23.悩み
ジルベルト視点です。
王都の中心部であるマーケットに着いたものの、シュリアはどんな顔をしていいか分からなかった。ジルベルトが先に出ようと立ち上がり、小指が離れる。シュリアは漸く深く息が出来た気がした。
シュリアも続いて馬車を降りようとして、またしても差し出された手に緊張しながらも、手を乗せた。あぁ、先に手汗を拭けばよかった。
馬車を降り、何事もなかったかのように横を並んで歩く。お互いの耳に朱が差したままでも、それは寒さのせいにされた。
決して多くない人混みの中で、時折指と指が触れる。分かっていながら、2人はそれ以上離れることをしなかった。
その日の帰りも、その次にごはんを食べに出掛けた時も、同じ様に。手を繋ぐ訳でもなく、ただ触れるだけの指。その次の時も、その次も。
何も言わない。顔にも出さない。周りに、自分に隠すように、平静を装いながら。
「初等学生かお前ら」
ジルベルトの話をうんざりした顔で聞いていたアルノールが、吐き捨てるように呟いた。聞かれたから答えたのにと顔を顰めたジルベルトは、ベッドの上で胡座を掻き直した。
「その調子ならもっと押せばいけるだろ。それでも男か、お前は」
「仕方ないだろう。シュリアはまだ、俺が貴族出身なことを気にしてるんだから」
「普通喜びそうなもんだろうに。シュリアちゃんってやっぱり変わってるよな。まぁ、従魔になりたいなんて普通じゃ言わないか」
そうなのだ。最近シュリアは従魔についての本を読み漁っている。もしかして自分と同じだから従魔になりたいのかと喜んだが、よくよく聞くとそうではなかった。その時の何とも言えない気持ちといったらない。どうやら従魔が魔獣になっても、そう味覚は変わらないというのが第5騎士団の協力で分かり、それなら自分も従魔になって直接魔獣に聞きたいという理由だった。
第5騎士団の協力も、ジルベルトは最初かなり渋った。隊長を含める多くの隊員もシュリアの薬を買いたいと熱望し、シュリアも快諾したというのに。彼女の売上に貢献できると分かっているのに。
はっきりした理由は分からないが、ただ何となく嫌だったのだ。子供が偶然見つけた甘い花の蜜を、こっそり隠して自分だけの秘密にしたいような気分だった。しかし結局、
「ジルさんの願掛けクッキーのおかげかな。ありがとう」
この一言にジルベルトが折れた。
最初は実験台にさせてもらうからお金はいらないと言っていたシュリアに、変に賄賂だと思われないようにと説得して、結局今回に限りレポート提出を条件に、相場の半額で売ってもらうことになった。もちろん隊員たちのポケットマネーからの購入だった為、隊員たち、特に妻帯者の隊員たちからは大いに喜ばれた。回復薬の配給はあるが隊毎の配給数が決まっており、足りなくなると自腹になることも多い。回復術士ももちろんいるが、回復薬の方が手っ取り早いと、その数は年々減っている。
シュリアが第5騎士団の為に用意してくれた回復薬は、ジルベルトの好きな柑橘系風味とアルノールの好きな紅茶風味に加え、コーヒー風味にミント風味、ヨーグルト風味まであった。購入を希望した隊員はそれぞれお気に入りの味を見つけた者も多く、今後直接購入するにはどこに行けばいいかという問い合わせが多かった為、シュリアは急遽名刺を作ることになった。もちろん最初の1枚はジルベルトが死守したことは言うまでもない。
その中でも1番熱心に購入しているのがバーレットだ。ジルベルトが初めてシュリアに会ったあの日、彼女に向かって吠えた緑色の魔熊、それが彼だ。
そしてジルベルトの目下の悩みでもある。
猟師の息子で、唯一入隊前から従魔だった男。口の悪さと思い込みの激しさを除けば、情に厚く戦闘能力も高い、頼りになる良い奴だ。
そういえば、あの森でシュリアに出会うまでは、アルノールと3人でよく飲みに行った。あれから彼は1人で考え事をしていることが多く、そうかと思えば、ジルベルトにきつく当たることもあった。
誰よりも沢山購入したにも拘らず、マーケットにもちょくちょく来ては買っていってくれると、この前シュリアから聞いた。
「のんびりしてたら、横から掻っ攫われるぞ」
「…分かってる」
ジルベルトは腕を組み、眉間の皺を深くする。
どう考えても、バーレットがシュリアを狙っているようにしか見えないのだ。バーレットは買いに行く度に従魔について教えてくれると言っていた。それも嬉しそうに。
正直、気が気でない。
もし彼女が、彼を好きになったら。彼は自分と違って貴族出身でもない。自分と違って、何の邪魔もない。
苦しい。
少しずつ、シュリアも自分を意識してくれていると分かるのに。
笑顔を見る度に、照れた顔を見る度に、触れる度に、思い出す度に、好きという気持ちは強くなるのに。
もっと触れたい。自分だけを見て欲しい。想いを告げてしまいたい。
そう思うだけで、こんなに苦しくなるなんて。こんなに怖くなるなんて。
「あの本、もう1回借りてきてやろうか?」
「勘弁してくれ」
確かに今は、あの本の言うところの「落ちている最中」なのか「落ち切った後」なのか。一瞬気になったものの、そんなことはどうでも良かった。
さて、問題は彼なのか、自分なのか。
「ところであのご令嬢はどうなった? あの偽婚約者」
「あぁ。もう可笑しなことはしないだろう」
「何かしたのか?」
「いや、一番上の兄貴に偶然会った時に少し話をしただけだ。『将来を前向きに考えようと思っていたのに、あんなことが今後も起きるならやっぱり独り身を貫く』と。」
「そりゃ効果抜群だな」
兄2人は過保護とも言える程にジルベルトを気にかけている。父の分を補おうとするかのように。
父は、女の子が欲しかったらしい。
この国の貴族は、嫡男に全てを相続させるのが一般的だ。次男はスペア。三男以下は所詮その他だ。
父の期待以上に長男も次男も優秀だった。軍部の幹部である父は、ゆくゆくはそのポジションまでも長男に引き継がせ、次男は領主代行もしくは補佐にしようと、長兄が6歳の時には決めたらしい。それほど2人が優秀だったといえる。その後に生まれたジルベルトを見て、心底がっかりしたと後に自ら語った。
母は、元から自分しか愛せない女であった。
高級なドレスや宝石をいつも身に纏い、注目されることが生き甲斐のような人だった。病気で若くして亡くなってしまったが、最後までとても豪奢な美人だったと思う。ただ、ジルベルトは最後まで母のきつい香水の匂いが好きになれなかった。
愛情は全て兄たちから貰ったと言っても過言ではない。
その兄たちにも、婚約者候補から心変わりされる度に――それが兄たちのせいではないと分かっていてはいても――、歪んだ気持ちを抱えたことは何度もあった。
人の目があれば、三男も大切な息子であるかのように振舞う父も、自分を通して兄たちを想う令嬢たちも。時には兄たちでさえも。腹の中では違うことを考えながら表情にはおくびにも出さない貴族が、苦手だった。
ジルベルトはどうしても自分には馴染めないと気付いた時、初めて三男でよかったと思った。その他が庶民や一騎士に落ちることは良くあることだ。
そして従魔だ。まるで魔獣の血が入ってしまうとでも言うように、従魔であると告げればすぐに話は流れた。
最近ではその従魔でさえよかったと思っている。彼女に会えたのだから。
ともあれ、今はバーレットだ。
次こそ手を繋ぐと意気込むジルベルトを見て、アルノールは今日1番の溜息をついた。




