9.ミルランダの花
シュリアは暗澹たる思いでレンタルスペースの台を見つめていた。ホーリーも気不味そうに視線を合わせない。
今日もだ。
なくなっているのはサンプルのみ。何1つ売れていなかった。
あの完売していた日々が遠い過去の様に感じる。あれはビギナーズラックだったのだろうか。毎日通ってもほぼ売れていて、置く本数も倍に増やした。それでも多くが売れていた。
そんな日々は泡となって消えた。今は隔日で来ても、売れていないか、売れていたとしても上級回復薬1本のみが常だ。
シュリアは奥歯を噛み締め、手をぎゅっと握った。
目の前が、先が、心が暗くなる。
泣くな。泣くな。喉に込み上げてきたものを必死に飲み込んだ。
サンプルを補充して、廃棄する薬を新しいものと交換する。その作業が酷く惨めだった。
シュリアは家には寄らず、そのまま庭を抜けて湖に来た。地面に座ってぼんやりと湖を眺める。どこからでも全体が見渡せる、大きな池と言ってもおかしくない程の大きさだ。昔父にここは池ではないのかと聞いたことを思い出した。池と湖の明確な定義はないらしく、ずっと昔からここは湖と呼ばれていたそうだ。水深が深いらしく、何度もここで泳ぐのは禁止だと言われたなと、どうでもいいことを思い出しながら、シュリアは膝を抱えて頭を乗せた。
「ワウ」
「ジルさん?」
そっと顔を上げると、群青色の瞳と目が合った。引き締まった身体に濃紺色の艷やかな毛並みを纏う大きな魔犬。心配そうに見つめる瞳に、笑顔を作って見せた。
「オリーブなら家の屋根でお昼寝してるよ」
ジルは首を横に振ると、シュリアのすぐ隣に身体を伏せた。傍にいてくれるらしい。
作った笑顔が崩れそうになる。1人になりたかったはずなのに、人肌が恋しくなった。
「ジルさん、今だけ撫でちゃ駄目かな」
上手く笑えたかは分からない。群青色の瞳は暫くこちらを見つめていたが、そっと目を閉じた。シュリアはそれが許可の様に思えて、ゆっくりとその背中に手を伸ばし、優しく撫でた。
温かい。
濃紺色の毛は硬く太いのに滑らかだ。撫でる手は止めず、シュリアは湖を見た。
鏡の様な凪いだ湖。シュリアの心もこうなればいいのにと思う。ここはいつも穏やかで、風で水面が揺れることはあってもすぐに治まる。シュリアは幼い頃から、落ち込む度にここに来ては同じことを考える。
「最近薬が売れないの」
暫くの沈黙の後、ぽつりと零す声にジルは目だけを動かしシュリアを見た。シュリアの瞳は湖を見つめたままだ。目を瞑れば、マイナスな考えばかりが浮かんでしまう。
「薬作りには自信があったのに。売れる自信も少しはあったのに」
今はなくなった、とは声にも出せなかった。
ジルは何も言わず、ただ黙ってされるがままに耳を傾けている。シュリアはそれがとてもありがたかった。
「お父さんもお母さんも、私の作る薬が一番だっていつも言ってくれてた。学校でも誰より美味しくて効果が高いって言ってもらえた。だから、自信あったのに」
心がぎゅっと掴まれたように痛くなって、苦しさが喉の奥から込み上がってくる。じんわりと目元に熱が集まってくる。
泣きたくないのに。泣いたところで何も変わらないと分かっているのに。
無理矢理息を吸い込んで、泣かないように必死に耐えた。泣いたらきっと止まらなくなる。
治療薬を作るのが好きだった。父も祖父も腕の良い薬師で、幼い頃から偏りまくった英才教育を受けたシュリアも、同じ様に薬師を志した。それぞれ専門分野は違っていたが、治療薬に関しては2人にも負けなかった。
シュリアは植物の持っている力の量が分かる。「この薬草を使うならならこの葉が一番効果が高い」というのが一目見れば分かるのだ。
だから、過信していたのかもしれない。
「向いてないのかなぁ…」
消えてなくなりそうな程小さく零した言葉は、自分の心を抉っただけだった。無意識に唇を噛む。
この道を進んでいいのか、王宮研究所の就職に落ちた時にも一度、頭の片隅に浮かべて蓋をしたのだ。その時にもっと真剣に考えておくべきだったのかもしれない。
いつの間にか止まっていた手が引かれた。ジルが袖を噛んで引っ張っている。困惑しながらも立ち上がり、引っ張られるがままについていく。家とは逆の、森の奥の方へと向かっている様だ。
人間の愚痴なんて、飽きたのだろうか。そもそも人間が魔獣に相談したり愚痴を漏らしたりすること自体変なのかもしれない。もしかしたらオリーブだって、いつも聞かされて呆れていた可能性だってある。ネガティブなことばかり次々浮かんできて俯いてしまう。
ふいにジルが立ち止まり、綺麗な瞳がこちらを覗き込んできた。そしてすぐに前に視線が移ったのに釣られて先を追う。
「わ…」
少し薄暗い森の中で、数本固まって咲いている小さな黄色い花。本でしか見たことがない、この花は…
「ミルランダ…ひいおばあちゃんの花…」
ジルが首を傾げたのが視界の端に映った。ジルに並ぶ様に膝をついて花を見つめる。1本にいくつも小さい花を咲かせ、細い茎には青々とした細長い葉を付けている。
「うちは代々薬師の家系で、名前は植物から取ってるんだって。この花は、ひいおばあちゃんと同じ名前なの」
ジルもじっと花を見つめる。
この花弁と葉は強い解毒作用があるが、成長が遅く繁殖も難しい為、貴重な薬草なのだ。
シュリアはじっと花を観察する。成長しきっているのは1本だけだ。良い解毒剤を作る為の素材になり得るのはあの花弁とあの葉だけか――と考えて苦笑が漏れた。
「ワウ?」
「…ううん、何でもないよ」
そっとジルの背中を撫でる。この賢い魔獣は、きっと元気付ける為にここに連れてきてくれたのだろう。今頃になって、じわじわと嬉しさが染み込んできた。
抱き締める様に手を伸ばして頭を寄せた。大きすぎて抱えきれなかったが。ジルは少しビクリと身体を揺らしたが、じっとしていてくれた。
「ありがとう、ジルさん」
「…ワウ」
いつもより小さな声に頬が緩んだ。
大きな身体から森の匂いがする。オリーブもイチゴも含め、遊びに来てくれる魔獣はほとんど獣臭さがなく、案外綺麗好きなのかもしれないと思うと可笑しかった。
魔獣が皆、ジルやオリーブみたいだったら良いのにと思った。オリーブは、シュリアが湖に来るといつもそっとしておいてくれる。それも優しさの1つだとシュリアは知っている。
ゆっくり身体を離すと、ミルランダから花弁と葉を数枚採る。成熟しきったものは簡単にほろりと取れるのだ。
「上級解毒剤でも作ろうかな。楽しみ」
「ワウ!」
「ジルさんの飼い主さん使うかな? 貰ってくれそう?」
「ワウ!!」
大きく首を何度も縦に振っているジルを見て、シュリアは顔を綻ばせた。ジルにも別にお礼をしよう。心配しているであろうオリーブにも。
シュリアは冷蔵庫の中を思い出しながら立ち上がった。




