37.怖かった
「どうやら、あのモーリック伯爵令嬢と、ダニエル・ガスリーが手を組んだらしい」
「「え?」」
ジェフィルドの発した言葉の意味が分からず、助けを求めるようにジルベルトの顔を見ると、すぐに目が合った。どうやら彼も同じだったらしい。困惑したままのジルベルトが口を開く。
「2人が知り合いだったということですか?」
「いや。どうやらモーリック伯爵令嬢側から接触したようだ。すまない、シュリアさん。面倒なことに巻き込んでしまって。モーリック伯爵令嬢のことはジルから聞いているとは思うが、いよいなりふり構わず、どんな形であれジルと結婚したいらしい」
「そうすればグランヴィス家――というよりグレイアムと家族になれると本気で思っているようだ」
溜息は誰から漏れたのか。もしかしたら全員だったかもしれない。
シュリアはあの時モーリック伯爵令嬢がジルベルトのことを「アレ」と呼んだことを思い出し、胸が痛んだ。そしてあの時と同じように、段々と怒りも戻ってきた。
本当に、あの人は一体ジルベルトを何だと思っているのか。
どうにかしてグランヴィス家に入り込みたいモーリック伯爵令嬢と、どうにかしてシュリアを商会に入れたいダニエル。ジェフィルドの話によると、シュリアたちを別れさせた後、お互いがその傷心につけ込むという、極めて杜撰な作戦しか立てられていないということだった。現に何度か2人の邪魔をしようと目論んでいたが、ことごとくグランヴィス家の手の者に阻止されていたそうだ。シュリアは全く気が付かなかった。
しかし同時に納得した。
ダニエルがジルベルトのことを知っていたのは、きっとモーリック伯爵令嬢からの情報だろう。ダニエルがわざわざシュリアの為だけに調べるとは到底思えなかったからだ。
また、ガスリー商会の経営があまり上手くいっていないことも教えてもらった。薄給での労働を強いた結果どんどん人が辞めていき、それでも仕事を減らさなかった為に、残った人に長時間労働をさせてまた人が辞めるという悪循環だという。そんなところに絶対に働きに行きたくない。
「だが、ある意味2人が手を組んでよかった。ガスリー商会の息子はシュリアさんを取り入れたい訳だから、シュリアさんの悪評など流させたり、潰したりはしないだろう」
逆を言えば、手を組まなければ、簡単に平民のシュリアなど潰せていたということだろう。シュリアは今更だが背筋が凍る思いだった。
ぎゅっと握り締めた手に、ジルベルトの大きな手が重なる。
そうだ。負けないと決めた。
心配そうに見つめるジルベルトに、シュリアは微笑んだ。小さく息を吸うと、ジェフィルドとグレイアムを見つめた。
「もし、私に出来ることがあれば教えて下さい。何でもします」
そう意気込んだものの、結局シュリアに出来ることはないに等しかった。今以上に気を付けること、何かあったらすぐにジルベルトに言うこと。ジェフィルドたちに言われたことはそれくらいだった。
それより今一番気になるのは、ジルベルトの様子だった。帰りの馬車に乗り込んでからというもの、落ち着きなく何か言おうとしては口を噤んでいる。
「ジルさん、今日はありがとう。お会いできて良かった」
「……あ、ああ。こちらこそ、ありがとう」
シュリアの言葉にジルベルトは一度ぎゅっと口を結ぶと、こちらを見据えて絞り出すように言った。
「兄2人のこと、その、どう思った?」
「どうって…うーん、ジルさんと似てるなあと思ったよ」
「……他には?」
「従魔だったら何っぽいかなって」
「……」
急に黙ってしまったジルベルトを見ると、顔をくしゃりと歪め、泣き笑いのような表情になった。シュリアは驚いて、黙って彼の言葉を待った。
「シュリアらしい」
そっと抱き締められる。逞しい腕が心なしか震えているような気がして、シュリアはますますどうしていいか分からなくなった。
「本当は、今日シュリアを兄たちに会わせるのが……怖かった」
「怖い?」
頭の上でジルベルトが小さく頷いたのが分かった。シュリアが上を向こうとすると、まるで牽制するかのように回された腕の力が強まる。
「今まで兄たちに紹介したら、全員兄たちのことが好きになったから。アルノールだったことも一度あったな」
「そんなにいるの? 紹介した彼女が」
自嘲するかのような声。シュリアもそれに合わせて、わざとおどけて言う。ジルベルトは息を吐くように頼りなく笑うと、もう少しだけ力を込めた。
「婚約者候補だっただけ。……それでもやっぱり、辛かった」
「うん」
シュリアはようやくここ最近ジルベルトの様子がおかしかった理由が分かった。
そして少しだけ腹が立った。簡単に心変わりしてしまうご令嬢にも、ジルベルトにも。気付かなかった自分にも。
「私もそうなるかもって、心配した?」
「……ああ、ごめん」
「ジルさん」
はっきりと名前を呼んで体を離そうとすれば、ジルベルトはすんなり腕の力を解いた。揺れる群青色の瞳を真っ直ぐ見ても、逸らされることはなかった。
そっとジルベルトの頬に手を伸ばして少し腰を浮かすと、本当に一瞬だけ唇を重ねた。
大きな身体が小さく震え、大きく見開かれた目と目が合う。シュリアは自分の顔が真っ赤なことは自覚していた。それでもはっきり、ジルベルトの瞳を見て言った。
「私にとっての1番はジルさんで、大好きなのもジルさんだけだよ」
零れ落ちそうなほどに開かれた瞳。上手く笑えたかは分からない。初めて自分からキスをしたことに、シュリアの心臓はまだバクバクと大きな音を立てている。もしかしたらジルベルトだってそうだったのかもしれない。自分からするということが、こんなにも緊張することだなんて知らなかった。
不安にさせたのは、自分のせいでもある。
貰ってばかりの愛情。勇気がないばっかりに、大事な人をずっと不安にさせていたなんて。
「他の人なんて関係ない。ジルさんだから、好き」
勢いよく抱き締められる。少し苦しいくらいの強さでも、シュリアは気にならなかった。広い背中に腕を回し、「好きだよ」と呟く。何度も何度も。
ちゃんと、気持ちが届くように。
抱き締められる前に一瞬見えた、潤んだ瞳。鎖骨にかかる熱い吐息。小さく聞こえた言葉は、少しだけ掠れていた。
「ありがとう」
ジルベルトはこの日を境に、今まで見せていた触れる直前の不安そうな表情を見せることは一切なくなった。




