38.兄たちと、父と
ジルベルト視点です
本当は怖かった。
彼女もまた、自分から離れてしまうのではないかと。
『私にとっての1番はジルさんで、大好きなのもジルさんだけだよ』
それはきっと、一番欲しかった言葉。
シュリアを兄たちに会わせた翌日、長兄のジェフィルドから呼び出された。
騎士団とは少し違う造りの小さな会議室で待つ。若くして第一近衛隊副隊長に任命されたジェフィルドは、ジルベルトにとって自慢でもありコンプレックスでもあった。今までならこの棟に入ることすら嫌だったが、今日は何も思わない。ただ兄に会いに来た、それだけだった。
すぐにジェフィルドは部屋に入ってくる。次兄のグレイアムも一緒だった。
兄弟3人で集まるのは、昨日で何年ぶりだろう。騎士団に入隊してからほとんど家に帰っていなかったから、少なくとも3年以上は3人で顔を合わせなかったことになる。
その意味でも、昨日はとても緊張した。
「昨日は楽しかった。彼女に会わせてくれてありがとう、ジル」
「こちらこそありがとうございました。彼女も喜んでました」
「彼女の、私たちの印象を聞いても?」
「……従魔だったら、ジェフ兄さんは魔黒豹で、グレイ兄さんは魔白馬だそうです」
2人は声を出して笑った。ジルベルトも釣られて少し笑う。
こうやって一緒に笑い合うことこそ、何年ぶりか分からない。最初の婚約者候補が兄のどちらかに心移りした時が最後なら、もう高等学校に入るより前になる。
「良かったな、ジル。彼女は本当に、お前のことしか見てなかったよ」
「……はい」
照れたようにはにかみながら頷くジルベルトに、兄たちは目を細めた。
他人の機微に鋭い2人だけでなく、そう鋭くないジルベルトさえそれは分かった。シュリアの瞳にあの2人は、ただのジルベルトの兄としてしか映ってはいなかったことは明白だったからだ。まさか魔獣のことを考えているなんて想像もしなかったが。
それでも言葉にして聞かなければ不安だったなんて、今考えても情けなくて恥ずかしい。
「それにしても従魔だったら、か。そんなこと初めて言われたよ」
「いっそ目指してみるのも面白いですね」
「そしたらあのモーリック伯爵令嬢もすんなりとグレイを諦めてくれるかもしれないな」
今日呼び出されたのは他でもない、昨日の話の続きだ。シュリアには聞かせたくないような、貴族の面倒な話をするためだった。
「そのモーリック伯爵令嬢を諫める者はいないのですか。うちからの抗議文を何度も送っていると聞きましたが」
「当主は匙を投げている節があるな。去年幼い養子を取って跡継ぎ教育を行っているらしいから、ジルが駄目なら修道院かどこかの後妻に、と思っているようだ」
「あの令嬢の“奇行”はかなり噂になっているし、年齢的にも後がなくて相当焦っているだろう」
貴族令嬢のほとんどは20歳になるまでに結婚する。学生結婚も珍しくはなく、婚約者のいる者の多くが高等学校の卒業と同時に結婚する。モーリック伯爵令嬢は確か今年で20歳になるか既に迎えたかのどちらかだ。
「だから余計に何をしでかすか分からない。シュリア嬢をグランヴィス家が警護しているのは分からせたが、強行突破しないとも限らない」
「はい」
「一番早いのはシュリアさんと婚約してしまうことだ。それは分かっているな」
「はい。ですがそれを理由に婚約するつもりはありません」
「そうか」
ジェフィルドが腕を組む。このポーズは説教する前の兄の癖だと気付いた時、懐かしさと緊張が混ざり合った。
「本当に自分で身を立てて生きていくと決めているんだな?」
「はい」
「それなら、きちんと父と話をしなさい。父は例え相手がモーリック伯爵令嬢でも、ジルが貴族のままいられることがお前にとって良いことだと思っているぞ。でなければ、グレイにしでかしたことでとっくに反撃してるだろう」
「え?」
ジェフィルドは組んでいた腕を解いた。隣でグレイアムが優しく微笑んでいる。
父は、ジルベルトに「最後に生まれたのが男でがっかりした」と言ってしまったことをはっきりとは覚えていなかったらしい。ただ希望を口に出した気がする、その程度だったそうだ。
ジルベルトはその言葉を聞いてから、明らかに父を避けるようになった。父はその言葉が原因とは露にも思わず、思春期特有の反抗期だろうと思っていた。それが高等学校の寮からほとんど帰って来ないどころか、騎士団に入ってからは家で顔を合わせていないことにようやく気付いた時、初めて兄たちにその原因を聞いて戦慄したそうだ。
そう兄たちに聞いても、ジルベルトは俄かには信じられなかった。あの父が戦慄するなど、まったく想像出来ないからだ。
年齢に合わず鍛えられた身体。身長はいつの間にか追い越したというのに、見下ろされているのではないかと思うほどの威圧感がある。常に眉間には皺が寄り、言葉数も少なくぶっきらぼう。この数年で会ったのは、兄たちの結婚式でだけだ。そこでもほとんど話した記憶がない。ジルベルトから話しかけることもなければ、父から話しかけてくる訳でもない。そもそも父は自分に興味はないと思っていた。
「ジルが従魔になった後、貴族からの婚約申し込みがかなり減ったのは知っているな?」
「はい」
「でも父は、ジルが自分で身を立てるよりも貴族でいられる方がいいだろうと考えた。いや、今もそう考えている。残念ながらジルには何も残せないからせめても、と」
「……繋がりを作る為の駒かと思っていました」
「ないとは言えない。けれど一番の理由はお前の幸せの為だよ。だから、きちんと思いを伝えなさい。そうすればモーリック伯爵令嬢の件などすぐに解決するだろう。こちらが強く出る理由は、グレイとジルのことで山のようにあるからね」
それから時間の許すまで、モーリック伯爵家とガスリー商会についての話を聞いた。昨日シュリアと聞いた時よりも細かく、もっとドロドロした話――どこが弱みか、どこにつけ込めるか、利用できるか。
約束の時間になり、グレイアムと一緒に席を立つ。今度は3人でご飯でも行こうというジェフィルドの言葉に、ジルベルトは素直に頷いた。
「ああ、ジル。重要なことを聞くの忘れてた」
「何ですか?」
「シュリアさんのあの回復薬、どこで買える?」
グレイアムと別れてから、ジルベルトは今日中に手紙を2通書こうと決めた。1通はシュリアに、兄たちが回復薬をえらく気に入っていたこと、次に会う約束のことを。
もう1通は、父に。会って話したいことがある、と。それ以外は何も浮かばない。それでもジルベルトの足取りは軽かった。
手紙の返事は早かった。シュリアからの返事だけでなく、予想に反して父からの返事も翌日には届いた。父から届いた手紙の内容は、都合のつく日時と場所が記されただけの、至ってシンプルなものだった。手に汗を感じながら、ジルベルトは深呼吸した。
「入れ」
「失礼します」
王宮のとある一室を訪れたジルベルトは、緊張した面持ちでドアノブに手を掛けた。
重厚な造りの部屋にはひとり、自分によく似た強面の男だけがいた。軍部の上層部にしか許されない制服を身に纏い、椅子に腰掛けている。手に持った書類に視線を落としたまま、こちらを見ようともしない。
ジルベルトは小さく喉を鳴らし、頭を下げた。
「お久しぶりです」
「挨拶はいい。要件を話せ」
記憶の中と変わらない、冷たさを感じる低い声。それでももう昔ほどの怖さは感じなかった。
「私は、自分の力で生きていきたいと思っています」
「本心か」
「はい」
「……そうか」
「すみません」
「なぜ謝る」
やっと向けられた視線は鋭く威圧的だ。
「色々と気にかけて下さったと聞いています。それなのに期待に添えず、すみません」
「ふん、あいつらか。余計なことを。そもそも三男のお前に大した期待などしていない」
すぐに視線は書類へと戻される。ジルベルトはやはりどうやっても父が戦慄した姿など想像出来なかった。
「……平民と恋仲だそうだな」
「はい」
「結婚するつもりか」
「いつかそうなれば良いと思っています」
「それならば見合いは全て断ろう」
「…ありがとうございます」
ぎろりと一瞥される。幼い頃なら竦み上がっていたであろうその表情に、今は驚きの方が勝っていた。
「なんだその顔は」
「いえ」
「反対するとでも思ったか。嫡男でもあるまいし、お前の好きなようにすればいい。お前の責任で」
「はい」
「骨くらいは拾ってやる」
「……! ありがとうございます」
ジルベルトはこの部屋に入って初めて頬を緩めた。父はサラサラと書類にサインをすると、すぐに次の用紙に手を伸ばした。
「話はそれだけか。他に用がないなら仕事に戻れ。私は忙しい」
「はい。お時間を作っていただき、ありがとうございました。失礼します」
一礼して父に背を向ける。入ってきた時とは違って、扉は重く感じなかった。
半身が廊下に出た瞬間、後ろから名前を呼ぶ声に動きを止める。振り返るよりも早く告げられた言葉に、ジルベルトは瞠目した。
「……すまなかったな」
顔すら上げない父に、どうにか失礼しますとだけ呟いて部屋を出る。
何に対しての謝罪かは分からない。ただ、ジルベルトの胸はいっぱいになった。
ストックゼロのため、不定期更新になります。




