24.噂
「え? は? それで付き合ってないの?」
さっきまでテンション高く根掘り葉掘り聞いていたケイトが急に冷静な声を出すものだから、シュリアはうぅっと言葉を詰まらせた。
今日は金曜日だが、ケイトの休みに合わせてバイトを雇った。前もってマーケットの運営に申請していれば、運営から派遣して貰えるのだ。
「だ、だって相手は貴族だよ? そんな簡単には…」
「別にすぐ結婚する訳でもないんだから、付き合っちゃえばいいじゃん」
「それはそうかもしれないけど…」
「シュリアって変なとこ臆病よね」
反論することが出来ないシュリアは、口を尖らせながら食後のコーヒーに手を伸ばした。
彼と付き合えたら、なんて何度も考えた。だけどどうしても尻込みしてしまうのだ。グランヴィス辺境伯なんて、歴史の教科書にも出てくる程の有名貴族だ。三男だからどうと言われても、庶民のシュリアにはいまいちピンとこない。
「うかうかしてたら誰かに取られるわよ」
「はい…」
「ま、シュリアから服買うの手伝って! なんて手紙来た時には何となく予想してたけど」
誰かが彼の横に並ぶなんて嫌だ。そう思うのに踏み出せないのは、今の関係がいつか壊れてしまうのが怖いからだ。
触れるだけじゃなくて、ちゃんと手を繋いでみたいと思う反面、進むともう後には戻れないと分かっている怖さ。
女友達とは違う。一度壊れると、もう元に戻ることは難しい。それならいっそこのままの方が…そう思ってしまうのだ。
それなのに、彼に会う度に好きという気持ちが強くなる。彼を想う熱は止めどなく湧き上がって、苦しくなる。
「そういえば、ソロスペース順調みたいね!」
「うん。今度ギルドにも置かせてもらえることになったよ」
「すごいじゃない! おめでとう!」
マーケットの売上はすこぶる順調だ。コーヒー風味の回復薬をかなり気に入ってくれた上級冒険者から、ギルドでの継続契約を提案してくれたのだ。ジルベルトのおかげで、第5騎士団員も直接マーケットに買いに来てくれたり、彼を通して購入してくれたりしている。
特によく購入してくれるのが、バーレットだ。彼はちょくちょく買いに来ては、従魔についてかなり詳しく教えてくれる。とてもありがたいのだが、シュリアは正直なところジルベルトから色々聞きたかった。けれどそんなことをどちらにも言える訳がなく、つい真面目にバーレットの話を聞く日々だ。
バーレットは、猟師の父親から教育の一環として従魔の訓練を受けたらしく、幼い頃から魔熊になれたらしい。あの時の緑色の魔熊だったとは、シュリアもかなり驚いた。
シュリアは以前、ジルベルトから従魔になる訓練についてちらりと聞いた時、騎士である彼がそこまで遠い目をするのだから自分には無理だと一度は諦めた。けれど従魔と魔獣が話せることがどうしても羨ましく、結局従魔について勉強を始めたのだ。やっぱりオリーブたちと直接話して、直接感想を聞きたい。
これもある種の現実逃避かもしれないが。
「ギルドで思い出した。なんかダニエルがシュリアのこと聞き回ってるらしいわよ」
「えええ、何で?」
「薬が売れてるからとか? なんでも彼が商会の薬部門を任されてるらしいから」
「ふぅん」
ダニエルとはシュリアの元彼の名前だ。ガスリー商会というダニエルの父親が営む商会の跡取りで、シュリアと同じ高等学校で薬学科に所属していた。
ちらほらと自分の周りでカップルが出来た学園祭前。シュリアも例に漏れず、ダニエルからの告白で付き合った。自分にはない自信満々なところや、少し強引なところに惹かれたが、少し男尊女卑なきらいがあった。それに嫌気が差したシュリアだったが、最終的に、学食に自家製バジルソースをかけたシュリアにダニエルが切れて罵倒し、その場で振られた。その場に残されたシュリアはかなり注目の的となり、その後暫くは恥ずかしくて食堂に通えなかった。
久しぶりのケイトとの買い物はとても楽しかった。結局シュリアは、サイドに赤色のチェック柄が入った黒いセットアップと、レースがポイントの生成りのカーディガンを買った。手持ちの服を全て知っていると言っても過言じゃないケイトからアドバイスをもらい、最後はシュリアが決めた。来週ジルベルトと会う時はどれを着よう、と今から悩み出す。楽しい悩みだ。
ケイトと別れた後、生活用品マーケットをぶらついた後、容器専門店に寄った。両方ジルベルトを意識する前に一緒に立ち寄った場所だ。今まで何度も通った道なのに、あの時のたった1回の思い出で、こんなに心躍る道になるなんてシュリアは初めて知った。降る雪さえ輝いて見えるから不思議だ。
馬車だってそうだ。今日は1人なのに、つい座面に手を置いてしまい、1人で大いに慌て、恥ずかしくなった。
ジルベルトと横並びに座って、お互いの小指だけが触れる。他に乗客がいる時だけ絡められる小指は、まるで秘密のゲームのようでドキドキした。心臓が痛いくらいに鼓動するのに、シュリアは期待しながら手を置いてしまう。苦しい程の動悸が襲ってくると分かっているのに止められない。
「ウォルナッツさん!」
急に後ろから声をかけられ、シュリアの淡い色の回想は一時中断せざるを得なかった。先程までとは違うドキドキに襲われた。
この壮年の声には聞き覚えがある。立ち止まって振り返ると、そこには想像通りの人物が、少し顔色悪く立っていた。
「ホーリーさん…」
「驚かせてごめんよ。その…元気かい?」
「はい。あの時は我儘を言って急に辞めてすみません」
「いや、いいんだ! こちらこそ、その…悪かったね」
ホーリーの言葉に、シュリアは少し目を見開いた。ばつの悪そうな顔を見て、なぜかシュリアの方が焦ってしまう。
「あ、あの! どうかされましたか?」
「あ、ああ、いや、その…ちょっと噂を耳にしたものだから」
「噂ですか?」
2人で道の端に寄る。立ち話もなんだから、なんていう言葉はどちらの口からもついぞ出てこなかった。
ホーリーは頬を掻くと、意を決したように口を開いた。
「ガスリー商会専属薬師になるって、本当かい?」
「……はい?」
思いもよらなかった言葉に、シュリアは一瞬意味が分からなかった。ガスリー商会という単語自体は、今日の昼に聞いて思い出したばかりだ。それが一体いつどこでどうなって、そうなったのか。シュリアは誰が見ても分かる程に混乱の色を浮かべた。
「すみません。初耳です」
「ああ、良かった。それなら質の悪い噂だね。あそこは止めた方がいい。安月給で有名なんだ」
まさか同級生、しかも元彼の実家ですとも言えず、シュリアはただ頷いた。それを見たホーリーは幾ばくか顔色が良くなったように見えた。一瞬だけ。
「ウォルナッツさん、本当はその…気付いてしまったんだろう? どうしても息子の結婚式費用が足りなくて…本当にすまな」
「ホーリーさん!あの、私…」
ついホーリーの言葉を遮ってしまった。何を言おうとした訳でもないのに。今となってはもう、怒っているとか謝ってほしいとか、そういうのじゃないのだ。
「私、最初のレンタルスペースがホーリーさんの所で良かったと思っています」
「…え? いや、しかし…」
「3ヶ月間だけでしたけど、思い出すのは励ましてくれたことばかりです。本当にありがとうございました」
もしかしたら、今のソロスペースが上手くいっているからこう思うのかもしれない。いや、単にいい子ぶっているだけかもしれない。
それでも少し安堵したような顔のホーリーを見て、シュリアの中のわだかまりのようなものが晴れた気がした。
もう、これでいいのだと。
シュリアは漸くすっきりした気分でホーリーと別れることが出来た。彼から聞いた噂のことなどすっかり忘れ、足取り軽く家路についたのだった。




