29.オリーブ、呆れる
恐らく一瞬の沈黙だったが、シュリアには永遠に感じられる程だった。
やっと瞬きが出来たと思うと、目の前の魔獣が見慣れた青年へと変わっていた。シュリアは呼吸も忘れて、このまま気を失ってしまえばいいのにと叶わないことを願った。
「シュリア」
「ジル、さん…いつから…その、どこから聞いて…」
震える声。嫌な汗をじっとりとかいているのが分かる。ジルベルトが一歩近付くと、シュリアの足は勝手に一歩下がった。
「モーリック伯爵令嬢が俺をアレと言った時から…すまなかった、すぐに助けに行かなくて」
彼女がジルベルトをそう呼んだのは、彼を好きと言う前だったか後だったか。混乱したままのシュリアにはすぐにはわからなかった。
好きだとつい言ってしまったのは怒ったからだ。あの令嬢が彼のことをちゃんと知ろうともしないのに、利用して、それが済んだらアレをあげると言って――…
絶対に、前だ。
シュリアは数歩後退り、いよいよ逃げようとした。
そんなつもりじゃなかった。想いを知られるつもりなんて、ただ傍にいられれば良いと。
ジルベルトがシュリアの腕を掴む。揺れる新緑色の瞳を見つめたまま。
「シュリア、好きだ」
聞き間違いだと疑う余地もない程に、ジルベルトははっきりと告げた。目を瞠り、飲み込んだままの息が吐き出せない。
「聞こえたから言ったんじゃない。ずっと、多分魔獣の姿で初めて会った時から好きなんだ」
また一歩、ジルベルトがシュリアに近付く。シュリアはもう動かなかった。いや、動けなかった。
何かが喉に詰まったように声が出ない。真っ直ぐにこちらを捕らえる群青色の瞳を見つめながら、どくどくと響く心臓の音を感じることしか出来なかった。
「貴族が嫌なら今すぐ辞めたっていい。こんなに誰かを好きになったのは初めてなんだ。俺は、シュリアが好きだ。もしさっきの言葉が同情だったとしても」
「同情なんかじゃない…! 私も、ちゃんと……」
思わず遮ってしまった言葉に、後が続かない。恥ずかしくて目を逸したいのに、ジルベルトの瞳が逸らすことを許さない。
シュリアは喉を小さく鳴らした。言わないと。今言わないと。
唇が小さく震える。
「…好き。私も、ジルさんが好き」
か細い声はどうにか届いたようで、手を引かれてぎゅっと抱き締められた。ジルベルトの香りに包まれて、心臓が痛いほどの早鐘を打っている。
嬉しい。恥ずかしい。くすぐったい。幸せ。少しだけ怖い。でも、やっぱり嬉しい。
目を閉じると、自分のとは違う心臓の音が聞こえる。シュリアのそれとまるで競争するかのように、凄いスピードで脈打っていた。
「夢じゃない、よな…?」
「うん…でも、夢みたい…」
「ああ…」
多分同じような表情を浮かべているのだろう、とシュリアはぼんやりと頭の片隅で考えた。信じられないのは自分だけではないのだ。そう思うと、心が喜びで疼いた。
意を決して、ゆっくりとシュリアもジルベルトの背中に手を回すと、大きな身体が少しだけ揺れる。けれどそれも一瞬のことだった。すぐにまたぐっと抱き締められた。泣きたくなるくらいの幸せに包まれる。
どのくらいそうしていたか。
少しだけ、ジルベルトの身体が離れた。
「シュリア」
優しく甘い声に、ゆっくりと顔を上げた。蕩けるほど熱い視線が、少しずつ近付いてくる。シュリアはただ目を閉じた。
唇に感じる柔らかな温もり。脳まで痺れそうな甘い時間。
大きな手がするりと頬を撫でながら、シュリアの髪に指を通し、頭の後ろに添えられる。何度も何度も落とされる口付け。角度を変え、時には啄むように、時には小さく音を立てながら。
オリーブの鳴き声が聞こえるまで、2人は熱に冒されたようにキスを繰り返した。
暖炉の前、手を繋いだまま並んで座る。暖炉のパチパチと燃える音だけが聞こえる。ぼんやりと炎を見つめ、たまにジルベルトの方にちらりと視線を送ると微笑みが返ってくる。
その度に実感する。
さっきまでのことは、やっぱり夢じゃなかったんだと。
「言ってくれれば良かったのに。モーリック伯爵令嬢が来ること」
「連絡が来たのが昨日の夜遅くだったから。それに…ジルさんからの連絡もなかったし、忙しいのかなって」
「え? 少し前に今日行くと手紙は出したはずだが……誤送されたか、それとも…」
沈黙。考えていることは恐らく同じだろう。シュリアはオリーブに警戒するように言おうと決め、ジルベルトは兄に警護を要請しようと決めた。この時ばかりは自分が貴族で良かったとジルベルトは思った。庶民であるシュリア1人で貴族に抵抗出来ることはまずないからだ。
「彼女の方も厄介は厄介だが……あれからシュリアの、その…元彼は?」
「何もないよ。あれから一度も顔見てないし」
「そもそもなんで今になって声を掛けてきたんだ?」
「女ひとりでソロスペースなんてずっとは無理だからガスリー商会…あの人の実家の商会で雇ってやるって」
「それは…何て言うか…かなり下に見られたもんだな…」
腕を組んで眉を顰めるジルベルトに、シュリアは苦笑する。「自分は正しい」と思っている性格だと知っているシュリアは、今回のことも最初は驚きはしたものの、今はもう面倒だなとしか思わない。
どうせ断るしか選択肢はない。何が悲しくて元彼の実家で働かなくちゃならないのだ。
「もう諦めてくれたんじゃないかな。薬師なんていっぱいいるんだし。心配してくれた同業者の何人かには話したから」
「何かあったら言ってくれ。もう誤解させるような関係じゃないんだし」
「…うん」
髪にキスが落とされる。
蕩けそうなほどのくすぐったさに、シュリアは緩む頬を止められなかった。
恥ずかしいのに嬉しい。
「もう昼過ぎてたんだな。お腹空いてないか?」
「うーん、あんまり…」
胸がいっぱい過ぎて、なんてことは恥ずかしくて言えなかったが。
何か食べた方が良いというジルベルトの提案で、近くの麺料理の店へと出かけた。今まで何も考えずに作った料理を出せていたのに、今日は急にそれが恥ずかしくなって、「何か作ろうか」なんて軽くは言えなかった。
手は繋いだまま並んで外を歩く。今までと違う指を絡めた繋ぎ方に、シュリアは恥ずかしさと嬉しさで頬が緩まないように唇の内側を噛んだ。そして手袋をしていて良かったと思った。手汗が凄い。
たまにすれ違う知らないカップルを見て、自分たちもそう見えているのだろうかとこそばゆい気分になる。
ランチタイムギリギリに入店し、胃に優しそうな料理を選ぶ。食べ始めると思ったよりもお腹は空いていたらしく、2人ともきちんと完食したのだった。
店を出ればもうおやつ時だった。明日早朝からの出発に備え、夕方から最終会議があるというジルベルトと、後ろ髪を引かれる思いで別れる。シュリアは湖まで見送りたかったが、帰りが心配だからと固辞するジルベルトに折れ、玄関前で見送ることになった。彼の過保護さがくすぐったくて嬉しかった。
「討伐、気を付けてね」
「ああ、ありがとう。また連絡する。それじゃ…また」
「うん、またね」
「……」
「……」
背中が見えなくなるまで見送ろうと思っていたシュリアと、彼女が家に入るのを見届けてから帰ろうと思っていたジルベルト。お互い相手が動き出すのを待ち、少しの間黙って見つめ合っていた。
「家に入らないのか?」
「ジルさんこそ」
視線で促し合っていた2人だったが、すぐにどちらからともなく笑い出した。
「それじゃ、行くよ。本当はまだ帰りたくないけど、このままじゃ帰れなくなりそうだから」
「うん。ほんとに気を付けてね」
「ああ、シュリアの方も。何かあったら、すぐに連絡して」
「うん」
大きな背中を見つめる。すぐに振り返ったジルベルトに、少し気恥ずかしくなりながらも小さく手を振ると、予想に反して彼はすぐに戻ってきた。不思議に思っているシュリアにジルベルトは素早く口付けると、目尻を下げたまま呟いた。
「じゃ、また」
今度こそ去っていくジルベルトを、シュリアは赤い顔のまま見つめた。その後ろ姿が見えなくなっても固まったままの彼女は、またしてもオリーブの一鳴きで我に返った。
その声は、今までで一番呆れた鳴き声だった。
空気の読める魔獣、オリーブ。




