27.一歩
手を繋いだまま、馬車に揺られる。向かうは彼女の家か。行き先は決まっていない。手を繋げば、まだ会話すら普通に出来ないと気付いたのはつい先程だ。自分は右側の外を、シュリアは恐らく反対側を見ていると気配から察する。
乗り合いの馬車の中、他の乗客の話す声がぼんやりと耳に入ってくる。意識のほとんどが、繋がれている彼女の小さく細い、少し冷えた手に集中されている。高ランクの魔獣と向き合っている訳でもないのに、手に汗を握っているだなんて。彼女は不快に思ってはいないだろうか、と違う意味でも緊張する。
自分の心臓と同じくらい、馬車の中も騒がしい。やれ仕事がどうだとか、やれ恋人とどうだとか。
自分たちは今、周りからどう見えているのだろう。恋人だろうか。兄妹ではないといいが。
手を繋いだまま馬車を降りてシュリアを見れば、まだぼんやりとしている。図書館を出てからずっとそうだ。最初は従魔について考えているのかと思っていたが、どうやら違うようだ。
「シュリア? どうかしたか?」
「…ごめん。ちょっと頭がぐるぐるして…」
「大丈夫か? 医者を…」
「大丈夫。ちょっと1人で横になりたいかな」
ジルベルトは心にもやもやしたものを抱えながら、それでも玄関先で別れた。シュリアは申し訳なさそうに無理に笑って手を振っていたが、すぐに家へと入っていった。アルノールから預かった茶葉を渡すのを忘れていたことに、湖まで来てようやく気付いた。
もやもやしたのは今日2回目だ。シュリアは何でもない風に、「帰りに家で作って薬を渡す」と言った時。意識している相手なら、簡単に呼べるだろうかと心がざわついた。
何か気に障るようなことをしたのだろうか。手を繋ぐことが、本当は嫌だったのだろうか。意識してくれていると思っているのは自分だけだったら。照れじゃなく、不慣れからくる羞恥だったら…。
嫌な考えばかりが浮かんで、いつもだったら魔獣になって帰ることも忘れている。
1番気になるのは、シュリアのあの言葉だ。
『貴族も大変なんだね』
まるで拒絶のような、少し寂しい笑顔で彼女は言った。貴族だから助けたと、そう思っているのだろうか。
自分の手をじっと見つめる。
初めて繋いだ手。抱き締めたのは二度目だ。一度目は倒れたと思い込んでいたので深く考えなかったが、今回は違う。自分の意思で、彼女に触れたいと思ったのだ。小さくて冷たい手にも、細くて力を入れたら折れそうな身体にも、香水もつけてないのに優しくて甘い匂いにも、柔らかい髪にも。全て自分の手の中にしたくてそうしたのだ。できることならあのまま閉じ込めておきたかった。
『誤解させるようなこと言わせちゃったし』
咄嗟に誤魔化したけれど、本音を言えば誤解されればいいと思った。誤解がそのまま本当になれば、なんて。
彼女が、誤解されたままでは嫌なのだとしたら。彼女にとっては、自分もオリーブと同じ友達なのだとしたら。兄のように思っているのだとしたら。
それとも。
ジルベルトは歩みを止めた。自分の中で浮かんだ身勝手な、希望的観測に胸が高鳴る。
もしシュリアが、自分と同じ様に考えているのなら。
さすがに楽観的すぎる考えだと自分でも思う。けれどどうしても期待してしまう。
初めて見た薄い化粧に、新しい服。触れる度に赤く染まる肌や耳。目が合えば微笑み返してくれることも。
ジルベルトは無意識に手を握り締めた。
もし今、彼女が自分とは違う感情を持っていたとしても、もうそれでもいい。今は。
『のんびりしてたら、横から掻っ攫われるぞ』
それだけは嫌だ。どうしても彼女が欲しいと気付いたあの日から、その想いはどんどん強くなる。
ジルベルトは踵を返し、来た道を早歩きで戻った。
その頃シュリアは、玄関扉に凭れかかったまま、頭を抱えていた。
絶対に失礼だった。
図書館を出てからずっと上の空で、乗り合い馬車の運賃を払おうにも小銭を落とすし、声をかけられるまで到着したことにも気付かなかった。
彼にとっては貴族として普通の行動だったとしても、私を妹のような存在として扱っていたとしても、これは絶対に失態だ。
あまつさえ送ってくれた彼に対して「一人になりたい」みたいなことまで言うだなんて。
引いたかもしれない。嫌われたかもしれない。
そう思うと胸が締め付けられて、息が出来なくなるほどに苦しくなった。
意識しているのが自分だけでも、嫌われたくはない。
シュリアは大きな溜息をついた。
なんて勝手なんだろう。
勝手に好きになって意識して、勝手に傷付いて落ち込んで。その上嫌われたくないだなんて。傍にいたいだなんて。
『うかうかしてたら誰かに取られるわよ』
ケイトの言葉が頭に浮かぶ。嫌だ。そんなの嫌なのに。
なんて意気地なしなんだろう。
近付きたいのに、この関係が壊れるのが怖い。そのくせ、このままでも嫌だなんて。
好きな人の近くにいられる、それだけでいいじゃないか。繋ぎたいと思っていた手だって、彼から繋いでくれた。それがどんな感情からだろうと、今はそれでいいじゃないか。私の作った薬が彼の役に立つのならそれで――…
「あ…軟膏の回復薬…」
渡すと言ってたくせに、それすら忘れていた。アルノールからの茶葉だって。
謝ろう。今なら走って行けば間に合うかもしれない。
妹みたいでもいい。ただ薬が気に入っているだけでもいい。それでもいいから、まだ彼の傍にいたい。
シュリアは急いでチューブの回復薬を取りに行くと、一目散に玄関へと走り、扉を押し開けた。
「…え、ジ、ジルさん?」
「シュリア? どうした? やっぱり病院に?」
玄関を飛び出てすぐのところに、ジルベルトが背を向けるように立っていて驚いた。ジルベルトもまた、戻ってきたはいいがどうしていいか分からずに、その場で右往左往してたのだ。
「ううん。その、チューブの回復薬渡すの忘れてたから…あとアルノールさんの茶葉も…ジルさんは?」
「あ、あぁ…俺も茶葉を……それより体調は大丈夫なのか?」
どこまでもシュリアの心配をするジルベルトに、後ろめたさと申し訳なさで胸が痛む。
私は、いつも自分のことばかりだ。
「それは大丈夫。ごめんね、忘れてて…それから、その…態度も…ごめんなさい」
「態度?」
ジルベルトの心底不思議そうな顔を見て、シュリアは慌てた。謝ろうと決めたものの、何て言うかまで考えてなかった。妹みたいに思われているんじゃないかと思って落ち込んでいたなんて言えない。
必死で言葉を探すシュリアに、ジルベルトが近付いていく。
「シュリア」
顔を上げると、思った以上に近くにあったジルベルトの顔。シュリアは驚きのあまり目を瞠り、肩が揺れた。
途端にジルベルトが寂しそうに微笑んだ。いつかも見た表情だ、とシュリアは思った。
あれはそう、海で――…
「俺と手を繋ぐのは、嫌か?」
「……え?」
シュリアはつい聞き返してしまった。
まるで、あの時と同じだ。ジルベルトに、触れられるのは嫌かと聞かれた時と同じ。
私は何も変わっていない。
踏み出したい。でも怖い。でも、でも。
「違う、嫌なんか、そうじゃなくて…! 私が勝手に、その、落ち込んだだけで…」
「落ち込む? 何に?」
「それは…その…」
「シュリア」
視線を逸らす度に呼ばれる名前。
見透かすようなタンザナイトの瞳に、シュリアはごくりと唾を飲み込んだ。
「そういうことするのは、私が手のかかる人間だからなのかなとか、貴族だからなのかなとか…」
言ってしまった。これじゃ、彼を意識してますと言ってるようなものだ。
いたたまれなくなって、また視線を落とす。今度は名前を呼ばれはしなかった。顔が見られない。彼がどんな反応をしているかなんて、怖くて想像すら出来ない。
ジルベルトの右手が動くのが見えた。そしてすぐ、左の頬にゆっくりと温度を感じ、顔が上げられる。触れられていると気付いた時にはもう、彼の目を真っ直ぐ見ていた。
「俺が手を繋ぎたいと思うのも、触れたいと思うのも全部、シュリアだからだ」
熱を帯びた瞳に見つめられる。
もう、戻れない。
シュリアは全身に熱が駆け巡るのを感じながら、どこか冷静にそう思った。




