28.対峙
あれからすぐ、緊急招集だと魔熊のバーレットがジルベルトを呼びに来て、「また連絡する」と言い残して彼は去っていった。
シュリアは家に入るなりその場にへたりこみ、両手で顔を隠した。
顔が、特に左頬が熱い。ジルベルトが触れた感覚がまだ残っている。
あれはつまり、そういうことだと思ってもいいのだろうか。
気を抜けばすぐに緩む頬。漸く立ち上がれるようになったかと思うと、シュリアは無意味に部屋中をぐるぐると歩き回ることになった。
それも最初の2、3日だけだった。徐々に不安の色が強くなっていく週末を過ごした。
ジルベルトから連絡が来ないのだ。
緊急招集なんて何かあったのだろうか。怪我して連絡できないなんてことになっていないだろうか。やっぱりあの時の態度で嫌気が差したのだったら……
自分だけでは絶対に正解が分からないことをぐるぐると考える。
金曜日から冒険者ギルドで薬を置いて貰えるようになったこと。違う冒険者も継続契約したいと言ってくれたこと。冒険者ギルドの近くに、彼が好きそうなお店を見つけたこと。
話したいことは沢山あるのに。
そんな落ち着かない週末を終えた月曜日の夜、手紙が届いた。上質そうな紙を見て、期待したのは一瞬だけ。
受け取った瞬間、ふわりと鼻に届く香りに戦慄した。あの伯爵令嬢と同じ香水の香りだ。裏返すと、そこには予想通りの名前が書かれていた。
『明日の朝10時、家にいるように。くれぐれもジルベルト様には言わないように』
シュリアはごくりと喉を鳴らした。それでももう、前程の恐怖は感じなかった。
迎えた翌朝。
シュリアは誰にも言わなかった。正確には言う時間もなかった。恐らく伯爵令嬢もそうさせないようにぎりぎりに手紙を送ってきたのだろう。届いた時には、明らかに配送の受付時間外だったからだ。オリーブには言おうか迷ったが、結局言わなかった。
念の為、カレンダーにはでかでかと『10時にモーリック伯爵令嬢様』と書き、外から覗き込めば見える位置に手紙を裏返して置いた。
はぁ、とシュリアは大きな溜息をつく。
今回は何を言われるのだろうか。ジルベルトの話から破天荒令嬢だということがよく分かったので、正直恐怖より面倒くささが勝っているから不思議だ。
せっかくの休みなのに。手紙だって彼からかと期待したのに。そんな八つ当たりのような感情すら湧く。
案外自分は図太いんじゃないか、とどうでもいいことを考えている内に、来客を伝える鐘が聞こえた。
まだ約束より15分も早い。重い腰を上げて門へ向かうと、モーリック伯爵令嬢は見るからに怒った様子で既に敷地内に入ってきていた。前回と同じ老執事が後ろに見える。
「ちょっと! 先に門の前で待ってなさいよね!」
「はぁ、すみません」
前回とは違う魔黒兔のコートを見て、シュリアは自分の作る上級回復薬何本分に相当するだろうとぼんやり考えながら返事をした。伯爵令嬢は、シュリアがじっとコートを見ていることに一瞬気を良くしたが、すぐにまた目を吊り上げた。
「貴女、案外性格悪いのね。ジルベルト様に言付けて、グランヴィス家からモーリック家に圧力かけさせるなんて」
「そんなことしてません」
「そんなの嘘よ。だって、今までこんなことなかったもの!」
伯爵令嬢は自分で言いながら怒りを増やしている様子だった。ここが外であることなんてお構いなしに、立ち止まってシュリアを睨みつけている。
シュリアは自分が怒鳴られていることより、オリーブが飛んで来ないかの方が心配だった。魔獣が貴族に攻撃なんかしたら、殺処分にでもされかねないからだ。オリーブを探したいが、家に背を向けているせいで探せない。上手く隠れていたり、どこかに出掛けているといいのだが。
「それとも何? わたくしよりも貴女の方がグランヴィス家に相応しいとでも!? だからこんな圧力をかけたとでも!?」
「ですから、私はそんなこ…」
「わたくしがアレと結婚するまでくらい待ちなさいよ! そしたらアレは貴女に差し上げるわ!!」
シュリアはオリーブを探していた視線を伯爵令嬢に向けた。自分でも眉間に深い皺が刻まれているのが分かる。
今までの少しの緊張とか煩わしさとか、そういったものが全てどこかへと消えていった。
「アレ…? アレって、何ですか…?」
「フン。どうせ貴女だってそうでしょう? あんな半魔じゃなくて、アレのお兄様たち狙いでしょ!?」
シュリアは頭の中が真っ白になって、目の前がチカチカと目眩がした。
彼女の言っている意味を、分かりたくない。
「ジルベルト様よ。本当は"様"なんて、付けたくもないわ」
「貴女は、彼自身が好きなんじゃないんですか…?」
絞り出したようなシュリアの声に、伯爵令嬢は馬鹿にしたように鼻で笑った。途端にふるふると込み上げてきたもので、目の前が真っ赤になった気がした。
「そんな訳ないでしょう。わたくしが欲しいのはグレイアム様よ。皆お兄様たちに取られるからって、当て付けのように半魔になるなんて、なんて汚らわしいのかしら!」
「なんてことを…」
「まあ、魔獣がいるような森に住む貴女ならアレとお似合いかもしれないわね。安心なさい。ちゃんとわたくしが踏み台に使った後であげるから。あんな半魔、わたくしが結婚してあげるだけでもありがたいと思って欲しいわ」
焼けついたように喉が熱くなって声が出ない。瞬きも出来ない瞳まで熱を持って、それを冷まそうとするかのように、じんわりと潤む。シュリアは堪えるように奥歯を噛み締めた。
「貴女は…彼を、ジルさんを何だと思ってるんですか…!」
「はあ?」
「アレだなんて、ちゃんと知りもしないジルさんをそんな風に呼ばないで下さい…! 私は彼が、ジルさんが好きです! 優しいところも、真面目なところも、従魔であることも!」
怒りのまま言えば、勝手に涙が零れた。
悔しい。
ジルベルトのことをちゃんと見ようともしない彼女が、自身の欲望の為に彼を傷付けることも。
何も出来ない自分にも。
「半魔が好きだなんて、貴女正気? というか、庶民の癖によくもわたくしに盾突けたわね…!」
「貴女は、自分の好きな人が侮辱されても平気なんですか!」
真っ直ぐ見据えてそう言うと、伯爵令嬢はぐっと押し黙り、初めて視線を逸らされた。グレイアムというジルベルトの兄のことを思い出しているのかもしれない。
だからと言ってシュリアの憤りは消えなかった。息を深く吸えば、また涙が落ちた。
「いいわ。そこまで言うなら、貴女もわたくしの味方につかないことを後悔させてあげる…! 覚悟なさい!」
「貴女の味方には絶対になりません!」
「強がっていられるのも今の内よ! あとで謝ったって遅い…ひっ!! ま、魔獣…っ!?」
突然伯爵令嬢の顔色が赤から青に変わると同時に、後ろに控えていた老執事がぎこちなく彼女の前に飛び出した。2人ともみるみるうちに震え出し、後退りしながら慌てて帰って行った。
ばさりと羽ばたくような音が聞こえる。
ああ、オリーブが見兼ねて出てきてしまったのか。伯爵令嬢がオリーブに危害を加えようとしたらどうしよう。少しの間どこかに隠れるように言おう。
「出てきちゃダメじゃない、オリー…」
シュリアはやっと涙を拭いながら振り返り、途中で固まった。
すぅっと血の気が引く。
そこにいたのは、艶めく濃紺色の毛並みをした魔犬1頭のみだった。




