リディア
いよいよ、その日がやってきた。
間隔が短くなってきた陣痛に、医者や司祭様、そしてパン屋の女将であり友人でもあるジェーンが急ぎ集まってくる。
分娩がはじまるからと先生は男たちを外へ追い出そうとしたけれど、私はユーゴにはずっと隣にいてほしくて。
彼もここを離れたくないから、と私の手を握ってくれていた。
次第に陣痛は強くなり、間隔も短くなっていき、あまりの痛みに冷や汗が流れていく。
我慢できずに彼の手に爪をたてて、すがりつくように握りしめた。
どれほどの時間苦しんだだろう。
「もうすぐ会えるから頑張れ」と、医師とジェーンの指示に従い必死でいきむ。
しんとした空間に赤子のか弱くも力強い声が響き渡った。
途端に全身の力が抜けて、ぼろぼろと大粒の涙が溢れてくる。
喜びでもこんなに涙が止まらなくなるなんて、ユーゴとこの子に出会えなかったなら一生かかってもわからなかっただろう。
ジェーンは「元気で可愛い女の子ね」と赤子を産湯に入れたあと、タオルに包んで私の隣に連れてきてくれた。
ユーゴと同じ亜麻色の髪をした可愛らしい女の子だ。
辺りがまぶしいのか、しょぼしょぼとまばたきをしている。
少しだけ見えた瞳の色は私と同じ黄みがかった緑色。
間違いなく、愛しいユーゴと私との子。
「可愛い……」
小さな手のひらを指でつつくと、きゅっと握りしめてくれて、さらに愛しさが募る。
「レイラ、この子に会わせてくれてありがとう」
ユーゴから、汗まみれの頭を優しく撫でられる。
大きな手があたたかくて心地いい。
すっと目を細めて彼を見ると、汗なのか涙なのか、頬に水滴が一すじ光って見えた。
「ねぇ、ユーゴ。この子の名前は?」
眠ってしまった我が子を撫でながら、ユーゴに尋ねる。
ユーゴは手近にあった紙にペンを走らせ、それを私に見せてきた。
「リディアという名前をつけたいと思っている。リディアはここから遠い異国の地で咲く花でね。闇に染まらず、強く美しく咲くんだ、どうかい?」
「素敵な名前ね。リディアはきっと貴方に似て、探究心旺盛で優しい子になるわ」
紙に書かれた娘の名前を必死に目に焼きつける。
巫女が文字を学ぶことは許されないこと。
だけど、禁忌を破ってでも愛しい娘の名の綴りを覚えておきたかった。
リディアが生まれてからというもの、互いに笑顔が増えて、毎日がさらに鮮やかに色づいた。
泣き虫なリディアに子ども嫌いなユーゴはいつも文句を言っていたけれど、娘を見るユーゴの瞳は、どこか優しく見えた。
「ユーゴ、リディアをみてくれてありがとう。あら……いない?」
買い物の間、ユーゴにリディアを任せていたのだが、リビングに二人の姿はない。
おんぶをして庭をいじっているのかもと外に出てみるけれど、そこにもいない。
そうっと寝室の扉を開けて中を覗くと、ユーゴとリディアは横向きに丸まっていて、同じポーズで昼寝をしていた。
穏やかで優しく温かい気持ちが胸から溢れ、自分の目元が緩んでいくのがわかる。
私もリディアの隣で横になり、ふわふわと柔らかな頬にそっとキスをした。
――・――・――・――・――・――
ユーゴはリディアを大切に思っているのだろうけれど、父親になってからも研究室にこもる癖は抜けず、いつも青い花のことばかり。
優先順位は変わらず、自分の子どもよりも夢で見た青い花が一番上に据えられているようだ。
いまだって、必死にスケッチをしていたと思ったら、目の前の小さな芽を鉢に入れて、すぐにいなくなってしまって……
ユーゴは、私たちのことをどう思っているの?
いまも、研究の援助金のために私たちを側に置きたいと考えているのかしら……
花壇の雑草取りをしながら、深いため息をこぼす。
すると、背負われて眠っていたリディアが眠そうにむにゃむにゃと声を出してきた。
「そうね、大丈夫。きっと愛されているから」
立ち上がってゆったりと体を揺らすと、リディアはまた静かに寝息をたてはじめた。
ユーゴは、あれほど人を入れたがらない研究室に、リディアを毎度のように連れていっている。
娘に愛情がなければ、きっとそんなことはしないはず。
背中から伝わってくる愛しい小さな温もりに、静かに微笑む。
ふと視線を感じて振り返ると、遠くにアントニーが見えた。
彼はどこか悲しげな表情で私たちを見つめていたけれど、彼と話したくなかった私はぷいとそっぽを向いて、存在に気づかなかったふりをした。




