18.恐怖の手紙
女神祭が終わり、シュリアは定休日にしている火曜日にも店を開けた。色々な味の回復薬はお金のある上級冒険者にウケたらしく、味をリクエストしていく人もいた。
朝から仕事をして、家に帰ってからは研究に勤しむ。常に何かに没頭していれば、余計なことを考えずに済んだ。幸い試してみたい案は沢山あった。
ジルベルトにはあれから会っていない。少し遠出の任務があるらしく、今年最後の火曜日にまた来てくれると言っていた。オレンジピールのクッキーは結局自分で食べた。
カレンダーやあの造花の薔薇を見る度に浮足立った様な気持ちになりながらも、シュリアはいつもの様に仕事を終え、雪が薄っすらと積もったレンガ道を早足で帰った。王都の冬は寒さは厳しいものの、雪はさほど多くない。ポストを見ると、珍しく手紙が入っていた。部屋に入って暖をとりながら、母からだろうかと手を伸ばして、すぐさま否定した。ひと目見ただけでも高級紙だと分かる手紙。
またジルベルトからかと緩む頬のまま送り主の名前を見て固まった。卒倒しなかった自分を褒めてやりたいとさえ思った。しつこく確認したが、何度見ても宛名は自分の名前で、送り主はキャロル・モーリックという名前だった。
立派な封蠟の紋章は、どうみても貴族のそれだ。冠が見えないということは、恐らくモーリック伯爵本人以外の誰かから送られてきたと見て間違いないだろう。けれど手紙を送られる理由が皆目見当つかない。
シュリアは慎重に封を切った。震えるのは寒さのせいではない。分厚い上質な紙に書かれた文は短かった。が、シュリアを震え上がらせるには充分なものだった。
『明日月曜日の10時、話があるので家にいるように』
シュリアは原因をあれこれ考えたが、やっぱり浮かばないまま朝を迎えた。始発の乗り合い馬車に合わせて家を出て、ソロスペースに『本日休み』の札を掛けてまた家へと戻った。用が分からないので、予定が立てられない。
とりあえず出来る範囲の掃除をして、この家で1番小綺麗なティーカップセットをキッチンに出して、はたと気付いた。
お茶を出す様な空気になると思えない。
手紙のあの一文を見てから、何度考えても悪いイメージ――叱責される、謝罪を要求される、そんな自分の姿しか浮かばないのだ。シュリアは急いでオリーブの姿を探しに外へ出た。
「オリーブ! ごめん、すぐ来て! お願い!」
「カア!」
文字通り飛んできたオリーブに抱き着くと、少しだけ深く息が吸えた気がする。オリーブは珍しく動揺しているように見えたが、シュリアはそれを無視して暫く顔を埋めたままでいた。
「ごめんね、急に。何でもないんだけど、何でもないこともなくて…何でもないといいんだけど」
「カア?」
「これから知らない貴族の人がここに来るみたいなんだけど、理由が分からなくて不安なの。驚かせてごめん。ああ、憂鬱」
オリーブは呆れたのか、力を抜いたのが分かった。何だそれと言われた気がして、シュリアも少し肩の力が抜けた。
それも一瞬だけだった。
門の鐘が聞こえる。そしてすぐに、それに連動している家の中の鐘が鳴った。
「来た。もう来ちゃった」
血の気が引く思いのまま、ふらふらと門へと向かう。屋根部分だけ見えていた馬車が段々と露わになっていくと、シュリアの歩みはどんどん重くなっていった。
パレードでしか見たことがないような大きくて立派な馬車だ。艶々と輝く黒い車体に、控え目に散りばめられた銀色の装飾。汚れのない窓の中には分厚いカーテンがあり、誰が乗っているか分からない。馬車の前には執事の格好をした姿勢の良い老人が立っていた。この人が鐘を鳴らしたのだろう。
シュリアは深呼吸した。
「お待たせしてすみません。シュリアリース・ウォルナッツです」
「お出迎えありがとうございます。キャロルお嬢様、いらっしゃいましたよ」
お嬢様!
シュリアはいよいよ訪問理由が分からなくなった。こんな寒空の下、貴族令嬢がわざわざ庶民の家に出向くなんて。呼び出された方がまだ分かる気がする。
シュリアの緊張を余所に、馬車の扉がゆっくりと開いた。恭しく差し出した老執事の手を取って出てきたのは、絵に描いたような貴族令嬢だった。
キラキラと輝く縦ロールの金髪、透き通るような白い肌に映えるマゼンダの瞳は勝ち気そうにつり上がっている。真っ白い上質の毛皮のコートには、これまた立派なファーが惜しげもなく付いている。それがすぐにとても高価な魔白兔のものだと分かったシュリアは、あれだけあればあの薬はいくつ作れるだろうと考えた。
「ねぇ、寒いんだけど。さっさと中に通してちょうだい」
「あ、すみません!つい(毛皮に)見惚れていました」
シュリアが謝ると、彼女は満更でもなさそうにフフンと鼻を鳴らした。シュリアが前を歩くが、案内する程でもない距離なのであっという間に家に着く。
年季の入った玄関扉を開けると、たちまち暖かい空気が外へ逃げていく。金髪の貴族令嬢と老執事が中に入ったのを確認して、シュリアは出来るだけゆっくりと丁寧に扉を閉めた。
「ぜひ、暖炉の前に…」
「ここで結構よ」
執事にコートを手渡しながらぴしゃりと言い切る令嬢は、次いでシュリアを値踏みする様に視線を上下に動かした。シュリアは首を竦める思いだった。オーラなのか、圧を感じる。
彼女が動く度に波打つ黄金の髪と、濃い香水の香り。瞳の色と同じマゼンタのドレスは、庶民では見ない豪勢な作りだ。
「貴女が、シュリアリース・ウォルナッツ?」
「は、はい。すみません。自己紹介もせず…ご無礼をお許し下さい」
「まぁ、いいわ。わたくしはキャロル・モーリック。単刀直入に言うわ」
そこで言葉を切ったキャロル嬢が、つり目を更に鋭く吊り上げて睨む。シュリアはもうそれだけで、理由もないが先に謝りたくなった。
「貴女、ジルベルト様の何ですの?」
「……はい?」
まさかジルベルトの名前が出てくるとは思わず、シュリアは面食らった。しかし彼女は至って真剣らしく、シュリアの反応に余計に鋭い視線を投げつけた。つい視線を彼女の執事に移したが、彼の表情は門の前から何一つ変わっていない。
「何、と仰られましても…」
「まさか恋人だなんて言わないわよね?」
「まさか!その、友達です」
「ふん、そうよね。彼は貴族だもの。貴女とは違って」
思わず床を見る。事実を告げられただけなのに、ちくりと胸が痛んだ。目を伏せたシュリアに、令嬢は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
そしてシュリアが視線を彼女に戻すのを待ってから、真っ赤な紅を引いた唇をゆっくりと開いた。
「わたくし、彼の婚約者ですの」
時が止まったかのように、シュリアは何も出来なくなった。
瞬きも、呼吸さえも忘れ、ただただ立っているだけで精一杯だった。
「彼からわたくしのことは聞いてないの?」
「……はい」
「あら、何も教えてもらってないのね。まぁ仕方のないことですわ。所詮、独身中のおいたでしょうし」
自分が今どんな顔をしているかも分からない。
辛うじて答えた返事は、自分でも驚く程に頼りない声だった。
「分かっているとは思うけど、くれぐれも彼に本気になったりしないでちょうだい。貴女と彼は住む世界が違うの。それが貴女の為よ」
彼女は返事も聞かずに帰っていった。いや、自分が気付かなかっただけかもしれない。いつの間にか2人の姿は消えていた。
シュリアはまだ茫然と立ち尽くしていた。
コンコンコン
遠慮気味に窓を叩くオリーブ。覚束ない足取りで玄関扉を開けると、冷たい空気と共にオリーブが滑り込んできた。おやつもないのに部屋に入るなんて珍しいなと頭の隅で考えながらも手を伸ばすと、彼はすんなり腕の中に納まってくれた。
信じられない。
さっきからそれしか浮かばない。あのジルベルトに婚約者がいただなんて。
いや、正確には、婚約者がいる身でありながら別の女に会いに来るようなことを彼がするなんて。
それなら彼女が嘘を?
それとも、また私が騙されている?
だからと言って、確かめたところでどうなるというのだろう。
恋人でも何でもない。ましてや、彼と私は貴族と庶民だ。彼女の言う通り。
『貴女と彼は住む世界が違うの』
オリーブを抱き締める手に力が籠る。詰まった胸から熱がせり上がる。視界がゆらゆらとぼやけていく。
まだ、大丈夫。まだ、本気で好きになってないから。
今ならまだ、楽しかった思い出のままいられる。
きゅっと締め付けられたまま痛む胸も、噛んだままの唇も、勝手に流れる涙も、シュリアはどうすることもできなかった。




