36.心配な
やっぱりジルベルトが変だ。
花祭りの会場を抜け、南側の森に行った時も様子がおかしかった。
「わあ…!」
「これはすごいな」
点々と咲くブルーベルンに導かれるようにして奥へと進むと、人気のないところで突如として青い絨毯が現れた。恐らく早咲きの群生なのだろう。その一角だけが見事に満開だった。
もしかしたら、もっと奥に行けばもっと多くの花が咲いているかもしれない。前に進もうとしたシュリアを、ジルベルトが優しく手を引いて止めた。
「あんまり奥に行くと危ないから」
「大丈夫だよ」
「ブルーベルンの妖精に連れていかれるぞ」
「まさか。子供じゃあるまいし」
子供がブルーベルンの咲き誇る森にひとりで入ると、妖精に連れ去られて二度と帰って来られない――イグアス国に昔からある有名なお伽噺だ。
ジルベルトの過保護さに、シュリアは苦笑した。
「分かった。ここにいる」
「どこにも行かない?」
「ふふ、行かないって」
「本当に?」
「…ジルさん?」
シュリアの想像とは違い、あまりにも真剣で、あまりにも不安そうなジルベルトの表情。真っ直ぐこちらを見る、群青色の瞳が揺れている。
心配になったシュリアは、覗き込むようにジルベルトを見た。
「ごめん。何でもない」
「ジルさん? ねぇ、どうし――」
初めての、誤魔化すようなキスだった。
小さく音を立てながら、何度も啄むようなキスの雨が降ってくる。そしてそのまま抱き締められた。
まるで、顔を見せまいとするかのように。
「ここにいて」
「うん……」
理由を聞きたいのに聞けない。なんとなく聞いてほしくなさそうな気がして、結局シュリアは口を噤んだ。
いや、思い返せば花祭りの朝からいつもと少し様子が違っていた。
そして今日も。
初めてジルベルトの兄2人に会い行く日。迎えに来てくれた豪華な馬車に一緒に乗り込んでも、ジルベルトの口数は極端に少なかった。緊張してるのかと問えば、少しだけ、と作られた笑みで返ってくる。思い詰めたようなジルベルトに、シュリアは気が気でなく、緊張を感じる暇もなかった。
お茶をするだけと聞いていたのに、着いた場所は格式高そうなレストランだった。シュリアは高等学校の卒業式で着た綺麗めのワンピースで来たが、それでも相応しくない気しかしない。ジルベルトは騎士団の制服を今日も綺麗に着こなしている。
「大丈夫。交際を反対されるようなことはないから」
「前とは立場が逆だね」
「はは、確かに」
ジルベルトに手を引かれて、1番奥の個室へと向かう。シュリアの緊張はピークに達していた。それはジルベルトも同じだった。
制服をきちっと着こなした給仕係が、ノックをして声をかけてから音も立てずに扉を開けた。部屋の中にいた2人の男性と目が合う。シュリアはここ数日で読んだマナーブックの内容を思い出そうと、必死に頭を回転させた。
後ろで扉が閉まると、ジルベルトがすぐに2人を紹介していく。
「シュリア、紹介するよ。長兄のジェフィルドと、次兄のグレイアム。兄さんたち、この人がシュリアリース嬢」
「はじめまして。ジルベルトの1番上の兄、ジェフィルドだ。今日は来てくれてありがとう」
「私は2番目の兄のグレイアム。聞いていたよりも可愛らしい人で驚いたよ」
「シュリアリース・ウォルナッツです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「そう固くならないで。貴族としてじゃなく、ただのジルベルトの兄として来ただけだから。ぜひ楽にしていって」
「ありがとうございます」
そうは言っても、おいそれとリラックス出来る訳もなく、シュリアはまだ少し硬さの残る表情のまま笑顔を作った。
どうやらジルベルトが事前に何か言ってくれていたらしい。シュリアの想像していたよりも格段に、空気が柔らかだ。1人を除いて。
「……紹介はしましたよ。で、話したいこととは?」
「ジル、そう焦るなよ」
あまり余裕のなさそうなジルベルトの声に、シュリアは思わず彼を見上げた。こんな声は初めて聞いた。
「もうひとつ、お礼を言わせて欲しい。あの時魔獣の姿だったにも拘らず、ジルベルトを助けてくれてありがとう。お礼が遅くなって申し訳ない」
「い、いえ。大したことは…」
「第5騎士団の全滅も防げたと聞くよ。ああ、それからどの薬も美味しいって話も」
そう褒められると渡し辛い。ジルベルトのアドバイスによって、シュリアは手土産に自分で作った風味付き回復薬を持ってきていた。けれどタイミング的には今が良いだろう、と意を決して袋を差し出した。
「お口に合うか分からないですが、上級回復薬を作ったので受け取っていただけると嬉しいです」
「凄く嬉しいよ。ありがとう」
「とても助かるよ! 今見てもいいかな?」
ジルベルトから長兄は近衛隊員、次兄は別隊の騎士団員と聞いていたので、あっても困らないだろう。そう思い込むようにしたが、いつもはより高級なものを使ってそうで、実はぎりぎりまで手作りでいいのか悩んだのだ。喜んでいる様子の2人に、シュリアはかなり安堵した。
勧められた椅子に座ると、横にジルベルトが、向かいにはその兄2人が着席した。その動きさえ上品に見えるから不思議だ。
「私たちもシュリアさんと呼んでいいかな? 私たちのことも気軽にジェフやグレイと呼んでくれて構わないから」
「はい、ありがとうございます」
正直呼べる気は全くしないが、どうにか微笑んで返事をする。
張りがあるのに柔らかい椅子と、分厚い一枚板で出来たテーブル。幕板に施された細かい彫刻は、よく見ると椅子だけではなく扉や壁の巾木と同じ模様だ。どれもこれも見て分かるほどの一級品で、恐ろしく場違いな気分になる。
向かいに座るジルベルトの兄たちを改めて見ると、微笑みが返ってきて余計に緊張した。
ジルベルトから野性味を取って柔和にした感じの長兄ジェフィルドに、更にそこから甘くしたようなマスクの次兄のグレイアム。この3人とも、この場にとても似合うのだ。兄弟揃って顔もスタイルもとても良い。心臓にはとても悪い。
給仕係が数人入ってくる。ピカピカのカートに乗ったのは高そうなポットとカップ、そして多種多様なプチデザートの山だった。ぎょっとするシュリアに対して、3人は特に気にした様子もない。ジェフィルドが給仕係に小さく声をかけると、給仕係たちはすぐに部屋から出ていってしまった。
こういう時のマナーなんて覚えていない。頭が真っ白になるシュリアに、ジルベルトは頬を緩めた。
「マナーは気にしなくて良いよ。好きなものを好きなように食べて良いから。先に取ろうか?」
「ありがとう。お願いします」
そんな小さなやり取りを、向かいの2人が目を細めて見つめていた。
ジルベルトに倣ってデザートを皿にいくつか乗せると、シュリアはもうそれだけでひと仕事終えたような気分になった。
ジェフィルドたちからの穏やかな話術に、シュリアの肩の力も少しずつ抜けていく。特にジルベルトの幼い頃の話――負けん気が強くてカエルが苦手だった話が聞けたことが嬉しかった。またその話に慌てたような照れるようなジルベルトの姿に、シュリアは愛しさを覚えた。
「……そろそろ、本題に入ってくれても良いのでは」
「ああ、すまない。あまりにも楽しくて」
シュリアは改めて襟を正した。引いていたはずの手汗が戻ってくる。
ジェフィルドたちは何の変化もない。音を立てずにカップをソーサーに戻すと、シュリアたちに微笑んだ。
「どうやら、あのモーリック伯爵令嬢と、ダニエル・ガスリーが手を組んだらしい」
「「え?」」
静かな部屋に、2人の声が重なった。




