17.女神祭2
「おい聞いてる? とにかく、どこか2人になれるとこにでも行こうぜ」
「え、ちょっと! は、離して…!」
「シュリア!」
手首を掴まれたところで、ジルベルトが駆け寄ってくれ、安堵したのも束の間。彼は掴んでいた手を強制的に外すと、ナンパ男には目もくれずにそのままシュリアの手を取った。シュリアはただただ彼の行動に目を見開いているしかなかった。
ジルベルトがシュリアの瞳を見つめたまま、腰に付けていた造花の薔薇を取ると、雪と土で汚れた地面に片膝をついた。
「遅くなってごめん。約束通り薔薇を交換して欲しい。」
シュリアもナンパ男も、先程までジルベルトに言い寄っていた女性陣も、全員が同じ様に口をぽかんと開けている。
真っ白になった頭に最初に浮かんできたのは「なんて絵になるんだろう」だった。そしてやっと、助けてくれる為の演技だと思い至った。これ以上彼のズボンが汚れてしまう前に、何か言わなければ。
「あ、は、は…い」
どうにか出てきたのは、言葉とも言えないような間抜けな声。シュリアは顔が真っ赤になっていくのが分かっていても、どうすることもできなかった。
立ち上がったジルベルトは優雅に微笑んで見せると、流れるような手付きでシュリアの薔薇を取り、胸元のポケットに着けた。そして彼が持っていた青色の薔薇をシュリアの髪に着け、そのまま胡桃色の髪を一撫でした。
「嬉しいよ。ありがとう。」
愛おしそうに彼女を見つめるジルベルト。その姿にあてられた人たちは、パートナーがいたのかとそそくさと去って行く。残されたのは、首まで真っ赤に染めたシュリアだけだった。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとう。でも、ちょ、ちょっと待ってね…!」
シュリアは目を逸らしたまま深呼吸を繰り返した。
ただ助けてくれただけだ。彼にとって深い意味はないはず。彼の声だっていつもと変わりないじゃないか。
「ありがとう、ジルさん。助かった。遅くなってごめんね」
「俺こそごめん。こんなことになるなら、魔除けの為にさっさと交換しておけば良かった」
「魔除けって。それなら私よりジルさんの方が必要そう」
ほら、やっぱり彼はいつも通り。意識したのは自分だけだったのだ。
少しだけ痛んだ胸に蓋をして、横に並んで休憩所へと向かう。丁度空いたテーブル席に買ってきた物を並べ、ドリンクの売り子からホットワインを2杯購入した。この国では18歳から飲酒が可能だ。
お互いにグラスを少し上げると、今日の挨拶は決まっている。
「「女神様に感謝を!」」
そう言って軽く合わせれば、2人とも思わず笑ってしまった。
もう大丈夫だ。例えいつもより鼓動が早くても、それはさっきの動揺のせいだ。
「シュリアはお酒苦手かと思ってた」
「あんまり飲まないけど、嫌いじゃないよ。飲める様になってから短いし。ジルさんはと言うか、騎士の人は皆強そう」
「強ち間違いでもないかな。飲める人はそっちも鍛えられる」
料理は少し冷めてしまったけれど、2人はそんなことちっとも気にならなかった。シュリアがジルベルトの好きそうな物を買ってきたことに気付いた彼は、それが堪らなく嬉しかった。シュリアはジルベルトが着けている緑色の薔薇が視界に入る度に、そわそわと落ち着かない気持ちになった。
ジルベルトは上機嫌にホットワインを3杯飲み、食後のデザートとコーヒーを探そうと席を立つと、人混みが増えていることに気付く。
日暮れが始まると、交差するメインストリートの真ん中に立つ女神像のイルミネーションが点灯される。王宮魔術師3人による魔法での点灯を開始の合図に、子供合唱団の歌から始まって、次々とイベントが催される。歌やダンス、ゲーム大会が開催され、告白やプロポーズをする者まで現れる。その為、夕方から夜にかけてどんどん人が増えていくのだ。
「人増えてきたね。わっ! すみません!」
「大丈夫か?」
休憩所を出た所で人とぶつかった。イルミネーションの点灯前に場所取りをしている人もいるため、メインストリートはかなり混雑している。それが女神像に向かって顕著に現れている。
「シュリア、逸れない様に、その…今だけ腕を掴んでいてくれるか?」
「……え? え、あ、うん、ありがとう。」
ジルベルトが左腕を少し曲げ、肘をシュリア側に離した。シュリアは小さな声で「失礼します」と言うと、添える様に手を置いた。ジルベルトの顔が見られない。
彼はゆっくりと歩き出したにも関わらず、思考停止中だったシュリアは反応が遅れた。思わず彼の腕をぎゅっと掴んでしまい、余計に赤面することになった。
心臓がただただ煩い。
お互いに黙ったまま、休憩所に向かう途中に呼び込みをしていた露店に到着した。コーヒーとカフェオレ、おすすめの薔薇の花びらが入ったドーナツ2つを注文する。
「おっ! 兄ちゃん! 良かったな〜上手くいって! イケメンだから成功すると思ってたけどな! ほら、これはおまけだ! お幸せにな!」
シュリアはやっと、ジルベルトに向けられていた「頑張れ」の意味を理解した。途端に衝撃と羞恥が身体を駆け巡る。
ジルベルトは店主にお礼だけ述べると、シュリアに優しく「行こうか」とだけ告げて歩き出した。
「なんか、ごめんね…」
「大丈夫だ。気にするな」
何てことはないようなジルベルトの声に、シュリアの心臓は少しだけ締め付けられる思いがした。
そうだ。意識するべきじゃない。彼にとっては大したことではないんだから。ただ、スマートに対応してくれただけ。
彼は、私と違って貴族なんだから。
不意に喉の奥がツンとして、ごくりと唾を飲み込んだ。今はせめて迷惑にならないようにしよう。シュリアは顔を上げ、人とぶつからないことだけに集中した。
漸く人混みから抜けて乗り合い馬車の臨時停留所に着くと、素早く手を離したシュリアの様子にジルベルトはかなり心配していたが、彼女は人に酔ったと言い訳した。
ジルベルトと一緒に乗り込んだ馬車は他の乗客が痴話喧嘩を始めてしまった為、とても居心地が悪いまま2人は黙って過ごす。
この後の約束はない。
まだ一緒にいたい気持ちと1人になりたい気持ち、この相反する気持ちをシュリアは持て余していた。
馬車を降り、2人並んで家へと向かう。いつもどんな風に晩ご飯を誘っていただろうか。シュリアは必死に思い出そうとしていた。
「気分はどうだ? 大丈夫か?」
「あ、うん。ありがとう。もう大丈夫」
「そうか。それは良かった」
会話が止まる。どんどん近付く家。シュリアは視線と思考を彷徨わせて何か言わないと、と焦っていた。それはジルベルトも同じだなんて、知る由もなく。
「「あの…」」
「カァ!」
見事に3つ声が重なった。2人は驚いた顔を見合わせ、同時に笑い出した。今までのどこか余所余所しい空気を蹴散らすかのように。
そして、出迎えるかのように生垣の隙間から顔を出すオリーブに揃って感謝した。助かった、と。
「シュリアは何を言いかけたんだ?」
「ふふ、良かったら晩ご飯どうかなって。ジルさんは?」
「似たようなこと。近くに安くて美味い漢国料理屋を見つけたんだ」
「どこら辺だろう? 行きたい!」
良かった。普通に話せている。ほっと肩の力を抜くと、一緒にいる時間をただただ楽しむことができた。
その夜、シュリアは交換した造花の薔薇を自分の部屋に飾った。カーテンタッセルに付けると、自室にいればすぐに目に入る。
その青い薔薇を見ながら、シュリアはイベント会場でのことを思い出していた。
真っ直ぐに自分を見た、群青色のきらきらした瞳。
大きくてごつごつした手。
太くしっかりとした逞しい腕。
優しく綺麗な声と笑顔。
そのどれを思い出してもドキドキして、その度に自分に言い聞かせた。
勘違いしちゃだめだ。そういう気持ちを持っちゃだめだ。
彼は友達。オリーブと同じ、ただの友達。
彼は貴族。そういう立ち振る舞いだって、同じことが起きたら誰にでもするはず。
早鐘を打ったり苦しくなったり、一向に落ち着かない心臓。
シュリアは夜通し平常心を保つ薬を作ろうとして、結局動悸を抑える薬しか作れなかった。




