22.海2
シュリアは何て返答したものか悩んでいた。
良かった。それが本当なら。
うん分かった、でいいじゃないか。そうなんだ、と返事をすれば。何を言い淀んでいるんだろう。彼が否定しているんだから。
そもそも、疑う権利すらないのに。
「信じられない?」
「そういう訳じゃ…」
「ならこっち見て」
ゆるゆると顔を上げると、真剣な顔をしたジルベルトと目が合った。私は今どんな顔をしているんだろう。彼の瞳を覗いてみても、それは全く分からなかった。
「シュリア」
視線を外すタイミングを失ったシュリアは、不意に包まれた自分の手の感覚に驚いて、びくりと肩を揺らした。
「俺が触れるのは嫌か?」
「ち、違う、そうじゃ…驚いただけで…」
寂しそうに微笑むジルベルトを見て、慌てて否定する。
重ねられた手の甲が、顔が、熱い。
波の音で掻き消されそうな小さな声。ジルベルトにもちゃんと届いているか不安になる程に、頼りない声しか出なかった。砂浜を削る海の鳴き声が、耳のすぐ近くで聞こえる気がする。
「今は信じてくれなくてもいい。ただ、全部話すから聞いて欲しい」
「…うん」
グランヴィス伯爵家にモーリック伯爵家から婚約の打診があったのが3年前。
ジルベルトは三男なので、婿入りの話かと思ったがそうではなく、向こうが嫁入りするという話だった。不思議に思いながら会ってみると、理由はすぐに判明した。その伯爵令嬢の本当の狙いは、ジルベルトの次兄であるグレイアムだった。
当時15歳であった彼女は、幼い頃から恋情を抱いていたグレイアムに少しでも近付く為なら何でもする、と言って憚らなかった。次兄の当時の婚約者、現在の妻にも幾度となく嫌がらせを行っていたということは後から知った。
当然断ることになるのだが、醜聞を恐れたモーリック伯爵が先手を打って申し込み自体を取り消してきた。そういう経緯があったにも拘らず、半年に一度のペースでまだ打診が来ると長兄から聞いた。そもそもグランヴィス家は伯爵家といえども辺境伯だ。モーリック伯爵家の失礼な態度に父は憤りを通り越して呆れ果て、その度に抗議文を送るのだが、娘への甘さ故なのか、未だに忘れた頃に打診してくるから厄介だ。
それらを聞き終えた頃、シュリアはただただ唖然とすることしか出来なかった。
ジルベルトが伯爵家、それも辺境伯だったこと。あの令嬢が伯爵令嬢だったこと。その2つが吹き飛ぶ程、モーリック伯爵家の鋼のような精神状態に開いた口が塞がらなかった。
今度こそシュリアは、ジルベルトを信じた。彼のどんどんうんざりしていく表情を見ている内に、不思議とすんなりと信じることが出来たのだ。
直々に伯爵家に呼び出されなかった理由も分かった。公に抗議なんてできる訳がないのだから。
同時に申し訳なくなった。
そんな破天荒な令嬢と知らなかったとはいえ、少しでも信じてしまったことに。
「そんなことがあって以来、婚約者どころか恋人だっていない。魔付きだからっていうのもあるが」
「なんか…その、ごめんなさい」
「いや、信じてくれたならそれでいい。何なら向こうが取り下げてきた手紙を持ってきてもいい。証言してくれる人を連れてきても…」
「ううん、信じたから。そこまでしなくていいから!」
ぐっと手を握られる。すっかり手のことを忘れていたシュリアは大いに慌てた。手と顔に熱が戻ってくるというのに、ジルベルトは手も視線も、放してくれることはなかった。
「シュリアに信じてもらう為なら何でもする。すぐに説明しなくてごめん」
「う、ううん、私こそ、ごめん」
「すっかりコーヒーが冷めたな。新しくもらってこようか?」
シュリアは首を横に振るだけで精一杯だった。ふと離された手に、シュリアはほっとしたような、少しだけ寂しいような、なんとも言い難い気持ちになった。
冷たくなったコーヒーを口にしながら、黒い海を見る。
味がしない。心臓が煩い。顔が熱い。
「シュリアはいないのか? その、元彼とか」
危うくコーヒーを喉に詰まらせるところだった。
意味が分からない。いや、言っている意味は分かるが、頭が正しく処理できない。今聞く話なのか。話の流れ的にはおかしくはないのかもしれないが、いやでも…
「恋人はいないと言っていたけど、まだ好きだったり…」
「違う! ないない! 付き合ったって言っても半年も続かなかったし、もう2年近くも前で…」
「この前マーケットで会った彼?」
「あの人はほんとにただの同級生で……って、なんかジルさん面白がってるでしょ」
勘違いしてほしくなくて慌てて、馬鹿正直に答えてまた慌てて。
くつくつと大人の顔で笑うジルベルトを見て、シュリアは悔しくなって赤い顔のまま睨んだ。彼なりにこの気まずい空気を換えようとしているのが分かったから。シュリアもただそれに乗ることにした。
「テストの点数が私の方が高くって。順位表見た瞬間『女は常に男を立てるべきだ!』って言われて段々冷めちゃった」
「男の、というか人の風上にも置けない奴だな」
「どうせ見る目ありませんよ」
「それならおすすめがあるぞ。俺なんかどうかな?」
「はいはい」
「本当なのに」
「はいはい」
余裕綽々の笑顔に、おざなりに答える。
空気が変わった。さっきまでのとも、意識する前のとも違う空気。
少しだけ擽ったい、程よい距離。
今はまだ、このままがいい。
「そういえば、籠の中身って何だろう」
「開けてみよう」
案内人から受け取ったかごを漸く開ける。中に入っていたのは、アンケート用紙と大きなハートの形をしたクッキーが2枚、3色のチョコペンに説明書が1枚だった。どうやらこのチョコペンを使ってクッキーに新年の願い事を書き、それを念じながら食べると願いが叶う、というものだった。
要は願掛けだ。シュリアは何を書こうか考えていると、ジルベルトは迷わず白のチョコペンを手に取った。
「ジルさん、もう決まったの?」
「ああ。“シュリアの商売繁盛”」
「え、それなら私は“ジルさんの一路平安”にしようかな」
「それは嬉しいな」
茶色のチョコペンを使って、なるべく丁寧に願い事を書く。
余っているピンクのチョコペンで、型に沿って装飾しようとして止めた。よく考えるとジルベルトの名前も書かれたものをハートで囲むことになる。
恥ずかしすぎる。無理だ。
アイスコーヒーと化したコーヒーと共にクッキーを食べ、昼はマーケット周辺に戻って食べようと自然に決まった。アンケートを記入して、説明された通りランタンを消さずに表に出す。どうやらそれが片付けていないという合図になるようだ。
歩き出そうとした時、ジルベルトから待ったがかかった。そうして腕を差し出される。
「俺に触れるのは、嫌?」
「…なんかズルい言い方」
嬉しそうに笑うジルベルトに、失礼しますと言って手を添えた。ドキドキする。赤くなっているはずの顔を見られないように、海を見ながら歩いた。
少しだけ、水面が輝いて見えた。
帰りの馬車も貸し切りだった。自然と横に座ったジルベルトに、何か言おうとして止めた。
ゆっくりと海沿いを走る馬車の中は静かだ。それでも行きとは違って気まずくなかった。来年にはイベントが大好きな若いカップルで大盛況になっていそうだ。屋台も出ると楽しそうだとアンケートにも書いた。来年も来られるだろうか。
彼と一緒に。
がたん、と大きく馬車が揺れた。行きと同じ場所だと気付いた時には遅かった。またしても座面を掴もうとして、小指と小指が触れた。
触れるのも触れられるのも嫌じゃないと答えた手前、行きのように手を離すのを躊躇ってしまった。そうして、離すタイミングを完全に失ってしまったシュリアは、視線を外に向けたまま固まった。
触れた小指が熱い。
どうしよう。どうしようしか浮かばない。手汗が酷い。呼吸どころか瞬きすら意識しないと出来ない。
つと動いたジルベルトの小指を認識したのも束の間、その小指が絡められた。
心臓が止まったかと思った。次の瞬間早鐘のように轟いた。自分の鼓動の音しか聞こえない。蹄の音も、車輪の音も。固まったまま、ただ体中に響くバクバクという音を聞く。窓の外の景色を見ても、何も目には映らない。
痛い程の主張する心臓。御者に到着を知らされるまで、2人の小指は絡まったままだった。




