25.手を繋ぐ
あの時、もっとちゃんとホーリーに話を聞いていればよかった。今更そう思っても、もう後の祭りだ。
今日は珍しく、ジルベルトとは外で待ち合わせている。ギルドに継続契約の話を聞きに行ったシュリアと、10時までは急な会議が入ったジルベルト。お互い終わり次第だが、11時頃に食品マーケットの屋台で落ち合おうということになっていた。お店はジルベルトがもう予約をしてくれているらしい。
新しく買ったセットアップの服に、ギルドに契約の話をしに行くからという言い訳のもと、薄くつけた化粧。立ち並ぶ店の大きな窓に自分が映るたび、変なところはないかチェックしながら歩いた。
もうすぐ食品マーケットだ。11時には少し早いが、彼はもう来ているだろうか。高鳴る胸と緩む頬を自覚しつつ、マーケットに足を踏み入れようとした時だった。
「シュリア! 久しぶりだな!」
元彼のダニエルだ。彼は満面の笑みを浮かべながらこちらに歩いてくる。
水色の前髪をふんわりと上げてサイドに流す髪型は、学生時代から変わっていない。少し垂れた青い瞳に、シュリアより少し高い身長、男性にしては細身の体。学生時代よりも自信に溢れた雰囲気が、服にも態度にも表れていた。
腕を掴まれそうになって、間一髪のところで避ける。途端にダニエルの顔が歪んだのが分かった。
「綺麗になったんじゃないか? 俺の為だろ?」
「……は? え?」
「もうお前の耳にも入ってるんだろ。もちろんガスリー商会に来てくれるよな?」
「何の話?」
最後はわざととぼけると、ダニエルはあからさまに舌打ちした。
「相変わらずとろいな、お前。お前が来やすいように、外堀から埋めてやってんのに。女1人でソロスペースなんかいつまでも出来る訳ないだろ。ガスリー商会で雇ってやるよ」
ケイトとホーリーに心の中で訂正した。嗅ぎまわっている訳でも、質の悪い噂でもない。彼自身が、そうなると勝手に決めて、色んなところで話をしていたようだ。
「行かないよ」
「はぁ? 何言ってんだ。卒業したら一緒に薬売りたいって言ってたろ! 王宮研究所落ちたお前が、1人でやれる訳ないんだから!」
「それでも行かない。じゃあね」
そんな16歳の時の、しかも付き合ったばかりで浮かれていた時の約束を持ち出さないで欲しい。王宮研究所に落ちたことを言わないで欲しい。そんな大きな声で。恥ずかしすぎる。
無視して去ろうとしてもついてくる。ちらちら刺さる視線が痛い。もう少しで屋台ゾーンだというのに。
「俺と別れてから誰とも付き合ってないってことは、まだ俺のこと好きなんだろ?」
「違うよ」
「意地張るなよ。俺が探すようになってから綺麗になったくせに」
「だから違うってば」
一向に進まない会話に苛立った頃、急に背中から包まれ、頭に重みを感じた。ふわりと鼻を掠める爽やかな香りは、よく知る――…
「シュリア、遅いから心配したよ」
「ジルさ…!?」
顔をシュリアの髪に埋めつつ、はっきりと放った声は蕩ける程甘い。シュリアは驚いて名前を呼ぼうにも、最後まで言い切ることができなかった。
(か、髪にキスされたかと思った…!)
ジルベルトは飄々とした顔で視線を前に移した。シュリアは固まったまま、顔だけでなく全身が熱くなるのが分かった。
「ん? シュリアの知り合い? あの人」
「えっ、そ、その…高等学校で付き合ってた…」
「ああ、あの」
まるで品定めをするように、意味ありげな視線を上から下へと動かす。とろりと下がっていた狐目はもう元に戻っている。強面だが整った精悍な顔付き。すらりと背は高く、引き締まって逞しい体。その姿に驚き固まっていたダニエルだったが、漸くはっとして口を開いた。
「あ、あんたこそ誰だ!」
「これは失礼。俺は第5騎士団員のジルベルト・グランヴィス。噂はかねがね」
シュリアは抱擁から解放されたと思いきや、すぐに肩を抱きかかえられた。貼り付けた様な外行きの笑顔を見て、やっとこれはジルベルトが助けてくれているのだと気付いた。
が、頭で分かっても顔と身体の熱は簡単には下がらない。
「な…っ! き、騎士団!? え、グ、グラ、グランヴィス…!? シュリアまさかこいつと付きあ…」
「そろそろ行こうか、シュリア。ランチの予約に遅れる」
「え、あ、う、うん」
ジルベルトはダニエルを無視するようにシュリアに向き合うと、思わず見惚れてしまいそうな優雅な笑みを浮かべ、流れる様な動きで左手を差し出した。顔が赤いままシュリアはそっと手を添えた。それを確認したジルベルトはすぐに彼から背を向けて歩き出す。
「おいシュリアちょっと待てよ! まだ話は…!」
「あんまり馴れ馴れしく話しかけないでもらえますか? 俺、結構嫉妬深いんで」
ジルベルトは振り返ると、綺麗な微笑を彼に投げかけた。但しタンザナイトの瞳は氷よりも冷たく、ダニエルは言葉のかわりに掠れた音を出しただけだった。
手を繋ぎ無言のまま歩を進める。2つ目の角を曲がったところで、前を歩いていたジルベルトが足を止めた。
「悪い…! 出しゃばった真似を…」
「や、ううん! 本当に助かった。ありがとう。というより、こちらこそごめん…」
「シュリアが謝る必要はないだろ? 一方的に絡まれていただけで…まさか、未練あったり…?」
「ない! 全くない!!」
先程までの大人の余裕たっぷり感は一瞬崩れたが、すぐに年上の顔を作って茶化す。シュリアもわざと拗ねるように言う。
お互い手を繋いでいることを、触れないように。
「自己紹介なんてしなくてよかったのに。ないとは思うけど、今後絡まれたり…」
「別に問題ないよ。そんなに度胸があるようにも思えなかったけど」
「それはそうだけど…その、誤解させるようなこと言わせちゃったし」
恋人だと誤解されたかもしれないし…とは決して口にはできなかった。
「そうか? 実際に、以前あいつの話はシュリアに聞いたし、ランチだって予約してる」
「確かに…そう言われれば…そうなんだけど」
そっちなのか。彼が引っ掛かったのはそっちなのかと、シュリアは恥ずかしくなった。
ジルベルトの事もなげな様子を見ると、まるで自分だけが意識しているみたいで。
シュリアはとりあえず深く考えることは止めた。下手したらマイナス思考に陥る可能性がある。
「それに…」
「それに?」
「俺、嘘はついてないから」
真っ直ぐ目を見て言われれば、シュリアはもう「そっか」としか言えなかった。
ちくりと痛む胸に蓋をする。
対処の仕方だって、切り上げ方だって、すごくスマートだった。慣れているのか、なんて考えちゃいけない。ちょっと演出が過度だった気がすることも。
「貴族も大変なんだね」
そう考えないと、落ち込むことは目に見えている。いや、現在進行形でみるみる気持ちがしぼんでいってるのが分かる。
困っているから助けてくれた。女神祭の時だってそうだったじゃないか。
貴族としてなのか、もしかしたら騎士としてなのかもしれない。
「ちょっと待て。シュリア絶対何か誤解してる」
「え? そうかな」
「貴族は関係な…」
「ちょ、ジルさん! もうこんな時間!」
「とりあえず急ごう!」
手を繋いだまま2人速足になる。お互いに分かっていても、何も言わない。
初めて繋いだ手と手。
シュリアにとっては少し、甘くて切ない記憶になった。
「最後に言った言葉も、嘘じゃないから」
彼の呟きは、誰にも届かず風に乗って消えた。




