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薬師と従魔  作者: 春夏しゅん
本編
21/47

21.海1

 年明け最初の火曜日。

 シュリアは前回とは違うそわそわ――不安が強く入り混じった落ち着かなさを抱えながら過ごしていた。


 会いたい気持ちと会いたくない気持ちは丁度半々。日によってその比率はまちまちで、どちらにしろ胸の奥から込み上げてくる感情を抑える日々だった。そんな日々も、きっと今日で終わりだろう。明日になれば、いや夜になれば、大泣きしているか安堵しているか、きっとどちらかだ。


 それなのに、目下の悩みが服だとは。あと30分程で約束の時間だというのに、服が決まらない。どれもこれも彼の横に立つには相応しくない気がして、あまり持っていない服を何度も鏡の前で比べた。


 上着は?靴は?化粧は?今までしてなかったのに、急に化粧したら変に思われるかもしれない。髪は?まず服が決まらないのに、髪型なんて。ああ、時間が足りない!


 結局いつもと変わらない服装に化粧や凝った髪型もなしという、諦めに近い格好になったのは待ち合わせ5分前だ。深呼吸を何度か繰り返して、再度鏡を見てから玄関の扉を開いた。



 一方ジルベルトも魔狼に変身したままそわそわしていた。約束の時間まであと30分以上もあるというのに、既に湖が見える位置にいた。彼もまた、久しぶりにシュリアに会うことに緊張していた。


 3週間振りに会う。初めて会った時から、こんなに顔を合わせなかったことはない。この間に心変わりというか、自分への感情が軽蔑に変わっていたら、違う男――例えばこの前の同級生とかからアプローチされていたら?まずは誤解を解かないと。やっぱり先に手紙でも書いておくべきだったか。それより新年の挨拶が先だ。そのあとすぐ話を…いや、それだと立ったままになる――…


『オマエ、さっきカラ、何してル?』

『落ち着こうと…』

『効果、ナシ!』

『煩いな』


 オリーブとはモーリック伯爵令嬢のことを少し話し、手を出すことは駄目だと話した。不服そうなオリーブだったが、シュリアが魔獣に指示をして貴族に暴力を奮ったなんていう話にでもなったら大変だ。向こうに付け入る隙を与えるのは得策ではないと伝えると、彼は渋々ながらも頷いた。貴族と庶民では、貴族が圧倒的に有利だ。

 ジルベルトは変身を解いた。魔狼のままだと時間が分からないからだ。腕時計を見ると10分前を指している。少し早足でシュリアの家へと向かった。



「シュリア、新年おめでとう。今年もよろしくな」

「おめでとう、ジルさん。待たせた?」

「…いや、俺も今来たところだよ」


 よろしくと返せなかったのは、シュリアの真面目さ故だった。今日でもう会うことはなくなるかもしれない。その思いが頭をちらついて離れない。


 少しの沈黙。

 2人とも必死に頭を働かせて話題を探そうとする。


「とりあえず、行こうか」

「そう言えばどこに行くの?」

「海岸に行こうと思うんだが、寒いかもしれない。マフラーでも持ってくるか?」


 マフラーは鞄に入っていることを伝え、とりあえず乗り合い馬車の停留所へと向かう。海行の小さな馬車は2人以外におらず、すぐに発車すると言われた。シュリアも行き先を聞いた時は驚いた。

 ジルベルトに訳を尋ねようとした時、御者が前の窓から顔を出した。


「すまないが並んで座ってくれるか?荷物を載せたいんだ」

「分かった」

「悪いね。なんせ今年から海で何やらイベントしてるらしくて…もしかして2人もそうかい?」

「ああ」


 ジルベルトが何でもない顔でシュリアの横に座り直すと、すぐに大きな布が何枚も運び入れられた。

 向かい合うのも恥ずかしかったが、並んで座るのは近くてより緊張する。シュリアは一生懸命自分の意識を横から離そうとした。


「何かイベントがあるんだね」

「俺も詳しくはないんだが…実はそうらしい」


 冬は見向きもされない海岸で新たに新年のイベントを流行らせたいという主旨のものらしく、まだまだ知る人は一部だと聞いた。ジルベルトも詳しくは知らないそうで、魔梟のアルノールに教えて貰ったと言う。シュリアの勝手なイメージではあるが、何となく彼はそういうことに詳しそうだ。


 横並びだと視線を合わせなくて済むので気が楽かもしれない、とシュリアは思った。彼の綺麗な瞳も端正な顔も、直視するには心臓に悪い。


 王宮前の道はきちんと舗装されていて快適だったが、海岸沿いになると揺れるようになった。強くなった潮の匂いと海の音。久しぶりに感じるそれらに目を細めていたシュリアだったが、不意に馬車が大きく揺れた。慌てて座面を掴むと、既にそこにあったジルベルトの小指に彼女のそれが触れた。


「ご、ごめん!」

「いや…気にするな」


 シュリアは勢いよく手を離して謝った。顔に熱が集まったせいで顔が上げられない。

 前言撤回。こういうハプニングがあるのなら、横並びも心臓に悪い。

 さっきまで感じていた潮の匂いも今はしない。海の音すら耳には届かない。


 気不味い時間が訪れる。実際には10分もなかったが、2人には途轍もなく長い時間に感じた。



「着いたぞ。狭くて不便かけたな」


 御者の声にはっと顔を上げる。外を眺めていたはずなのに、全く気付かなかった。

 窓の外に広がるのは黒々とした冬の海。その手前の砂浜には小さな三角のテントがいくつも並べられている。


「足下気を付けて」

「う、うん。ありがとう」


 先に降りたジルベルトが手を差し出してくれた。その手を取らないのも不自然かと思い、シュリアは緊張しつつ恐る恐る手を添えた。温かくて大きな手。見ないように下を向いていたシュリアは、ジルベルトがほっとした表情になったことに気付かなかった。


「あそこで受付するらしい」


 停留所から一番近くて一際大きなテントを指すジルベルト。シュリアは砂浜に足を取られないように慎重についていった。

 受付を済ませ、案内人についていく。砂浜に3列きちんと並べられた小さいテント――ティピーという印国のものを模したものらしいそれは、放射状に組み上げた木組みのまわりに布を巻き付けて、中には小さなテーブルと椅子が置いてある。今はまだ空きがあるようで、ちらほらとしか利用客はいなかった。利用中でないテントの前はランタンがあり、どうやらそれが目印のようだ。


「シュリア、歩きにくいなら手を貸そうか?」

「大丈夫! ありがとう」


 シュリアはしまったと思った。

 勢いよく断りすぎた気がする。いやだって、相手は婚約者のいる身かもしれない。それを今日は確かめる為に会う約束をしたというのに。そもそもここまでほいほいついてきて良かったのか。少ないとはいえ、利用客はカップルばかりだ。でも会ってすぐにそんな話はできないし…ならいつ話し出せばいいんだろう。


 ぐるぐると考えを巡らせていると、案内人の足が止まり、中に入るように促された。海に向かって横並びに座ると、案内人が手際よくランタン火を灯す。頭上に提げたランタンを見ながらいくつか説明を受けた。

 どうやらまだプレオープンという形らしく、帰る前にはアンケート記入があるそうだ。最後に渡された籠の中にその用紙も入っていると言っていた。


 受付でお願いしたホットコーヒーが2杯運ばれてくると、2人の間にはまたしても沈黙が支配した。聞こえるのは波の音だけ。冷たい風を遮るテントとランタンのおかげで寒くはないのに、冷え冷えとした空気に感じる。シュリアは不意に泣きたい気持ちになった。


 先に口を開いたのはジルベルトの方だった。


「…オリーブから聞いた。モーリック伯爵令嬢が来た、と」


 シュリアは息をのんだ。オリーブはどこまで知っていて、彼にどこまで話したのだろう。別に嘘をついていた訳でもないのに、後ろめたさが心を重くする。視線を忙しく彷徨わせながら、ただ彼の言葉を待った。


「俺の婚約者だと言っていたと聞いたが、合っているか?」

「…うん、そう聞いた」

「彼女は婚約者でも何でもない。信じて欲しい」


 顔を上げて真っ直ぐにジルベルトを見たシュリアの瞳が揺れている。ジルベルトは不意に抱き締めたい衝動に駆られ、それを必死で抑え込んだ。

 けれど途端に逸らされた視線に、ジルベルトは掌をただきつく握った。シュリアが完全には信じていないと分かってしまったから。



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