも推薦したいくらいなんだからな。」
「大変だな。」
「でも、どちらかに決めないと。」
セインは、ため息をついた後、グラスを持ち上げる仕草をした。
それに応えて、エドガーはグラスに氷を入れ、ジンにレモンをいれたものをセインに手渡した。
〝ロックだったな。が、胃に悪いぞ。強い酒は。〟
「わかったよ。エド。水で割って。」
それに応えるかのように、エドガーは少し驚いて肩を揺らし、
「ああ、その方が胃によい。」
と、セインから目を逸らした。
〝エドでさえ、こうなんだから。〟
セインは心の中でため息をついた。急に憂鬱な気分が襲ってくる。
エドガーが少し動揺していることに気がついてしまったからだ。
そう、今エドガーは声に出していない。自分が思ったことを。それがまるで聞こえたかのように、自然にセインが返事をしている。
それが、セインの特殊な能力。人の心を読む。いや、思っていることが普通に聞こえてしまうのだ。いつも扉は閉めてある。セインが自分でその扉を開けるか、気を緩めているとき、ふいに扉が開いてしまうことがある。エドガーの前で、リラックスするとその扉が開いてしまうのだ。気をつけているつもりでも、時折きちんと閉めていない扉が風で開いてしまうように開いてしまうのだ。
心を読まれたと悟ったエドガーは急に落ち着きをなくしていた。でも、エドガーはセインを幼少の頃から知っているのだ。もちろんその特殊な能力も知らぬわけではない。わかっているつもりでも、実際目のあたりにしてしまうと少なからず動揺してしまう。エドガーは動揺した自分に嫌悪感を抱いている。
セインを特別だと意識してしまうたびに。彼のことをすべて受け入れて生きてきたのに。今でも共に生きているのに。
「ところでさ、新しいピアノの人入ったの?」
ぎこちない空気を払拭するように、セインは明るい声を出した。
それに応えて、
「ああ、臨時なんだけど。とても可愛い子が来てくれることになったんだ。」
エドガーが声を弾ませた。
「問題はピアノの腕だろ。」
セインが突っ込むと、
「まあそりゃそうだ。でも、腕もいい。」
エドガーが得意そうに胸を張った。
店の奥にピアノがある。昼はカフェ、夜はお酒も楽しめるこの店は、たまにピアノの演奏が入る。エドガーはこのあいだ辞めてしまった奏者の代わりを探していたのだ。
「よろしくお願いします。」
声がした。鈴を揺らしたときの音色のように可愛らしい声だ。
セインが振り向くと、後ろに目を見張るほどの美しい金髪をした少女が立っていた。年のころは、17か18。小柄で透き通るような白い肌に、丸くて大きな緑色の瞳。
さすがエド。あのロリコンめ。
彼は心の中で苦笑した。
ベビーフェイス。金髪。砂糖菓子のような甘い声。エドの好みに直球ストライクだ。
「やあ、ミルフィーユ。今日は客の入りもいいからね。よろしく頼むよ。」
珍しくうきうきと弾んだ声でエドガーは彼女に笑いかけた。
ミルフィーユと呼ばれた少女は、エドガーに頭を下げると、真向かいに座っているセインに視線を向けた。それに気がついて、エドガーが、
「彼はセイン・ガーランド。カリタの通りでアトリエを開いて、絵を教えてる。」
セインは彼女に向かって軽く会釈をする。
「凄いですね。絵の先生ですか。芸術家なんですね。」
興奮したように頬を上気させ、ミルフィーユはセインに笑いかけた。感情をストレートに表現できる素直さを感じさせた。
〝何だか。俺とは正反対かも。〟
それがセインのミルフィーユに対する第一印象だった。
「ミルフィーユ・バランです。ミルと呼んでください。」
ミルフィーユはそう言うと軽く会釈をし、白いワンピースの裾を翻しピアノの方へ向かった。
彼女がしなやかに泳ぐ魚のように、テーブルの脇を通り過ぎると、客の誰もが良い香りを嗅いだ時のような優しげな眼差しを浮かべ、彼女の姿をちらりと見やる。軽やかな動きは妖精を連想させた。その清らかな雰囲気はどこか別の世界の住人のようにも思える。
〝手垢なんてどこにもついていないって感じだな。〟
うっとりとした表情の客たち、目尻を下げて見守るエドガー、その場に居合わせた人の群れの中でセインだけが冷ややかな面持ちでミルフィーユを見ていた。
何故だろう。自分と正反対の明るく清らかな雰囲気を持つ彼女。疎ましいという思いか。自分と正反対の気質に対する嫌悪感か、それとも羨ましいという嫉妬か。
彼女が客たちに向かって軽く会釈をし、椅子に座る。白い長い指でピアノのキーを少し叩いてから座りなおし、又こちらに向かって笑みを浮かべる。エドガーが頷くと、彼女がキーに指を滑らせた。
のっけから高まる鼓動のようにスピードに乗った激しい旋律に、周りの客たちがはっとしたようにピアノの方向へ首を回した。
セインも弾かれたようにミルフィーユの姿を見た。
〝あ、幻想夜曲か。ショパンだ。〟
甘ったるい砂糖菓子のような顔してこんな曲を弾くんだ。意外に思ってピアノに向か彼女の顔をじっと見る。
激しい旋律と穏やかで優しい旋律の完璧なバランス。美しい曲だ。
粉々に砕け散るガラスの破片にあたる光。研ぎ済ませされた鋭い刃物の先にあたって反射する光。冷たさと清らかさと、うっかり掴んでしまえば掌の中で脆く崩れ去る繊細な何かをミルフィーユの中にセインは感じた。
何かに身も心も奪われ集中している時、人の心の中は空洞だ。邪念にとらわれることのないクリアでエネルギーが一番高まるその瞬間の繋ぎ合わせ。セインはミルフィーユのピアノに向かう横顔を眺め、意識してその心の内に入り込んでみる。
彼が進んで自らの意識を人の内に入り込もうとすることはめったにない。意識せずとも入り込んでくる人の心内にある感情は、彼にとっては疎ましく、神経を苛立たせ、へとへとに自らの心を消耗させること以外何者でもないのだ。
なのに珍しく〝読んでみたい〟と思ったのだ。
白くて柔らかくて甘ったるい砂糖菓子のような少女。不釣合いな選曲。鬼神のように激しく狂おしく鍵盤に指を走らせる彼女に、衝動的に興味をかき立てられた。
意識をミルフィーユに向け、ゆっくりと扉を開く。光が差し込んでくるように、街のざわめきが遠くからゆっくりと鼓膜に届くように、彼女の内にある感情がセインの元に届く。すぐそこまで来ている彼女の心の声にゆっくりと手を延ばし、柔らかい膜を越えてセインは触れようとする。が、届かない。
いや、ない。
そこは真っ白な空間だった。一杯の光が差して、何も見えなくなるあの真っ白な空間。
セインはそこで目を開けた。視界にミルフィーユが移る。肩にかかる金髪が演奏をする腕の動きに合わせて揺れていた。
〝読めない。〟
セインは驚いた。この子の心が読めない。
いや、待てよ。ひょっとして俺のこの忌まわしい力が、今ふっと消えてなくなったのでは。
セインは疑い、店の中にいる客たちに向かって意識をあわせてみた。扉をすかしてみると、ざわざわと人々の感情が虫のようにセインの足元を這い上がってきた。慌てて、セインは扉を閉める。
違う。この力がなくなったのではない。ミルフィーユに、この子だけに通用しないのだ。
こんなことは初めてだった。というより進んで心を読んでみようと思ったのが初めてだった。こちらが読みたいと思う人物に対してはこの力は無効なのか。セインにとってそれは新鮮な驚きだった。と同時に読めないことに関して、肩の力が抜けたように気が楽になった。
「何。びっくりしてるんだ。」
セインは驚きと安堵の入り混じった変な顔をしていた。呆けたように少し口を開いて、それでいて鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしてミルフィーユを穴が開くほどじっと見つめていたからだ。エドガーがかけた声にも気がつかない様子だった。
エドガーにはセインがミルフィーユに興味を感じていることが手に取るようにわかっていた。
〝珍しく、恋かな?これは。〟
口には出さずエドガーはにやりと笑った。
演奏を終えたミルフィーユにエドガーが手招きをした。
拍手に会釈した彼女が席を降りて、カウンターへやってくると、エドガーが
「よかったよ。ミル。」
「ありがとうございます。」
「で、クラシックも良いんだが、もうちょっと砕けたのも出来るかな。」
交渉を始めた。
まあ、確かにクラシックも良いが、この店にはちょっと不釣合いだ。もう少し柔らかいシャンソンとかジャズっぽいのとか、流行歌もいいか。
二人のやり取りを眺めて、セインは思った。前の弾き手は、客のリクエストに応えていろんな曲をやっていたからな。
「ちょっと、アンナ。」
客の間でオーダーを取っていたアルバイトのアンナにエドガーが声を掛けた。
トレイをもってこちらまでやってきたアンナに、
「ねえ、今、流行ってる歌とかってあるかな。」
「流行っている歌ですか?」
「ああ。」
やり取りを聞いて、ミルフィーユが会話に参入した。
「あの、教えてください。歌ってくだされば譜をとりますから。」
「譜?」
真っ赤な巻き毛を揺らしてアンナが首を傾けると、
「あのすみません。楽譜です。」
ああ、といった感じでアンナが頷くと、
「そりゃいい。じゃあふたりとも頼むよ。」
エドガーがそういい、アンナとミルフィーユがふたりで店の奥のスペースへ消えると、待ち構えていたようにエドガーが、
「どうだ。セイン。」
「どうだって、何。エド。」
「いやあ、いい子だろう。ミル。」
エドガーの目尻の下がった顔に、セインは首をすくめ、
「エドのロリコン趣味にも呆れるよ。未成年だろ。あの子。手を出すなよ。」
エドガーは憤慨したように、
「俺は、ロリコンじゃない。お前にだ。」
「俺はいいよ。」
セインは目を伏せた。今までに付き合った女の子がいないこともない。何せこのルックスだ。ほっておいても彼には女性が寄ってくる。だけど、どの子とも長続きしない。それもすべて自分のこの忌まわしい力によるものだとセインは諦めていた。だからミルフィーユを見て、興味を惹かれたのは事実だが、あえてそこに目を向けようとはしなかった。
店の奥から澄んだアンナのソプラノと、楽しげなふたりの会話が聞こえてきた。




